さくら
えびまよ
さくら
小高い丘の上にある桜のたもとに座る。足を伸ばし、君の写真を胸に抱え、思いを馳せる。それから、君が詠った和歌を口ずさみ、その風雅な調べを愉しむ。
私は、日ごとに色褪せていく君に怯えている。共に交わした大和歌が、君との思い出をなんとか思い出させてくれるが、これもいつまで持つか分からない。
陽春の候、少し肌寒い風が吹いて桜が泣き出す。
見上げれば、桃色の雲が一面に広がっていた。
写真をしまって、立ち上がろうとする。軽くふらついて、桜に背中を預けてしまう。
花吹雪に包まれながら、遠くに広がる日本の原風景に詩を詠いたくなる。三角形のわらふき屋根と、合掌造りの集落。
ここの景色は、何百年も前から変わっていないのだろう。この桜と同じだ。
下を見てみると、レジャーシートはすっかり花むしろになっていた。屈んで、恋人のものだった水筒を手にとって喉を潤す。一息つけば、足は勝手に動き出していた。
丘を降りて、平坦な道へ向かっていく。冷たい茶のおかげか、まどろんでいた意識もはっきりしてきた。
観光用に舗装された道をたどっていくと、山なりに曲がった朱色の橋が見えてくる。真ん中まで渡って、手すりに体重をかけて覗き込む。
花の便りが水に流れていく。
一つひとつを目で追って、反対側の手すりへ急いで移動する。
もうどれか分からなくなった花びらに瞳を奪われて、君との思い出が想起する。
君が亡くなって、三年が経った。
思い出は随分と忘れてしまったよ。声と顔は、まだ覚えているけれど、漠然とした不安がずっと心にあるんだ。
君と大学時代に作った、手作りの和歌集だけが思い出を紡いでくれている。
あれだけ一緒にいたのに、もう君とのエピソードはほとんど覚えていない。
*
春前の、まだ肌寒い夜だった。一軒家の自宅に帰って、履きたくもない革靴を脱ぐと、すぐに私室へ入って着替える。
大学を卒業してばかりの私は、まだ慣れない仕事に苦労して眠い目をこすりながら食卓につくと、夕飯を食べていた。
机に置いたスマホへ通知が入って、電源が勝手につく。ちらりと目を落とすと『桜が亡くなりました』と、君のLINEからメッセージが飛んできた。
もぐもぐと動いていた顎が、徐々に速度を減らしていく。
やがて、咀嚼が止まった。
私は母と父にそのことを伝えると、ふわふわした気持ちのまま病院へ車で向かった。
道中、私は無だった。不安でもなければ、悲しくもない。寂しくも、怒りもない。
映画や漫画、アニメ、小説で見るような感傷的な気持ちには全くならなかった。
一時間ほど車を飛ばして、着いた頃には夜の九時だった。初めて来る病院に四苦八苦しながら、なんとか玄関を見つける。
コロナウイルスの対策で、病院に入るのも一苦労だった。入り口から入ってすぐに体温を測り、渡された紙に住所と名前込みで書きこんで、首からぶら下げる。
君の親戚が出迎えてくれた。二人のおばちゃんたちだ。名前も顔も分からない。彼女たちに連れられて、暗い病院の廊下を歩いて、どこへ向かうのかも分からないまま、とにかく後ろを追っていく。
暗い道を歩いていると、急に止まった。目的地についたのだ。親戚の人は、壁と同じ塗装をした、一見、普通の壁にも見える扉を開けた。ものすごく分かりづらい壁だった。
扉には『関係者以外立ち入り禁止』と書いてあった。中は、ちょっと長い廊下が続いていて、明るかった。
廊下の左側、手前と奥に一つずつ部屋がある。手前に、霊安室と書いてあった。急に、現実感が芽生えた。
かといって、肝が冷えたり、頭が真っ白になるような感覚はない。やはり、感情の起伏はない。
奥の部屋に入ると、病院のドラマでよく見る、急患を連れていくタイヤ付きの小さなベッドに君が寝ていた。
部屋はすごく明るかった。君の寝ている部屋の隅に扉があって、そこは小さな和室だ。君の親戚同士が明るい声で話していた。雑談のようだ、重苦しい内容じゃない。
私は"そういうもんなのか"と思った。
連れてきてくれた、親戚の人が「そこにいるよ」と言ってくれた。
私は君を見た。
無だった。ずっと無だった。
ひと目見た。それでも無だった。
心臓の鼓動は早くなった。理由はわからない。
まだ無だった。まだなにも感情の波はなかった。
でも、心臓の鼓動は早くなった。怖くもなんともなかったのに、君を見た途端、勝手に心臓が早まった。
はじめての出来事だった。心は静まっているのに、心臓の鼓動が早くなったことなんて今までになかった。
今にも動き出しそうだった。動かないし、唇に血も通っていない。少し痩せたこと以外に何の変哲もない。
"動き出しそうだ"なんて、よく聞くフレーズだ。使い古された表現だ。なのに、そう言った人たちの気持ちがよくわかる。
動き出しそうだ、と書いた人たちは死に目を知っているのだ。
親戚のおばちゃんたちが、明るい声で君が喋ったように言葉を連ねる。
「みんなうるさいね、静かに逝かせてくれーって感じだよね」
「ベッドも狭いね、窮屈だよね、桜ちゃん」
おばちゃんたちから、君が死ぬ間際に、なにを言っていたのかを聞いた。
妹の大学進学が上手くいくかを心配していたらしい。
私の仕事が長続きするかどうかを心配していたらしい。
君の母親がやって来た。私は頭を下げて、挨拶を交わす。これで会うのは十回目ぐらいだろうか。
彼女は、君の髪の毛を何度も撫でた。私は"死んだ人に触ってもいいんだ"と思った。
私は触れなかった。許可なんていらないはずなのに、君との別れをそこで言わなかった。
みんな明るい。声のトーンが明るい。
目を腫らしている人も明るい。
"そういうもんなんだ"と思った。
"明るく見送るもんなんだ"って、そう思った。
君の顔は寝ている顔だった。目を閉じて、眠っている顔だった。
どこかで似たような顔を見たことがあった。
どこだっけな、って思っていたら葬儀屋がきた。
葬儀屋は、君のタイヤ付きベッドを持ってどこかへ行くようだった。
親戚が集まって邪魔だ。その肩同士の間を、少しだけ空いた隙間から、君の顔を最後にちょっとだけ見た。
思い出した。
一年前、君と旅館に泊まったことがあった。
あのとき、君は疲れて旅館の椅子に座ってくたびれていた。
そのときの顔だった。
笑って目を細めている時の顔じゃない。
早く寝たい、と思っている時の顔だった。
私は"現実が漫画やアニメ、映画の世界とは程遠いんだ"と、気がついてしまった。
君は『すこやかな、幸せそうに眠っている顔』ではなかったんだ。
表情を気にしていなかったのに、それが分かった瞬間に、目に涙が溜まり始めた。
まばたきを何回もして、そんな涙を必死に飛ばそうとしても全然意味なかった。
病気で死んだんだ。
"死ぬ時に、いい顔で死ねるわけないわな"って思った。
葬儀屋が君を連れていくのを、私はボーッと見ていた。
君と出会えなくなってから、一ヶ月とちょっとだった。
コロナ禍のせいで、病院に入って面会ができなかった。
だから、私は君が死ぬところも、それどころか病気で寝込んでいるところも一回も見ていない。
現実感が、まだない。
次の日、通夜に向かうまでも、変わらなかった。特に何も思わない、無だ。
昨日、少しだけ泣いたあのときでさえ、感情の起伏はなにもなかった。
印象的だったのは、君の疲れ切った顔と移送用の安っぽいベッドだけだ。
私は電車で葬儀場にやってきた。会館は黄色っぽい内装で、上品な感じだった。エレベータに乗って三階に行き、受付を抜けると、大きな観音扉が閉まっていた。
その横の廊下を抜けると、待合室だ。昨日と変わらない明るい雰囲気で、君の親戚たちがいた。
礼服を着直したり、ネクタイをチェックしたり、身だしなみを整えながら、時間が来るのを待つ。
君のいとこの子供がうるさい。赤子と三歳児だ。
病院で会ったおばちゃんたちに連れられて、君の顔を見に行った。
死化粧をしていた。唇にはやりすぎなぐらい紅い口紅がしてあった。
昨日のように、涙が出るほどではないが、感傷的になった。
やはり、周りで冷やかす親戚がいたから昨日は泣いたんだろう。君が喋っているような振りをする、やっていいのか悪いのか微妙なラインの悪ふざけのせいだ。
葬儀式場で大人しく座っていると、坊さんがやってきた。アナウンスも鳴った。念仏は、なにを言っているのかよく分からない。
お経を読み上げている間も、いとこの子どもたちはうるさかった。
仕方がないとわかっていても、ちょっとだけ嫌だった。
通夜の祭壇にかざられた、君の写真の前にある花がすごく綺麗だった。
まるで、君の写真を目がけて花でウェーブ状の道を再現していた。緑色の、草のようにも見える花が君へ続く道を、その横を舗装するように白い花が飾っている。
ところどころにある赤と桃の花が、可憐だった。
四十分ほどで念仏は終わった。腰と尻が痛い。
周囲の様子を伺いながら、動いても構わないのを確認すると、凝り固まった体を精一杯、天井へ向かって伸ばす。
相変わらず、無だ。
いつもより体が疲れてる、慣れない礼服や革靴のせいだ。通夜が終わったことに嬉しささえ覚える。
親戚たちが、いの一番に立ち上がって君の顔を見ていく。出遅れたつもりはなかったが、私は動けなかった。
君の顔を見ていた親戚たちが、さっきの待合室の方へ逃げるように散っていき、にぎやかな声が聞こえはじめた。
私はやはり、これに違和感があった。
"そういうもんなんだろう"と、無理やり納得していた。
"死者への手向けとして、明るく振る舞うもんなんだろう"って。
私は待っていた。君の棺に集っていた人たちがいなくなるのを待っていた。
最後から二番目ぐらいだった。もう一度、君の顔を見に行った。
死化粧をしている。
さっきも見た。
すごく、苦しそうな顔だった。
昨日よりもずっと苦しそうだった。
知っていたよ。聞いていたよ。君が病気になってしまったこと。メッセージアプリでちょっとだけやりとりしたよね、入院するって。
"ちょっと会えなくなるだけだ"って思ってたよ。
"そんなに心配するもんじゃないよな"って思ってたよ。
涙が、止まらなくなった。
涙が喉を伝って、水気の多い鼻水が出て、悲しくもないのに泣いてしまった。
それでも君の顔を見続けた。
たくさんあったはずの君との思い出がほとんど見つからなかったからだろうか、最後にこれでもか、と見続けた。
待合室の方へ行って、ティッシュを全部で10枚ぐらい使って拭き続けた。ひとしきり泣いても、まだ涙は出るような気がした。
君の顔をもう少しだけ見たい気持ちもあるけれど、泣きたくないから見に行けなかった。
親戚に見られるのが恥ずかしいからか、明るく出迎えてやりたいからか、理由は分からない。
ひとしきり泣いたら、私は君の親戚一同に挨拶を交わして、別れた。
明日でようやく終わりだー、なんて思っていたよ。
君との別れがどうこうとか関係なく、やっぱり葬式って面倒くさいよね。
葬式になっても、相変わらず私は、平生としたままだった。
同じ服を着て、式場で待っててさ。坊さんが念仏を唱え始めると、眠かったのが嘘のように消えていくんだ。
それが終われば、最後に棺へ、親戚の人たちが君の好きだったものや身につけていたものを入れていく。副葬品って言うんだってね。ちゃんと、私も持ってきたよ。
親戚の人たちは、まず服を入れてた。デートで見たことのある、君が好きな服装を入れていく。
それから、お菓子。せんべいばかりで笑っちゃって、そしてこれでもかというほどの花。
本当に大量の花を、君の遺体の周囲に、所狭しと飾っていくんだ。
途中で、君が持っていた家族写真や、私と一緒に取った旅行写真を入れていく。君の部屋で見たことのある、コインを抜いたコインコレクションの本に、そっちはよく知らない、君が多分気に入ってたであろうカレンダーを入れて……そして、また花を添える。
口紅のついた唇へ、水の注いであるコップから新緑の葉をつけて、葉っぱ越しに水を飲ませる。
親戚の人たちが副葬品を入れて、最後に水を飲ませたあとに、私は桜の花を持ってきた。
君の顔の周りに、桜の造花を入れていく。
だって、まだ季節じゃなかったから、造り物しかなかったんだ。
すべての儀式は終わり。
これで最後の面会だ。
君の顔は昨日と変わらない。
やはり、少しだけ、涙が出た。
*
背中が痛い。いつの間にか、眠りこくっていたようだ。
長い夢を見ていた気がする。
レジャーシートの上で目が覚めると、体中に桜の花びらがくっついていた。
辺りはすっかり暗く、この一本桜の周りにある僅かな電灯ばかりが私を照らしている。体勢を変えて敷物に座ると、太ももに自分の拳を押し付ける。
"もう、帰らなくては。明日も仕事がある"
震える体をごまかすように立ち上がり、湿ってきた目を指でこする。
荷物を片付ける前に、その場から離れて夜桜を見上げる。
見事な、一本桜だ。電球が切れかかっているのか強くなったり、弱くなったりして揺れ動いていて、そんな光に照らされた桜の花びらは、妖艶に透き通っていた。
まるで、息をしているみたいだった。
「桜、また来年ね」
その瞬間、風が強く吹いて、大きな葉擦れとなって鳴り響く。
彼女からの返事を聞くと、私は頬の力を緩めた。
荷物をすべて片付けて、持ってきた小さなカバンに詰め込む。
こうやって、花見に来るのも、あと何回だろう。私が君を覚えているのは、あと何年だろう。
そんなことを考えながら、カバンを背負った。
君より好きな人ができるかもしれないけど。
頭がボケて、君を忘れるかもしれないけど。
忙しくて、花見に来られないかもしれないけど。
きっと、君を愛し続けよう。
親愛なる桜へ捧げる。
『花いかだ流れていにし君のごと時がたつとも忘るころなし』
来年も詠いに来るね。
さくら えびまよ @text
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