擬音か刃物か?

 つまらねぇ人間なりに“ドス”を考えたことがある。

 そう呼ぶにふさわしい感情や出来事を味わって(クソ不味かったが)辟易して、こう、前の話で前述した通りつまらなくなった人間にとってはそこそこ重要に感じたのだ。

 ドス黒いといえばただの不透明で濁った擬音を現す接頭辞の「ドス」になるのだが、ドスが効くと脅すためのもの、懐刀になる。

 ところで、つまらねぇ人間というのはわたしにとってはおしまいの人間と同位相にあると考えている。

 一番つまらないけど一番生き残りやすい。

 友人に先立たれたのもなぜか納得がいく、そして自身に対する皮肉なようなものすら感じる。


 もう、楽になりたい。


 ただ、それは死よるものではないという前提だけはここでおさえておく。

 頑張るのが億劫になるということなのだ。

 そのために余計なことはしない。

 たとえ友が自ら消えても、それ以外何もない。綺麗に消えることができたんだね。母なる大地は君のものになったんだね。と、それくらいしか思うことはない。

 

 あいつは超人でわたしは末人。

 

 そしてここで、わたしは自分にある“ドス”が一体なんなのかという考察にただじっと瞳を傾けてみることにする。


 結論から言ってしまえばどちらとも言える。


 血で黒く錆びついた懐刀、みたいな。


 全くもって使い物にならないのだ。

 虚無で無価値。

 

 研げばまた使えるのかもしれないが、また血に濡れ、錆び、それを永遠と繰り返す。

 そこに価値などないにしてもきっといつかは忘れてまた懐刀を振り下ろすのだろう。

 そしていつかその無駄な行為に気がついてまた錆びていく。また研ぐ。

 

 ドス黒い感情というのは一種の激情かつ感情の懐刀であるが、つまらねぇ人間にとってはあくまで人間の性として持ったり溢れさせることはあっても、限りなくそれは無駄なことなので結局は和平に持っていく。

 そしてその繰り返しが同じく無駄に感じる。

 それが無限に繰り返されていく。


 しかし、人間のスケールでいえば限りなく0に近い収束と、極限に限りなく近い発散が繰り返されているわけであっても、虚無が在るというこの矛盾だけがどうにも納得がいかないのだ。

 なぜ餓えるのか。なぜ虚無に感じるのか。


 しかし、それを考えるのはあまりにも無意味すぎる。


 なぜならそれが完全にわかったとしても我々にはどうすることもできないのだから。

 

 と私は予想する。具体的な根拠はない。直感だ。


 ただわたしにわかるのは、今、腹に抱えてる逸物は何かと聞かれたらそんな“ドス”ですと無意味な回答をするくらい。

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