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昔から星空を眺めるのが好きだった。
今は独りで眺めるばかりだけど、昔は幼馴染がいつも隣にいたのを覚えている。
彼女は、僕にはもったいない。だからこそ、いまはいない。
空を眺めていると、自身の空ろを見ている気分になってくる。どこにも行けやせず、どこにも居場所が無い。僕の居場所は誰も居ない一人暮らしの借りアパート、その畳に敷かれた万年床だけだと、本気でそう感じる。
家のタンスを開けると、白装束を見つけられるだろう。それは来るいつかの為の備えだ。
僕の人生が開くとしたら、勇気を持った時だ。その時には僕だって決断して見せる。
道具はなんだっていい。決断が重要なんだ。今はまだ、こころの準備が出来ていないだけだ。そうやって、逃げ続けてきた。もしかしたら、死ぬまで変われないかもしれない。最後の時まで逃げ続けて、挙句に後悔ばかりを募らせたままあっけなく死んでしまうのかもしれない。無用の長物となったそれは、親族からも見放されて孤独に死んでいった僕の遺品なぞだれも関心も持ってくれないだろう。それがある意味は、遺書ですらなく。ただの虚勢の意味すら持てず、無価値に忘れ去られていくのかもしれない。そうなればおしまいだ。文字通り、その後なんて考える必要が無い。そのために生きてきたし、それを適える為の備えだった。ただ、病気や寿命に逃げるのは許されることではないだろう。そこまで逃げ続けてしまえば、僕は死後の世界を体験することになるだろう。安寧は遠のき、苦しみだけが停滞する。
何もかもおしまいだ。
今でも花倉を夢に見る。最初で最後の僕のガールフレンド。彼女は餡子の好きな女性だった。こしあんにこだわりがあるそうで、僕が三本入りのお団子につぶ餡子が乗ったものを買っていくといつも叱られた。こしあんはメジャーではないというと、烈火のごとく怒った。
時折、どうやら一本だけ持ち出したらしい父親の煙草を咥え、僕に火をつけさせた。たらふく紫煙を吸い込んだあと、大きくせき込んだ。そして僕に残りを咥えさせた。僕はただ恍惚とした感情を持て余し煙草を勢いよく吸い上げては、同じようにせき込んだものだ。
彼女は、たびたび僕を学校の裏山に呼び出した。山の頂上付近の開けた草原に僕が急いで到着すると、彼女はいつも仰向けに寝転んで待っている。隣に腰を下ろすと横っ腹を人差し指で突き刺して「図々しいわ」がいつものルーチンで、僕はその後彼女足元に座りなおす。ちょうど彼女の靴が僕の頭を踏める感じに寝転ぶと、彼女は子供のように地団太を踏むように何度も頭を踏みつけた。ピンヒールに履き替えているときは、ルーチンはしない。最初から足元に頭を座らせた。
大体いつも暗いからパンツは見えなかった。
そしてある日、彼女はいなくなってしまった。
僕は高校を中退後、フリーターとしてアルバイトで食いつないでいた。
そのバイト先の客に、彼女が居たのだった。彼女は僕と同い年で、当時大学二回生だと言っていた。なんとかアプローチを繰り返し、いろいろな条件を飲んでお付き合いを始めることが出来た。それから四年もの間、あんな日が来るなんて僕は思っても居なかった。彼女は突然、金髪のロングヘアを黒染めショートカットにし、スーツを着てやってきた。いつもの親し気の合った砕けた口調は鳴りを潜め、硬い言葉を僕に投げつけるようになった。彼女に何があったのか僕にはまったくもって見当もつかなかったが、最後に
「ひさしぶり。私、就職するの。それでお別れを言いに来たわ。今までごめんなさい。貴方は下品だったけど、私にやさしくしてくれた。付き合い初めに言ったこと覚えてる? セックスはしないって。でもね、これで最後になるかもしれないって思ったら、私アナタとしたいって思えたの」などと気色の悪いことを言ってきたので、怒って帰してしまった。あれ以来だ。彼女とはもう会えていない。
僕はあれから人と話すことすら嫌になった。サービス関係の仕事をきっぱりやめ、工場での仕事に切り替えた。それでもウルサイ輩は居るもので、とうとう収入源は内職一本になってしまった。どうにかならないものかと、趣味の小説を賞に応募してみたら警察が来た。原稿は帰ってこないし、なぜか犯罪歴が出来た。僕が何をしたというのか。
途方に暮れてしまって、生活保護を申請しに行くと「親に知らせるぞ」と凄まれ、泣く泣く逃げ帰った。
内職もなくなって、とうとう家賃も払えなくなった。
玄関にバリケードを張ってから、大家が押しかけてくることがなくなった。かと思ったら、今度は警察がサイレンを鳴らしている。
どうしてこうなったのだろう。僕にはまったくもって見当もつかず、こうなる原因をなにも持っていないように思われた。だが現実として、終わりはそこまでやってきている。刑務所になんか行けるか。そうでなくても、路頭に迷わされるのは目に見えている。そうなれば刑務所の方が飯も出てくる分贅沢というものだ。僕の人生ではたいてい、思ったよりも悪い方向へ行きがちだ。もうおしまいだ。どうにもならない。
それならば、と思った。―――今度こそ、やってやる。
僕はタンスから白装束を引っ張り出す。ゆっくりシャワーで身を清め、白装束を身にまとった。
台所へ向かい、戸棚から包丁を取り出そうと探す。が――無い。料理なんてしない独身の家に、調理道具があるだろうか。自宅であるが、失念していた。
これこそ、どうにもならない。
布団の上に座禅を組み、どこかに刃物が無いか思案した。が、無いとの結論に達した。仕方ないので、風呂場の鑑を割ってかけらを拾った。そこまで鋭くない。縁を指の腹にあててみてもまったく切れない。だが、切先の鋭さはある。腹を裂くだけなら問題ないだろう。トイレットペーパーで持ち手を巻き、持ち直す。胸襟を開き、切先を腹にあてる。あとは突き刺すのみである。大きく息を吸い、吐きつつ鏡を手前に引き寄せた。が、刺さらない。そのまま横に動かしてみたが、蚯蚓腫れが一本浮き上がっただけ。
切れはしなかった。
もたもたしていると、バリケードが突破された。
僕はあっけなく捕まり、ホームレスが始まった。
そしてこれまたあっけなく、僕は食あたりで腹を下し、脱水症で死んだ。
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