第2話 深まる夜に会話は弾む

「あの、お酒飲める?」

 思い出す限りではまともな女性とまともな会話をした覚えは無かった。おそらく人生で一番、身体的にも精神的にも女性とお近づきになれるはずの学生生活の中でも、女性と和気藹々と会話をした覚えはない。常に周りが薔薇色であるのに対して私は灰色だった。その結果私はクラスで目立つ存在となり、そんな私を受け入れてせっかくの薔薇色の学生生活を濁らせようと考える酔狂な人物は残念ながら私の周りにはいなかった。

 見て分かる通りおおよそ女性とは縁のなかった人生だが、それでも縁さえあれば百戦錬磨の色男になれるだろうというのが私の私に対する評価だ。つまり、今までは偶々運悪く女性との縁に相まみえることは無かったが、何かの拍子にでも女性と関わることが出来れば私は薔薇色を手に入れることが出来るだろうということだ。私の潜在能力にはまだまだ期待の余地がある。本気を出せば女性の一人や二人、造作もない。しかし、いくら薔薇色を手に入れようと、如何せん灰色に染まっていた時期がこれまでの人生の半分を占めるほどに長いのでせっかく薔薇色を手に入れても染みついた灰色が濁らせてしまうのは目に見えている。だが、私はそれでも構わないと思っていた。むしろ、多少汚れていた方が良い。着飾ってない感じがするし、そちらの方が自然体に近いともいえる。同じ薔薇色でも、私は現実的な薔薇色を好むのだ。

 今まさに私の元へ薔薇色が訪れようとしている。隣を見れば凛と伸びた背筋、儚げに伏せられたまつげ、端正な横顔に腰まで伸びた長い黒髪、百人が見れば九十九人が美人と答えるであろう美少女が座っていた。ちなみに残りの一人は神からの使いと答える。私のように。とにかく、そんなような少女が隣に座っているのだ。何も起きないはずもなく、やっと巡ってきたこの千載一遇のチャンスに私が何も起こさないはずがない。そして私は長考の後、薔薇色への第一歩を踏み出し隣の彼女への第一声を響かせたのだ。それが、冒頭の一言である。彼女に対してのその第一声は我ながら会心の出来だと思った。学生時代の自分の言動と比較しても、やっぱり会心の出来だと思った。

 私の声は思いのほか夜に響いた。それほどまでに周りは静かだった。耳を澄ませば隣の息遣いが聞こえてくるくらいの静寂に私たちは包まれていた。なので、私の問いが余韻となって消えていく様は物悲しさを誘った。

「……」

「……」

「……」

「……」

「……あの、お酒飲める?」

 無言。延々と続いていくかのように思われた無言の空間にさすがの私も居心地の悪さを覚えた。隣の少女は私の言葉に反応する様子もなく、この空間に気まずさを覚えている様子もない。ためらいがちに聞いた二度目の問いにも何の反応も示さなかった。私は無視をされていた。

「飲めない、感じか」

 辛かった。彼女は私を何だと思っているのか。例え酔っていようが、靴を履いていなかろうが、無視は辛い。私だって人間なのだ。

 考えてみれば、この場合彼女の方が著しく人間性を捨てた薄情者の可能性もある。まるで自分は機械仕掛けの人形だとでもいうようなその姿を見た私は彼女がロボットである可能性を考慮し試しに何か命令を口にしてみることにした。

「私の靴を探してこい」

「何ですか?」

「あ、いや、なんでも……」

 私のひどく不謹慎な思考の末に放たれた言葉には返る言葉があった。それは正真正銘彼女の言葉で、彼女の口の動きと共に吐き出されたものだった。

「先程から何か言っているご様子でしたが」

「聞こえてたんかい」

「すみません。私に話しかけてきているとは思わず」

「独り言を言っているように思えた?」

「はい。独り言かと」

 正面から見た彼女は九十九人が思った通り大和撫子然とした美人だった。色白の肌に健康的な色をした淡い赤色の唇。凛々しい目つきの中にある黒い瞳は私の視線を掴んで離さなかった。そんな彼女の瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた私は強引に視線を切り、少し土で汚れた自分の足を眺めることに注力した。

「こんな夜中に一人公園で独り言を呟くような奴に見える?」

「見えませんね。私にはあなたは何にも見えません。今のところは」

「何でこんな辺鄙な場所へ? しかも一人で」

「その質問、そっくりお返しします」

 私はこの上々の滑り出しに内心喜んだ。

「私は酔った勢いでここまで来てしまってね。酔いが冷めるまでこうしてベンチに座っているわけだ」

「そうだったんですか」

「それで、あなたは?」

「ここに来た理由ですか? そうですね、なんとなくです」

「なんとなく、か」

「はい」

「ところで、お酒飲める?」

「飲めますよ」

「じゃあ、これ」

「何ですか? これ」

「自家製の酒」

「自家製……」

「飲めば程よく酔えるし、傷にかければ忽ち癒える。優れ物の酒だ」

 よくよく考えてみればいかにも詐欺臭い文言だったが、嘘は言っていない。

「ありがとうございます。いただきます」

「じゃあ、口開けて」

「はい?」

 私は瓶の栓を空けると淵に口が付かないように配慮しながら、慎重に己の口に酒を流し込んだ。やはり自分の酒は格別に美味い。

「ほら」

「いや、その……」

「飲まない?」

「いえ……飲みます」

 彼女は顔を上に向けてその小ぶりな口を餌を待つひな鳥のようにかわいらしく開けた。私の心に僅かな父性が宿った気がした。

「んっ、美味しいですね」

「そうでしょうとも」

「お酒はずっと造っているのですか?」

「ガキの頃からずっと造ってる」

「そんなに幼い時からですか。すごいですね」

「失敗を繰り返して、やっとたどり着いたのがこの酒でさ」

「失敗ですか……まさかとは思いますが試飲とかしてませんよね?」

「いや普通にするよ。いろんな酒を飲むのも立派な経験になるから」

「ちなみに、具体的にはいつから造り始めたのですか? その、お酒は」

「八歳くらいかな」

「そうですか」

 思えば懐かしい記憶だ。灰色の学生生活。薔薇色の横で私が何をしていたかと言えばそう、酒造りだ。

「その話は掘り下げないでおきましょう」

 残念だ。酒を語り合えるようになるにはまだ早い、か。

「そういえば、なんとなくここに来たって言ってたけど、ここに来るまでは何してたんだ?」

「別に何もしてないですよ」

「そんなことは無いだろ。ほら、散歩をしてたとか飯を食べてたとか、何かないのかよ?」

「どうしてそんなことを聞くのです?」

「気になるから」

「気になる、ですか」

「ま、言いたくないなら言わなくていいよ。ミステリアスな美女は嫌いじゃない」

「なんだか、あなたは不思議な方ですね」

 彼女は私のことを不思議だと言った。その発言に含まれる意図を推し量り切れなかった私ではあるがマイナスなニュアンスでは無いことを切に願うことにする。見れば彼女の表情はあまり変わらず表情筋の存在が疑われるほどにその顔からは感情を窺うことは出来なかった。まだ精巧に作られた蝋人形の方が感情表現豊かであろう。そして何よりも不思議なのはあなただ、と伝えたい。たった数回の会話を交わしただけで十分に分かった。彼女は無事にコミュニケーションが取れているのが不思議なくらい何処か人間離れした雰囲気を纏っているのだ。彼女の声音は透き通っていて、聞いているだけで気分は自然と晴れやかになり、彼女の瞳を見るだけで己の心の内を覗き込まれているかのような錯覚を覚える。吹けば消えてしまいそうなその儚さも相まって、彼女は本当に神の使いなのではないかと改めて思ってしまうほどだった。

 彼女の造形は人の心に強く作用するものだった。神の使いは冗談にしても、その容姿は神から賜ったギフトといってもいいだろう。

 彼女は、私の目から見れば、それほどまでにだった。

「実は何もしていなかったというのは嘘なんです」

「嘘?」

「はい。嘘です。そして、なんとなくここに来た、というのも嘘です」

「いや、何故そんな嘘を……」

「説明するのが面倒だったので、つい」

「そんなに面倒なことですかね」

「私にとっては」

「じゃあ改めて聞くけど、何でここに来たんだ?」

「調査をするためです」

「調査?」

「はい。もうすぐここに隕石のような何かが降って来るので、その調査に」

「は?」

「こんな静かな夜に、物騒です」

 私は少しの間混乱した。それは疑いようもなく彼女の口から出てきた「隕石が降って来る」というワードのせいだろう。何故いきなり彼女がそんな荒唐無稽な冗談を言ったのかその真意は定かではないが、何処か浮世離れした彼女の口から出てくるだけで僅かな説得力が生まれるものなのだから容姿が良いというのはそれだけで得である。

「何の冗談だ。少し信じかけたぞ」

「冗談ではありませんよ」

「いや、でも隕石なんて」

「正確には隕石かどうかは分かりません。隕石か、あるいは隕石に類似した何かです」

「ちょっと待て、ちょっと待て。本気で言ってるのか?」

「私はいつでも本気ですよ」

 私の胸中に少しの不安が過った。私が思っていた以上に容姿のもたらす効果は絶大らしい。

「私の師が言っていたのですが」

「し?」

「そうです。私を造形した人形師の事です」

「造形? ちょっと待てどういうことだ」

「こういうことです」

 次の瞬間には私の頭の中には最大瞬間風速計測不能の警鐘が鳴り響き、この目の前の奇怪な状況に説明をつけようと過去の記憶を探り始め、それでも説明のつかない光景に私は愕然とした。この世の人智を超えた狂気的と言ってもいいこの光景は私の頭を乱れさせるのには十分だったのだろう。といっても私にとってはこの世の大概が人知を超えた何かに含まれるのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。首の皮一枚かろうじて残った私の理性が必死に私の発狂を押さえているがそれも時間の問題だろう。子豚を追い詰める狼のごとく徐々に喉元にせりあがって来る叫びの大波はもう私の理性では止められそうになかった。

 来たる余韻に備え大きく息を吸い込む。ここで一番恐ろしいのが、この状況に置いてなお彼女の表情が何一つ変わっていないことであった。本当に彼女は人間か疑いたくなるのを通り越してもう彼女は人間ではないことが判明したため一応納得のいく状況ではあるのだがそれはそれで問題である。人間である私にとってこれは刺激が強すぎるのだ。

 何が起こったのか端的に述べれば、彼女の左手には彼女の右腕から切断された右手が握られていた。彼女の切断された右手は彼女の左手に握られていた。彼女は己の手で己の手を持っていたのだ。

 そして、私の正気は決壊した。

「はっ—―」

 宵を吹き飛ばす勢いで酔いが吹きとんだ。周りが静かなだけあって私の絶叫は夜闇に強く木霊した。

 理解の及ばない光景に精神が音を立ててすり減っているのを感じながら、それでも私はすでに塵とかした理性の残滓で考えた。

 彼女は一体何者なんだ、と。


 

 


 


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