こういう世界

天ケ谷 遼太郎

第1話 寒空の下で酔いは回る

 夜風に当たりながら公園の禿げたベンチに座ると、その解放感に何故か身震いが起こる。いい大人になっても自分以外誰もいない空間には不安を覚えて、かつての頃のように緊張は走るものだ。ところがどっこい、今夜はそうでもないらしい。何やらわけありげな少女が、私の隣に腰掛けていた。凛と伸びた背筋、優しく伏せられたまつげ、腰まで伸びた黒い髪の毛が夜によく溶け込んでいる。そんな可憐な少女が何用でこんな辺鄙な公園のベンチに腰かけているのか。不思議でならなかった私は彼女の雰囲気から彼女が神からの使いなのではないかと疑った。ばかげたことを言っていると馬鹿にするのは構わないが実際に彼女の頭上に光の天輪を見たのだから根拠には十分だろう。それに加えて彼女は後光も携えていた。今夜は冷えていたので知らぬ間に凍死していてもおかしくはない。きっと彼女は私を迎えに来た天使なのだ。と思ったのもつかの間で彼女の天輪とその後光の正体が彼女の真上からこのベンチを照らす公園灯によるものだと気づいたときにはさすがの私も酔いが覚めるかと思った。できれば酔いは覚ましたくない。彼女との会話のきっかけを掴むためにこの切り札を捨てるわけにはいかなかった。たった今私の背後で道化のジョーカーに嘲笑された気がしたがそんなものは気がしただけで、それこそ酔いのせいにしてしまおう。して、彼女との会話の第一歩を踏み出すための切符は手にした。踏み出した足に靴は無かったが、裸足も似合う男だと彼女へのアピールにしようと思う。そう私は大概靴を履いていない。正確には履いた記憶はあるのに夜になるといつの間にか消えているのだ。足を包む靴に足が生えるわけがないのだが、しかしそれでないとこの謎の現象に対しての説明がつかないだろう。そんな私は常に靴を履いていないものだからすっかり裸足の似合う男になっているはずだと自負している。理屈がなっていないと思う人がいるかもしれないが世の中には足を生やす靴があるのだ。私に文句を言う前にぜひともそれに理屈をつけてほしい。さて、そんなこんなで彼女との会話の時が来た。果たして、こんな真夜中に少女と何を話せばいいのやら。少女といっても二十歳くらいの女性と共通する話題を私が持っているはずもない。流行の一つでも把握していればいいのだが私の嫌いな言葉ランキング第三位にランクインするほどに私は流行という言葉が嫌いだった。

 横を見れば何やら物憂げな表情を浮かべた彼女が座っている。

「あの、お酒飲める?」

 だから、彼女に対してのその第一声は我ながら会心の出来だと思った。学生時代の自分の言動と比較しても、やっぱり会心の出来だった。



 今宵は酔いが回って良い気分だった。先程から千鳥足というお題目で舞いを舞っているが、なかなかどうして上手いじゃないかと自分が少し誇らしくなる。しかし、自己肯定感に満たされているときは大概ろくでもない勘違いをしているときで、それを自覚しているからこそ、観客に舞を見せることはしなかった。そう、自己が自己によって肯定されればいいのだ。他人の批評は魚の小骨、骨付きチキンの骨、刺身に乗ってる菊と同じで捨て置くのが一番いいのだ。頭に巻いたネクタイも右手に持った小包も自分を彩る衣装の一部。誰もが憧れるきらびやかな衣装に包まれると、心は晴れやかになり、心なしか自分が華やかになったような気がしてくるものだ。だが、その煌びやかさも夜の闇を照らすほど煌めいてはいないらしい。なんだ私には夜を照らす力がないというのか。いいだろう、そのような諫言も今夜は甘んじて受け入れよう。だが、考えてみれば世の中のアイドルやテレビの中の住人はその輝いてる己を見せることで人々に希望を与えているように見えるが、本人自身が特に輝いているわけではないではないか。つまり、人が人に感じる輝きとはそれすなわち錯覚で、第三者の目を使えば輝きなどいくらでも調整できてしまうということだ。そう考えれば私は私の目から見たこの闇を照らすことは出来ていないが誰かの目から見た世界は照らすことが出来ているのではないか。考えればあたりまえのことなのだが自分が誇らしくなった。

 もう一度言うが意味の分からない自己肯定感に満たされているときは大概ろくでもない勘違いをしているものだ。


 舞いを舞うのにも疲れてきたころ。怪異にでも憑かれたかのような足取りで向かったのは辺鄙な場所にある公園だった。しばらく歩いて行くと公園灯に照らされたベンチに座る二人の人影が見えてきた。若い男女だった。年の瀬は男は二十代後半、女は前半といったところか。今私はベンチから少し離れた木々の中に身を潜めている。私の長年の勘からすればあの二人の間には何か特別なものが芽生える気がしていた。ならその邪魔をするわけにはいかない、そしてその行く末を見届けたい、と今こうして草にまみれているわけである。

「何かありそうっすね」

 横を見れば私と同じように草むらに身を潜める人物がいた。いつからそこに居たのか皆目見当がつかないがこちらを振り向いた顔に土が薄く付いているのを見るに私が来るよりも前にここに来ていたのだろう。

「あれは何かあるだろう」

 私は同意した。フードを被っているのでいまいちこの人物が男なのか女なのか判別できなかったがその声音から私はこの人物は男だと判断した。

「まだどちらも行動は起こしてないみたいだけど」

「焦るもんじゃないからな」

「おじさん、恋愛経験は豊富?」

「豊富だとも」

「今まで付き合った女の人数は?」

「高校、大学とで二十人はいたな」

「へぇ。付き合って別れての繰り返し、ってこと?」

「いや、別れたのは一回だけだな」

「一回?」

「本命ができたから、一度に全員振った」

「そりゃ経験豊富なわけだ」

 流石の私も同時に二十人近くの女性と付き合うのには骨が折れた。毎月の休みは全てデートで埋まっていたし、たまに彼女の名前が融合することもあった。

「おじさん、結婚はしてるの?」

「してないとも」

「そんなに付き合っといて結婚はしてないんだ」

「結婚とは複雑なものなのだよ、少年」

「へぇそうなんだ。後ちなみに、わたし女ね」

 なんと少年は少女だったのか。衝撃の事実に頭が真っ白になりかけたが、少女がフードを外すと女性特有の長い髪の毛が現れ、それで自分を納得させることが出来た。そして同時にその髪色に目が奪われた。そう、懐かしのあの日、私が正真正銘の恋に落ちたのはこの鮮やかな水色の髪をした可憐な女性だった。

 その瞬間に私の記憶はあの在りし日々に巻き戻っていった。


 大学の構内で初めて彼女を見たときはまずその髪に目がいった。水色の美しい髪。一度でいいからこの手で触ってみたいとそう思った。今思えば私は彼女の髪の毛に恋をしたのかもしれない。それからというもの、私は彼女と付き合うことに全力を注ぐためそれまでに付き合っていた女性全員と別れることに決めた。きちんと理由を説明した上で別れを切り出すと、しばらくの間頬の腫れが引かなかった。水色の髪の毛の彼女は名を七瀬彗といった。彼女と初めてまともな会話をしたのは私の頬が通常の三倍に腫れているときだった。たまたま入った喫茶店の窓際の席で彼女は一人静かに本を読んでいたのだ。私は一度大きく息を吸い込むと、人数の確認をしてくる店員を手で制し「連れが先に来ている」と言った。もちろん連れなどいるはずもなく、彼女と共にお茶を飲みたかっただけなのだがそんなことを店員が疑うはずもなく難なく彼女の正面の席に座ることが出来た。至近距離から彼女を見ればより一層その髪の色が魅力的に映った。おおよそ落ち着いた雰囲気のこの喫茶店にはなじんでいないような気もしたが、そんなものはこちらの脳内で色調を合わせればいいだけで、何の問題にも感じなかった。私は彼女に声を掛けようとした。しかし彼女は私が前に座ったというのに本から視線を上げなかった。集中して読んでいるところに声を掛けるのも悪い気がしたので先に注文を済ませた私は彼女が私を見てくれる時を待った。結局彼女がその本から視線を上げたのは私が十杯目のコーヒーを飲みほした時だった。窓の外はすでに暗くなり、喫茶店の閉店時間も近くなっていた。

「誰?」

 私は待望の会話の瞬間を迎え、天にも昇りそうな気分になった。

「私です」

「だから、誰?」

「何の本を読まれていたのですか?」

「その前に名乗ってほしいんだけど」

「これは失敬。私は萱林荻窪かやばやしおぎくぼという者です」

「初めまして、荻窪君。私は七瀬彗ななせすい、よろしく」

「ご丁寧にどうも」

「それで何か用?」

「特別な用があるわけではありませんが、しいて言うならあなたと会話がしたかった」

「その会話の用事、店も閉まるしまた今度でいい?」

「願ったり叶ったりですよ」

 それから私たちは頻繁にその喫茶店でお茶を共にするようになり、私たちの距離もずっと縮まった。お互いに冗談を言い合い、休日には二人で出掛け、無言の時間も居心地の良い空間に感じることが出来るようになり、それはもう友情を超えた何かが芽生えそうなほどだった。そしてその予感もついには現実のものとなる瞬間が訪れた。

「何で私と会話をしたかったの?」

 いつもの喫茶店で彼女はそう聞いてきた。

「その髪に惚れてしまってね。どうしても声を掛けずにはいられなかったんだ」

「髪? これに?」

「そうとも」

「ふーん」

「ちなみにそれは地毛かい?」

「そうだよ」

「まぁ地毛なわけがないよな。すまない冗談だよ、ってなんだって? 地毛?」

「水色の地毛なんて珍しいから勘違いする人も多いんだけどね。生まれた時からこの髪色だよ」

 彼女の髪色は染めているわけではなかった。彼女の美しい水色の髪は地毛だった。その事実は私に一歩を踏み込ませる後押しとなった。

「真面目な話があるんだ」

「何?」

「私と、付き合ってくれませんか」

「恋人同士になるってこと?」

「はい」

「いいよ」

「そうか。いいのか」

「うん」

「なんか、随分とあっさりしてるんだな」

「そう? でも私も君のことは好きだもん。渋る理由がないよ」

 私はますます彼女に惚れていた。初めは彼女の髪の色に心奪われた。しかし、時が進むにつれて彼女の内面に惚れていく自分がいた。彼女は自分に嘘は付かなかった。それを誠実と捉えるか不器用と捉えるかは悩ましいところだったが、どちらにしても彼女のその性格は私の心を掴んで離さなかった。

 私はこの時、確かに結婚を考えた。温かく少し湿った手で彼女の手を包むと彼女も静かに手を重ねてくる。きっと彼女も同じことを考えていたに違いない。その手の温もりから伝わってくる熱は特別なものだった。そしてその熱が冷めないうちに喫茶店を出ると私たちはその夜を共にしたのだ。


 そう、私は結婚をする予定だったのだ。本当なら隣の少女の問いに対して首を縦に振れていたはずなのだ。しかし、事実私は結婚はおろか今付き合っている女性もいない。はてさて何でこんなことになってしまったのか。人生七転び八起きというが本当に私は起き上がれているのだろうか。少女の髪を見て過去の自分に思いを馳せ、そんなことを思った。

「ちなみによく染めてると間違われるんだけど、これ地毛だから」

「地毛なのかい?」

「地毛だよ。生まれた時からこの色」

「へぇそりゃまた。珍しいもんだな」

「ところで、男の方が女に話掛けたみたいだよ」

「お、やっとか」

 私たちが見張っているベンチの上ではやっと進展が見られた。どうやら男の方から女に声を掛けたらしい。私は回想を経て男女の儚い関係を思い出していた。過去の自分とベンチの男とを重ね、過去の自分は公園で裸足になったことは無いなと新たな記憶を呼び起こし、この寒空の下で男が年若い女に何と声を掛けるのか見物、いや聞き物だと思ったがここから二人の会話が聞こえるはずもなく私はもどかしい気持ちになった。

 人によっては赤の他人を盗み見てその会話を聞こうとするなど犯罪的な行為と罵る者が出てもおかしくはないが、考えてみれば世の中赤の他人の私生活を覗いて楽しむ者ばかりではないか。しかし例えそれでも私の行動に対して理屈を通し正当性をぶら下げて抗議してくるような人がいるのなら、そのような人には私が自分の行動を正当化できる要素を含む事象がこの世では起きているということだけを伝えたいと思う。なんだかんだ、人は時と場合においてはあらゆる非人道的な行為も容認、黙認するものなのだから。

「なんて言ってるか聞こえる?」

「いいや聞こえないな」

「だよね。ここからだと位置が遠すぎる」

「近づくのか?」

「うーん。どうしようか」

しばらくの間この少女と行動を共にしているが、なかなかどうして好奇心が強い子だと思った。よくもまぁ他人の行動にそこまで執着できるものだと半ば関心すら覚えるほどだ。そんな私も大概だとは思うが彼女は今回の監視作戦において私よりも先輩だ。きっと私よりも濃厚な好奇心と執着心を持っているのだろう。これが若気の至りというやつか。

「何故そこまであの二人に執着しているんだ」

 考えてみればこんな時間に女性が一人でストーカーまがいのことをしているのは不可思議なことだった。同じ穴の狢であるからか今の今まで大した疑問に思わなかったが第三者の目から見れば今の状況はかなり異様に映ることだろう。何せ酔いに身を任せている中年と珍しい髪色をした少女が木と草むらの影から二人の男女を眺めているのだから。そしてそんな少女が何故こんなところで人間観察をしているのか、その理由は全く持って謎である。

「何でって、気になるからだけど?」

「単純な理由だな。ちなみにお前さん歳はいくつだ?」

「二十歳」

「二十歳? 本当かよ」

「はいはい、その反応にはもう慣れてるよ」

「本当に二十歳なのか?」

「そんなに疑うなら、ほらこれ」

 差し出された免許証は確かに彼女の身分を保証するものだった。

「こりゃ驚いた。てっきり高校生くらいかと思っていたよ」

「若く見られるのに喜ぶ歳でもないんだけどね」

 彼女の反応を見るに幼く見られるのには慣れているようだが、どうやらそれをあまり快くは思っていないようだった。確かに、「若く見える」と「幼く見える」は似通った言葉でもあり、互いに対極にある言葉といってもいいだろう。

「それで、いつまで見張るんだ?」

「おじさんはどうするの?」

「私か? そうだな、この酔いが覚めるまでだな」

「なら、私は私の気が済むまでここにいることにするよ」

 私たちはそれからもベンチの二人を観察し続けた。

 実のところ私の関心は半分がベンチ、もう半分は隣の少女の髪の毛にあった。彼女が言うにはその髪の毛は地毛だそうだが、それは私のかつての恋人と同じだった。当時は地毛が水色の髪の毛を持つ人間は後にも先にも彼女だけだろうと思っていたのだが、予想に反して目の前には水色の髪を持った彼女ではない少女が現れた。果たしてこれは偶然なのか、私は疑っていた。髪の色だけで彼女と少女を繋げるのは安直すぎる気もするが、長年の私の勘が「何かあるかも?」と言っていた。勘でさえも疑問符をつけるくらいには根拠に乏しく私の希望的観測が多分に含まれていて一考に値するかどうかも怪しいところなのだが、かつての記憶を掘り起こしてしまった私はどうしても少女に確認がしたかった。とは言ったものの、隣の少女に何を聞けばいいのか具体的に何一つ考えていなかったので、いや、酔いの回った頭では考えることが出来なかったので、私は隣の少女と同じくひたすらに関心の内の半分に意識を集中させることにした。

「それにしても、盛り上がってないなぁ」

 見れば見るほどに盛り上がりの欠片も感じられない二人を見て思わずこぼれた呟きに同調するように少女の頭が揺れる。

 しかし何かは起きるはずだ。それだけは声を大にして言わせてもらいたい。

 そして何かが起きてくれ。小さなことでも私の「長年の勘」が当たれば、少女に彼女のことを聞くための一歩が踏み出せるようになるやもしれないのだから。






 

 

 


 



 

 

 

 




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