第3話 知らぬ世界で咎人は笑う

 空の奥底から漂う懐かしいに匂いに釣られて来たはいいものの、いきなり誰かの絶叫が聞えてきたのには驚いた。やはり夜の世界が放つ光には頭のおかしな連中が集まってくるものなのかもしれない。かくいう俺もその頭のおかしな連中の一人だという自負がある。今まで劣悪な環境に身を置いていたせいか、ここの空気は最後の晩餐にしてもいいと断言できるくらいに美味だ。腐った嘔吐物を雑巾で拭った後、同じく腐った牛乳にその雑巾を浸して三か月発酵させたような匂いが満たすあの狭くて暗い空間にはもう飽き飽きしていたところだ。外界という自由に空気というご馳走まで用意してくれているなんて、やはりこの夜は俺を祝福してくれているらしい。

「脱獄記念だぁ! イェーイ!」

 なんて、絶叫を木霊させるどこかの頭のおかしな奴と張り合うように片手を突き上げた俺は自分の鼻歌に合わせて小躍りしながら無駄に広い公園を闊歩する。気分はレッドカーペットを優美に歩き進める世界的著名人の誰かだ。自分の腕を天高く突き上げることも小躍りすることも鼻歌を奏でることも出来なかったこの世の地獄から解放された俺を縛るものはもうない。何をしてもいいという幸福感が体を包み、同時に何をすればいいのか分からないという絶望的な己の思考領域に腹立たしさを覚えた。それもその筈だ。何故って俺は人生の八割をあの部屋で過ごしてきたんだ。外の世界には疎いし、何があるのかも分かっていない。当面の脱出目標は外の世界の空気を吸うことだった。だから、自由が始まった途端に二十五年間思い描いてきた夢という名の目標が達成されてしまい正直戸惑った。そして、次は何をしようかと考えて考えて考えた結果が今行っている散歩なのだ。これで考えうる限りのやりたいことが全て叶った。

「やったぜ!」

 小踊りをしながらまた叫んだ。

「そうだ。俺は叫びたかったんだ!」

 その瞬間やりたいことが見つかった。あそこでは声を上げることですら許可が必要だった。年に一回、己の誕生日の時だけ一日一千文字までの発声が許されていた。それ以外では基本的に己の自由意志に基づいて行動することは厳重に禁止されていた。規律を乱すと死よりも恐ろしい何かが待っていたのだ。いやほんとマジで。最初は俺も反抗していたが、あれだけは耐えられなかった。何をされたのか具体的には分からないが、気づけば心に恐怖が刻まれているのだ。恐ろしいったらありゃしない。

 今も大声をあげて公園を歩いているが、改めて腐った匂いを嗅ぎ続けて腐った己の脳みその思考力に脱帽した。素晴らしいほどに頭の中に何もない。まるで何かの小動物にでもなったかのような気分だ。

「にしても! この匂い! やっぱりあいつらだよな!」

 喉が痛みを発し、唾をのみ込めば血の味がした。長らく機能していなかった己の喉には、大声は負担が大きすぎたらしい。ベンチにスポットを当てる街路灯を見れば、光を見たのも久しぶりだなと思った。

 人生に置いておよそ人らしいことが無かった俺だが、はたして夜の公園で叫びながら歩くのが人らしい行動なのかと聞かれたら躊躇いなく首を横に振る。そうか、それなら今までの俺とやっていることは変わらないではないか。

「よし! 次の目標が決まった! あいつらに会うぞ!」

 空を見上げて決意を口にし、叫ぶのにも飽きて生きた頃。道を挟むようにして植えられていた木々の中に人影が見えた。近づいてみれば、身を潜めるようにして土に汚れる二人の人間がいた。片方は普通の人間で片方が鮮やかな水色の髪をした少女だ。

「あの髪……そうか」

 その水色の髪を見て、空を見上げる。水色は俺にとって破滅の象徴だ。いつの間にやら狂っていた人生で、外界の記憶などほとんど失っている俺だが、唯一あの髪色だけは覚えている。鮮明に、はっきりと、白紙に押し付けた黒鉛が残す跡のように思考とは別のさらに深いところにそれはこびり付いている。

「もう関わるのはごめんだ」

 そう言い残してその場を後にする。

 せっかく自由になれたというのに、自ら鎖に飛び込む馬鹿はいない。退化した己のの思考力でもそのくらいのことは理解できた。

「……にしても、うーん……何か来るのか?」

 水色の髪から離れるように足を進め、違和感を覚えた空を見上げる。夜の帳が降りる自然の夜空は、今日も静かに俺を包んでいた。それが嬉しくもあり、同時少し悲しくもあった。あの空間の夜空と外の夜空で、違いはあまり感じられなかったのだ。

 期待外れに肩を落としながら、素足で舗装された道を歩いて行く。やはり長い距離を歩いたからか足の裏の皮がめくれ、甚割とした痛みが体に広がった。

 しかし、足の痛みよりも気になることがあった。そう、それが空の違和感だ。

「何だろなぁ……不思議な感じだ」

 空から何かが降って来る、という漠然とした予感だが、確信を持てるほどにはその違和感は膨れ上がっていた。

「ま、どうでもいいか。とにかく今は叫ぼう! 大きな声で!」

 そして、俺は歌を歌う。自分でも不気味な歌声だと自覚はしているが、こんな夜にはそんな歌声も、擬態する変色動物のように空気に溶け込んでいくのだった。

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