第16話 レモン
2本と聞いて、急に記憶が蘇った。俺は6歳の頃、山で猟師の罠にかかった狐を助けたことがある。
「……先生、流先生ってば」
俊介の呼び声に我に返る。給食はオクラとナスの入ったカレー、香辛料の良い香りが食欲を唆る
「ああ、ごめん」
「一体どうしたの?」
「昔、奇形の狐に会ったことを思い出してね」
「きけい?」
「うん、あれは……」
狐は美しい毛並みで先の白い尻尾が2本生えていた。俺はその雌の狐を『シッポ』と呼んで、飯を食うときも、宿題をするときも、シッポの寝床のあるラボの実験室で過ごした。
傷は徐々に癒え、1週間もするとすっかり傷口は塞がった。ずっと一緒にいられると思っていた。ところが友達を連れて帰ったある日、母親が不在の間にシッポは逃げ出していた。母は「人馴れする前に帰って良かった」と言ったが、俺は学会に出かけた母親を恨んだ。
「それじゃあ僕が見たのはシッポかもね。きっとまた会えるんじゃない?」
「まさか。その子供なら生きているかもしれないけどなぁ」
昼食が済むと、子供達は写生した絵を順番に見せに来た。青空だけを描く子、蜘蛛の巣をクローズアップして描く子、描く皐先生を描く子など、生徒の発想は面白かった。
皐の描いた黒い熊の絵に皆が、「熊はおらん」と突っ込む光景は微笑ましく、復職してラボの赤字を賄う生活も悪くないなとぼんやり考えた。
別れの挨拶を済ませ、足がつかぬようパソコンの作業履歴を消去していると、俊介が走ってきた。
「教頭先生が帰ってきた。裏口から入ってくるから、玄関から逃げて。僕が時間を稼ぐ」
「君は大丈夫かい?」
「教頭先生は強面だけど、生徒には優しいんだ」
俊介はにっと笑う。
「じゃ、行くよ。ありがとう」
「紋太を助けてくれたお礼さ。未来は変えられるよ、頑張ってね」
来未のオフロードバイクに跨り、リアシートに皐を乗せ、凸凹の山道を走った。タンデムは初めてだったが、皐はバランス感覚がよく、予定より早く下山できた。
麓のコンビニに寄ると、皐がワンカップを選んだので二人の馴れ初め話を思い出した。
「皐さんは街で平次と出会ったとか」
「あぁ、
「休日はいつも森に?」
「街の喧騒は苦手なんだ。羽毛布団は寝心地が良いし、家政婦の料理も旨いけれど、森で動物達の声を聞いていたい。家族だからね」
「どうやって聞くんだい?」
「耳を澄ませば聞こえる。カフェで隣のテーブルの噂話に聞き耳を立てるのと同じ要領だよ」
「尻尾が2本の狐に会ったことがあるかい?」
「ありえないよ、バランスがとれない。そんな奴がいるとすれば、そいつは妖狐かもな」
皐は笑って空き瓶を屑籠に投げ込むと、変装していたウィッグを外して銀髪を解いた。
高速道路を走り兎狼の森に到着する頃には、月が真上に来ていた。
ガソリンスタンドで給油を済ませ、夏の大三角を探した。どれがベガだったかと考えながら、別れ際の皐の言葉を思い出した。
「流、来未は本当にロボットか?」
「え?」
「指笛に応え、流の表情から患者がいると推測するなんてことがAIに可能かな」
では一体何者なのかと考えながらラボに戻る。すでに日付をまたいでいたが、実験室には明かりがついている。
「お帰りなさい」
「まだ眠らないのかい?」
「ええ、コレを。レモンは炙り出しだったの」
ピンセットに挟まれた便箋にはぼやけた文字が浮かんでいる。
『たすけて、かあさんをころしたのはやしき』
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