第9話 来未の憂鬱

 来未は背を向けて、用紙取込口の蓋を勢いよく閉じた。パァンと音がしたが、ノーアは沈黙している。

「あれは言葉の綾で……」

そこまで説明して、やつらは理解出来ないと言った平次の言葉を思い出す。

「でもステディじゃないわね?」

「怪我したのか?」

「挟んだだけよ。放っておいて」

彼女は俺の手を払いのけると、指に絆創膏を貼った。ゆっくりと赤い人工血液が滲んでくる。

 目眩がした。なぜ五十川博士は、息子の快気祝いに人間と見紛う美しいアンドロイドを用意したのだろう。せめてオジサン型なら良かった。それなら、笑って友達になれたのに。


 その晩はうまく眠れなくて、事件資料を明け方まで読んだ。いつもなら消灯時刻にうるさい来未が、小言を言いに来ず先に就寝していた。

 規則的な寝息が聞こえる。細い腕に触れ、指先へとなぞり、絆創膏を確認する。

「君が壊れても、俺には修理出来そうにない」

窓のない研究室は足元灯の鈍い光のみで、寝顔はよく見えなかった。



「おはよう、流くん」

 ところが翌朝、配膳する来未はな指先をしていた。まるで昨夜のやりとりが夢であったかのような振舞いである。自己修復機能でもあるのか聞けないでいると、平次から森へ来ないかと誘いの電話が来た。

「今夜は友人の別荘に泊まるから、夕飯はいらないよ」

「どなたかしら?」

「丘平次だよ。コールドスリープ中に訪ねて来ただろう?」

「確か、銀髪のお嬢さんと一緒だった方ね?」

「結婚したそうだから、祝いがてら厄介になるよ。森林浴すれば、事件に関する閃きがあるかもしれないしね」

「でしたらアップルパイを焼くから、お持ちになって」

 来未は冷凍庫からパイシートを取り出すと、すぐにリンゴの皮を剝き始めた。薄くスライスしてあまり煮詰めず食感を残すのが彼女のスタイルである。

「来未さん、昨夜は……」

「暇なら生地に穴をあけてくださる?」

「あ、ああ」


 甘い香りがしてパイが焼けると、俺は半ば逃げるように兔狼の森に来た。入口に位置する小さな神社まで来ると、ジャージ姿の平次が待っていた。御神木だという千年杉を横目に、鬱蒼とした獣道を30分ほど歩くと、彼が別荘と呼ぶ掘っ立て小屋に辿り着いた。

「あたいなら強引にブチュッとしてほしかったね。こんな美味いパイが焼けるのは、惚れてる証拠だぜ?」

 平次の妻は銀髪に灰色の瞳の生粋のロシア人であった。実物は数倍美しかったが、養父譲りだという男勝りな日本語には少々面食らった。彼女にはさつきという和名があり、外見と名前にギャップがあるという点が来未と似ていた。

「こら、流が驚いているじゃないか。優しくしてやれ」

 平次は自分のパイの林檎だけを指でつまんで皐の口に入れた。ぷっくりとした唇に指の第二関節までが食われてゆくのを、ニヤけながら見つめている。

「お前、本当に皐さんのことが好きなんだな」

「何でだ?」

「自覚が無いのか。皐さんはこのオジサンのどこに惚れたんだい?」

「あたいは街でも働いたけど、平次以上に貪欲に仕事する男に出会ったことがない」


あっと言う間に全てのパイを平らげると、皐は皿を洗い、布巾で丁寧に拭いた。

「ふむ。だが仕事人間なら若い男にもいるだろう、彼は特別かい?」

拭いた皿を平次が受け取り籠に重ねていく。銀髪の娘とオジサンの共同作業は何とも微笑ましい。

「もちろんだよ。例えば、平次の身に12年後にタイムワープするなんて幸運が訪れたら、彼は子供のように目を輝かせて何か企むぜ?」



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