第3話 婚約者
『お食事の時間です』
抑揚のない音声が、同じ報告を繰り返す。ラボの白すぎる壁が孤独感を煽る。
「いらない。誰も入れるな」
胃酸の逆流を感じて、腹に何か入れるべきだと脳が指令を送る。
シノはノーアに人間味を足したような、感情を持った人工知能であった。それについて問うと彼女は『AIの学習能力です。私は流様の睡眠中もずっと起きていましたから』と嫌味を返し、成長は情報収集によるアップデートであると主張した。
『ドアの前で来未様がお待ちです』
思いやりのないオートマチックボイスが神経を逆撫でる。シノは説得しようと母の死に関するデータを集めてきたが、その行為は逆に俺を追い詰めた。胸にぽっかりと穴が開いて、生気が徐々に流れ出ていくような気持ち悪さに襲われる。
「放っておいてくれ」
『女性を待たせるとは、男の風上にも置けません』
「何だ」
『博士の口癖です』
「さあ、覚えていないな」
『記憶力の低下が認められます。脳ドックは最短で7日後に予約が可能です』
「分かったよ! 飯を食うからドックの予約はするな」
自動ドアが開き、心配そうな面持ちの来未がゆっくりと近づいてくる。盆にはお粥らしき椀がのっている。温め直したのか良い匂いがして、唾液が分泌される。
「あんた、博士とはどんな関係だ?」
「危ないところを助けられました、命の恩人ですわ。ですから遠慮せず召し上がって」
「気分が優れないんだ」
「毒は入っていませんわ」
来未は粥をひとくち食べスプーンを差し出す。気づけば一日籠城していた、ぐぅとお腹を鳴らすと琥珀色の瞳がくすりと笑う。
粥には生姜が入りすぎていたが、久々の食事は五臓六腑に染み渡った。来未は余程嬉しいのか、食い入るように口元を見つめている。
「ゴホン、食べにくいのだが」
「あっ、そうですね。ではシノ、例の計画表を出して」
『承知しました』
来未が命じると、「リハビリテーション案」と見出しのついた資料が大画面に映し出される。
「なんだこれは?」
「流くんが社会復帰するには筋力の回復が必要です。ご提案を」
それからリハビリの説明を受けた。食事のメニューにまでこだわったプランはふた月分もあり、拉致犯にしては少々手が込みすぎているように思えた。
「以上です。ご質問はありますか?」
「無いこともないが、今日はもう遅い。君は帰らないのか?」
「毎晩ここで眠りますの」
来未が指を鳴らすと壁だと思っていたところが開いて、勢い良くベッドが出現した。無機質な空間に母親の好きだった猫男爵の布団カバーが現れる。
「眠る男と婚約した理由は?」
「私の目的は五十川博士の研究を完成させること。ぶっちゃけ許嫁は交換条件です」
金髪の娘が微笑む。腹が満たされたせいか、ピンクの布団カバーのせいか、うまく思考が働かない。
「それじゃ、研究とは?」
「もちろん、コールドスリープ装置の実用化です。明日からも仕事させてもらえますか?」
「ここで眠ることに抵抗はないのか」
「全く」
臆することのない瞳はまっすぐで、嘘をついているとは思えない。眠っていた間の出来事を把握する必要もあるが、あの人工知能はマスターに不利な情報は漏らしそうにない。
「わかった。とりあえず仕事を見せてもらう。ただし、婚約は反故にする。出会ったばかりの君を受け入れられるほど人間が出来ていないのでね」
「ブロンドヘアはお気に召しませんか?」
「全くもってその通りだね」
「研究を続けられるのならかまいません。他にご要望はありますか?」
22時を過ぎて部屋のライトが暖色系に切り替わる。設定は12年前と変えていないようである。
「ああ、人工知能の愛称を『ノーア』に戻せ」
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