第3話 一狩り行く天使の少女
その後、俺は一人、天使学校の用務員室で黄昏ていた。
時刻は午後六時、季節はわからないが、日が傾き始めている。今日も下界でいう平日だったようで、帰宅する生徒や部活に向かう生徒が、用務員室の窓から伺えた。
ここは一階、職員室の隣に位置している。二メートルほどの長机が二つ、部屋の中央に並んでおり、入り口の隣は畳まれたパイプ椅子、ドアを挟んで反対側には掃除用ロッカーが立てられている。それ以外のものはないこの部屋は、まさに用務員室と呼ぶのが相応しい。
そもそも、なぜこんなところにいるかって? それは俺が、ここの用務員として生活することになったからだ。
理事長曰く
「ちょうど男手が欲しかったところ」。どうやらここが天使「女」学校であることから、男性の教員も少ないらしい。まあ、体のいい雑用だと思われているということだ。
にしても、変な話だ。
女神さまの人違いで殺され、逆ギレされ、挙句の果てには用務員。多分俺、怒っていいと思う。
だがその一方で、特に怒りの感情など湧いてこなかったのも事実だ。それは、俺の生に対する諦めからだろうか。
二か月と言わず、このままここで暮らしていた方がいいんじゃないか。そんな考えが、俺の頭の中で乱反射していた。
「……考えるのは、やめるか」
俺は掃除用のロッカーを開くと、その中から雑巾を取り出した。憂鬱な気分の時は、気が紛れることをするに限る! んで、俺にとって気が紛れるのは、誰かの役に立っているときだ!
俺は今晩中にこの校舎をピカピカに掃除しきる! ということを目標に、用務員室の扉を潜った。
――のまではいいが……。
「この学校、広すぎないか⁉」
俺は職員室の入り口の横に張り出されている、校内マップを見て、思わず声に出してしまった。
教室の数が数えきれない……。ここ、高校か? だとしたら一体何クラスあるんだ⁉
階数は……二十階⁉ 大企業のビルか何かかよ⁉
俺はわずか数秒で、先ほどの目標を捨てることにした。
とりあえず、一番近い教室から掃除しよう……。
地図によると、一番近い教室は、A1001って教室だったな。おそらくは、職員室に近い方から、若い番号が振り当てられているのだろう。
俺は先ほどの地図の内容を思い出しながら、廊下を歩いていた。たしか、校門を潜ると、一番近くにあるのは職員室や図書室、そして用務員室のある職員棟がある。そこから五方向に延びる廊下から、ABCDE棟に行ける……というものだった。それぞれの棟も廊下で繋がっており、さらに校門から奥に行けば、FG~棟に行けるらしい。昇降口はA棟にあるようだ。
俺が今向かっているのは、そのA棟。
俺は廊下を進み、A1001の札を探した。
「ここか?」
そしてついに見つけた札。教室には前後二つの入り口が用意されている。元の世界でもよく見る、オーソドックスな教室だ。
教室の引き戸を少しだけ開け、中を覗いてみる。
もっととんでもない教室を想像していたが、内装はオーソドックスだ。
どうやら生徒はもうはけているらしく、中には誰も――。
――窓際の席に、一人だけいる。だが、携帯ゲーム機に夢中で、こちらには気付いていないようだ。後ろ姿から伺えるのは、猫耳のようなものが付いた白いパーカーのフードをかぶっているということだけ。
ここ、天界だよな? あの子、一体どんなゲームをしているんだろう?
それが気になったわけじゃないが、俺はこの教室を掃除することに決めた。
「しつれいしま~す」
一応、一言断りを入れてから、教室へと入る。ゲームをしている子は、どうやら相当集中しているようだ。俺は、その集中を切らさないように、教室後ろに配置された掃除用ロッカーを開いた。……ように見せかけて、女の子のやっているゲームの画面を覗き込んだ。
ゲーム画面の中では、腕から鎌が生えた蟹とキャラクターが戦闘していた。この独特のユーザーインターフェース、そして何より、回復薬を飲んだ時のガッツポーズ……まさか⁉
「モンファイじゃねえか! それもセカディー⁉⁉」
「ふぇ⁉」
思わず喉元を突き破る俺の声、それに驚いた女の子は、俺の方へと振り返った。その瞬間、画面内の蟹が大鎌を振りかぶり――。
『力尽きました』
のメッセージが画面の中央に表示された。
「あ、あー⁉ し、死んじゃったじゃん!」
しかもクエスト失敗、どうやら三乙目だったようだ。
「ちょ、ちょっと! 今いいところだったんだけど!」
女の子は涙目でこちらに訴えかけてくる。な、なんか悪いことしちまった気分だ。いや、実際悪いことしたんだけどさ。
「あ、ああ。悪かったよ……ちょっと懐かしいゲームだったからさ」
「え? これ、最新作だよ?」
あれ? そうなのか? まあでもここは天界、下界の最新とは少し遅れてるのかもしれないな。
「っていうか、先生……なの? 初めて見る顔だけど……?」
し、しまった。俺はここで、理事長が言っていた言葉を思い出した。
『詳しい話は明日にしましょう。でも一つだけ、くれぐれも他の方には、あなたが人間であることを悟られないでくださいね』
ここは女子高で、どうやら意図的に、できるだけ男を雇わないようにしていた様子。それに、俺は天界のことを何も知らない。上手い言い訳ができるか……?
「あ、ああ。男手が必要だからって、用務員として雇われたんだよ」
大丈夫か……これで疑われないか……?
「なーんだ。びっくりしたぁ……。不審者かと思ったよ」
……どうやらこの子、バカだ。今俺は、ここの用務員だと証明する手段は、何一つ持っていない。それなのに、こうも簡単に信用してしまうとは。天使故に、人を疑うことをしらないのか?
「今、失礼なこと考えてない?」
「い、いや、考えてないけど……」
バカな割に鋭い!
「い~や! 絶対考えてた!」
すると女の子は、俺の鼻先に、ずいと顔を近づけてきた。鼻と鼻が当たってしまうほどの距離だ。ちょ、ちょっと近くないか⁉ なんかいい匂いするし……! こ、これが女の子の香り……。
近くで見ると、この子すごい美少女だ。フードに隠された白く美しい髪。まだ幼さを感じさせる顔つきなのに……身体は、その……十分大人だ。身長は低いのに、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでる。制服の上からパーカーを着ているのにわかるんだ。脱いだら……すごいんだろう。
「ちょ、ちょっと、ち、近いって!」
「ぬふふ……白状するまでは返さないぞ~!」
両手をワキワキさせながら、俺へと迫る女の子。抱きしめようと思えば、今すぐ抱きしめられるほど近くにいる女の子に、俺はドギマギしていた。
「も、もう! おとなしくゲームしてなさい!」
これ以上近づかれたら、いい匂いでおかしくなってしまいそうだ……。俺は女の子の肩を掴み、ぐいと遠ざけた。不安定な姿勢だった女の子は、椅子に体重を預ける。
「ぬふふ……もしかして先生、ドキドキしてる?」
へあ⁉ な、なにを言い出すんだこの子は⁉
「な、なんでだよ……」
「べっつに~。男の人って、女の子の半径一メートル以内にいると、ドキドキしちゃんでしょ?」
「しません!」
今ドキドキしていたのは事実だけど……。っていうかこの子、なんで初対面の俺にこんなこと聞いてくるんだ?
「ぬふふ……絶対してたって」
「し・て・ま・せん!」
「ま、いいけどね」
女の子はにやにやしながらそう言うと、俺にゲーム機の画面を見せつけてきた。俺が散々見慣れたポッカ村の様子だ。
「ところで先生、このゲーム知ってるの?」
「ああ、知ってるけど……」
ん? なんでこの子、こんなにゲームの話を振ってくるんだ? まさか、一緒にやる友達がいないとか……なんてことはないか。フレンドリーな子だし。
「そうなんだ。ゲーム持ってるの?」
「いや、持ってはいないな」
下界に行けばあるんだけど……。まあ天界には、死んだときに身に着けていたものしか持ってこれてないしな。
すると女の子は、さぞ残念そうな顔をして
「そうなんだ」
と呟く。
「ごめんね、お仕事の邪魔して。先生、わざわざここに来たってことは、仕事しに来たんでしょ?」
「あ、ああ。そうだけど……」
まあ実際は、仕事というか暇つぶしなんだけどな。
「私、ここでゲームしてるけどいい?」
「ああ、俺は掃除したいだけだから」
「じゃあ、そうしてる」
女の子は寂しそうな表情を浮かべ、再びゲームの世界に没頭してしまった。
じゃあ俺も、掃除に没頭するとするか。
俺は窓に向き直ると、綺麗に掃除されているか、目を光らせる。
流石は天使学校、窓は綺麗に拭かれているが、そのレールは……。やはり、多少汚れが溜まっているな。今日はこいつを掘り出すとしよう。
そんな俺の傍らで、聞きなれた戦闘BGMが流れていた。
さて、まずは――。
すると、デーンという力尽きた際の効果音が聞こえてきた。女の子は表情一つ変えていないが、どうやらやられてしまったらしい。猫が主人公をベースキャンプに運ぶ音が、ゲーム機から聞こえる。
まあいいか、気を取り直してバケツに水を――。
すると再び、デーンという音と、猫の鳴き声。
……気になる! めっちゃ気になる! っていうかこの子集中している割に弱すぎない?
どうしよう、声を掛けた方がいいかな?
でも、集中してるしな……。
俺は掃除をするふりをして、女の子の後方に回り込み、ゲーム画面を覗いた。
よく見ると、主人公が装備している防具は、初期装備だ。
あの鎌を持った蟹には、とても敵わない。
うん、アドバイスぐらいしても罰は当たらないだろう。
「あのさ……」
俺は勇気を出して、再び女の子に話しかけた。しかし――。
「今集中してるから」
と突っぱねられてしまう。
いや、集中しても勝てないもんは勝てないぞ!
「その防具じゃ、タイショウガニには勝てないと思うけど……」
具体的にモンスターの名前を出して話しかけてみる。すると女の子は、目を丸くしながらこちらへと振り向いた。
「先生……持ってないのにわかるの?」
「ま、まあな」
「攻略のコツとか、わかる?」
コツと言われても……防具と武器を強化しろとしか言えない。でもまあ、俺がプレイすれば、少しは状況を覆せるかな。
「とりあえず、防具は強化しような」
な、なんか久しぶりにモンファイやりたくなってきた……。貸してっていえば貸してくれるかな……。でも、この子もやっぱり自分の力で倒したいと思うよな……。
「だって同じ奴と何度も戦うの面倒じゃん!」
聞いてみるか、貸してくれって。うん、聞いたもん勝ちだ!
「そ、その装備で勝ちたいなら……貸してくれないか? 確実に勝てるかはわからないけど……」
「できるの⁉」
女の子は、目を輝かせながら俺にゲームを差し出してきた。
それでいいのかゲーマー。
俺は女の子の隣、彼女を挟んで窓の反対側に座り、ゲーム機を受け取る。そして、プレイを始めた。
俺の操作する女性のキャラクターが、初期装備で沼地を駆け抜けていく。
そしてついに、例の蟹に遭遇した。蟹はすでに戦闘状態、すぐさまこちらに向かって駆けてくる。
そして、大鎌を横なぎに薙いだ。位置的には絶対に躱せないものだ。
「危ない!」
だが――俺のキャラクターはそれを前転で見事に回避した。
「あれ、当たってない⁉」
女の子が驚きの声を上げる。俺もできるか不安だったが、成功した……。
フレーム回避。このゲームの回避行動には、一瞬だけ無敵時間が発生する。それを敵の攻撃に被せれば、攻撃を躱すことが可能だ。
俺のキャラクターは敵の隙をついて、大剣を抜刀、上段から振り下ろした――。
――四十分後。
「た、倒しちゃった……」
俺の横で、感嘆の声を上げる女の子。
くっ、ほとんど攻撃を食らうことができない状況での連続フレーム回避四十分……。
俺は緊張感から解き放たれ、机に突っ伏した。
「凄いよ先生!! もしかして過去作をやりこんでたとか⁉」
過去作どころか、この作品よりも後に出たのもやりこんだんだが……。まあそれは言わないでおこう。
「ま、まあそんなところだ」
女の子はニマニマ微笑みながら、画面を見つめている。
「嬉しいなぁ……。私、今作から始めたんだ! でも、周りでやってる子がいなくてさ。ここ、女子校だし」
「そうなのか」
本当に、一緒にやる友達がいなかったとは……。
「でも、これからは先生がコツとか教えてくれるもんね!」
「ゲームでも勉強でもそうだけど、大切なのは自分の力でやることだぞ?」
「一緒に話ができるだけでもうれしいもん!」
お、女の子にこんなことを言われるのは初めてだ……。む、胸が高鳴って仕方ない。
「あ、まだ名前教えてなかったね。私はイオ。よろしくね、先生!」
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