凶器の善意

なつ

凶器の善意

「私はどうすればよいのでしょうか?」

 男は震えていた。服装はいつにもまして汚れていて、顔には大量の液体がべっとりと滴っている。ソレを横目に私は、男の胸ポケットからゆっくりとタバコを抜き取り口に咥える。男はびくびくしながらライターを取り出し、私とのルーティーンを済ませた。

「ひとまず落ち着きなさい。君は今冷静でない。いつも言っているだろう?」

「はい、ですが・・・」

「何となく君の置かれた状況は把握している。だからまずは、落ち着いてそれから話しなさい。」

 そう言うと男は二三の深呼吸を済ませたあと訥々と私に語り始めた。


 私はあなたもご存知のように貧しいものの出です。当然の成り行きと申しましょうか、ヤクザな連中と付き合いを持つことにそう時間はかかりませんでした。貧しさのさなかに当てられている自分を、連中と付き合っているときは忘れられました。

 ただそれでも気が重かったのは、母の存在です。父もなく女手一つで私を育ててくれた母は、私が警察の奴らと一緒に帰ってきたり、頭に何度たんこぶを咲かせたりしたときでさえ私を見放さずに育ててくれました。私は母への罪悪感と社会から煙たがられながら抜け出せない現状の軋轢に苦しみながらも、弱いものであなたと出会うまで、不安や苦しみを心の奥底に蓋をしていたのです。

 あなたとの出会いは本当に偶然で、連中と一仕事終えた帰りに一杯やりたくなり、バーに入った自分の気まぐれにいまでも感謝しております。

 

「君、さっさと本題に入らないか。落ち着けと入ったが何もそこまで戻って話をするものでもないだろう」

 少しこわばった声に男は驚いたが、すぐに話を戻した。


 すみません。ただここから先が重要でして、あなたとの交流を経て私は、自分の悩みを振り切り真人間になれたと思っています。ただそれと同時に疎遠になっていた例の連中から完全に手を切れていたかというとそうではないのです。あなたには黙っていたことですが、私は少々奴らから金を借りていたのです。当然、返済の催促が来ましたがあなたもご存知のように私は貧しい物持ちで、催促のために度々嫌がらせにもあいました。そして先日奴ら大胆な、私も良く知る方法で取り立ててきました。母を人質に取ったのです。


 奴らの手順は簡単で、自己中心的なクズには使わないのですが、とりわけ若者相手に当人の友人や家族など身近な者で構いません。一緒に廃ビル(よく女を連れ込んでいたので、中は意外と綺麗でした)まで“ご同行”願うだけです。私は彼らの手口をよく知っていましたし、従わなければ母はもちろん私自身もどうなることかは重々承知していました。私には金を返す手段がありませんでしたから、母を連れてなんとか逃げることを考えました。

 正直に打ち明けると、今日、本来あったあなたから持ちかけられた縁談を利用して母ともどもあなたの故郷にでも匿ってもらおうと思いました。奴ら大抵の日は夜に女を連れ込んでしこたま酒を浴びてからはグッスリ眠るので、母を連れ出すことは容易に思われました。

 ただ何分数だけはうじゃうじゃと蛆虫のようにいるもんですから逃げ切れるかがどうにも不安で気が狂っていたと思います。

 奴らいつもなら一週間ほど期日を与えて金を持ってこさせるのですが、私の場合奴ら手口を知っていたことか残虐さを知っていたことかわかりませんが、期日を二三日しか設けなかったのです。いっそのこと母を見捨ててしまえばこの苦しみから逃れられるだろうという考えが浮かんでは消え、それが私をいっそう神経衰弱に陥らせました。

 そこであの女を見つけたのです。裏で貧民街と揶揄されるこの街には似つかわしくない、大変な美人で、歩き方、仕草、身につけているものまで今まで見てきた女達とは一線を画すものでした。

 なぜ斯様な天使様がこのような街に、それも(都合よく)私が気が触れて廃ビルの周辺を徘徊していたときに現れたのか不思議でなりませんでした。

 そこでふと魔が差してしまったのです。気がつくと私は女の後頭部を殴り気絶させて、女を廃ビルに、奴らのもとに投げ込み、母を連れだす最中でした。そこでようやく我に返り(といっても冷静では有りませんでしたが)、急いで女を金の代わりとする簡単な書き置きを残してその場を抜け出しました。いまだから言えますが私はこのとき罪悪感などは殆どなく、それ以上に先程までの苦しみから抜け出せた開放感を感じ、幸福ですら有りました。

 母は眠っていたので私が担いで家まで送りました。そのときに鏡を見たら私の服にはべっとりと血がついていたのです。血は見慣れたものでしたから見間違うはずも有りませんでした。体に痛みもなく、母も無事でした。すると考えられるのは女を殴ったときということは想像に固くありません。

 そしてとうとう私は再び怖くなってあなたのもとに駆け込んできたというわけです。

「私はどうすればよいのでしょうか?」


 話し終えた男は幾分か冷静さは取り戻してるようであったが、震えは収まっていなかった。私は努めて冷静に男に問う。

「君は女を殴ったと言っていたね?しかしそれでは君の服についた血はいささか多すぎる。もしや本当は殴ったのではなく・・・」

「待ってください!」

 珍しく私の話を遮って、男は言い放った。再び高ぶった動悸を抑えつけ、まさに罪を突きつけられた罪人のごとく「もしかしたら、当時の癖でナイフを持っていたかもしれません。いいや、きっとそうだ!あぁ、私はなんてことを・・・」

 男は地面に這いつくばって己の罪を悔いていた。だが彼が殺人犯ではないことを私はよく知っていた。

「君落ち着き給え。大丈夫だ、落ち着き給え。君は誰も殺してなどいないよ。」

 男が顔を上げて混乱しながらも、どうしてですかと聞いてきた。

「大丈夫その娘は生きている。だから君は誰も殺してなどいないよ」

 男は数刻固まったあと、体から魂が抜け出たようにぐったりとした。安心したようだ。少しの間男の小さな嗚咽が響いた。そうして少しして男が尋ねてきた。

「しかし、なぜ女が生きていると言えるのですか」

「実は先程荒くれ者から電話があってね。ゴミクズ野郎が女を返済代わりに置いていったが、重傷だそうで。治療にかかった費用と身代金、きっかり払わなきゃ娘の命はないと言うんだ。であれば娘がまだ生きているのは当然だろう?」

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