第14話

 ぼくは大樹の影にかくれて、月乃さんのお仕事をみることにした。

 月乃さんからひとつ、注意をうけた。

 神切笛かみきりぶえ……、彼女のもつ、その特別な笛は、ヌル君をこちらの世界にリンクさせるとともに、人の心と体を溶かす。


 つまり、ぼくもその音色をきけば、溶けてしまうかもしれない、というのだ。


 ――といっても、ユキト君はE粒子がゼロの超欠陥人種だし、絶望とは無縁そうだし、笛の音色なんか意味ないカモメ。


 と月乃さんがカモメの鳴きまねをしながらいった時、うしろにいたヌル君は、体はすっごく震わせて、バンバンバンと樹の幹を叩いていた。


 ――ヌル君、笑いすぎ。

 ――ヌル君はユキト君のこと、お気に入りみたい。ホラ、目がトロンとしてるでしょう? これ、ゆうじょー? いや、はつじょー? の印なんだよ。(ヌル君のどこに目があるのか、ぼくにはわからない)

 ――まぁ一応、笛を吹く時は耳をふさいでおいたら?


 依頼主の女の子がきた。



 

 女の子がやってくると、月乃さんはブランコをこぐのをやめた。

 女の子はすこしおどおどした様子だったが、月乃さんは、傍からみたら、お人形のようにかわいい見た目をしているらしく、すぐにポーッとした顔になった。


 ふたりはなにか話しているようだったが、風の音と、ヌル君のうるさい呼吸の音、それから、ぼくのおくそこからきこえる、少女の叫び声のような、ヒドイ耳鳴りのせいで、よくわからない。


 やがて、雲はどこかへ去ってゆき、月の光が屋上にふりそそいだ。

 月乃さんは、女の子の肩にポンと手をおき、ヌル君の体はムクムクと波打った。女の子の目の光が、夜がやってくるように、きえた。水中みたいにしずかだ。どこまでもしずかな屋上には、ふしぎなふわふわが満ちていた。


 やがて、月乃さんは神切笛の吹き口に口をつけると、突然、ぼくの頭のなかには、ナニカがかけこんだ。それは、ぼくの胸を裏から切りさく冬の冷たさと、ドロドロの吐き気が混ざった、気持ちの悪いものだった。


 その気持ちの悪いものは、耳から入りこんでくるようだ。

 音はきこえない。神切笛から音は鳴っていないはずなのに、ぼくの耳には、なにかが入りこんでいるのだ。


 ぐにゃぐにゃぐにゃ……。

 それは、ぼくを溶かした。

 あぁ、ぼくはきっと、ゼリーになってしまったんだ。


 そうおもうほどに、自分の体がどこにあるのか、よくわからなかった。

 これが、月乃さんのいっていた、神切笛の音色の力だろうか。


 頭をだきかかえながら、月乃さんのいっていたことをおもいだし、耳をふさいだ。そうすると、体をつつんでいたグニャグニャが、すこしだけラクになった。


 女の子をみると、もう人の形をしてなかった。

 神切笛の音色をすべてうけとり、体がゼリーになってしまっていた。

 腕も、顔の皮膚も、爪も、おしりも、足首も、おっぱいも、なにもかも、ゼリーに溶けた。


 白色のゼリーが、屋上に水のように散らばっていて、ピクピクふるえている。持ち主がなくなった制服や、下着、シューズ、靴下、そして、ランドセルが、白色のゼリーのうえでぷかぷかうかんでいた。


 月乃さんは神切笛から唇を離すと、指揮棒をふるように、スイスイと宙にむけて何回かふり、ヌル君をうごかした。


 ヌル君の体は虹色にかがやいていた。虹色で何色にもなるブヨブヨの体は、時々透明になって、おいしそうなゼリーのようにもおもえた。月明かりの角度と、夜の影のかさなりがうまいこといけば、さらに透明になって、なかがみえた。なにか、赤いものが、ひろがったり、縮んだり、ヌル君の体のなかは、ふしぎだった。


 首をゆっくりとおろすと、巨大な口をひろげて、白色のゼリーのちらばる、屋上の地面にくっつけた。そこからはあっというまだった。白色のゼリーは、掃除機に吸いこまれるように、ヌル君の体にきえていった。


 もう笛はふいていないけど、なぜかぼくは耳をふさいでいて、それどもどこからか、女の子の悲鳴がきこえた、きがした。


 ヌル君の体は透明だったから、そのなかを駆けるゼリーがみえた。


 胸のあたりでゼリーはさらに溶けて、ぐしゃぐしゃのおかゆのようになっていた。

 お腹にまで到達した。そのあたりには緑色のチューブが集まっていて、いつもよりまぶしく光っていた。


 よくみえないけど、チューブのなかをなにかがながれているらしく、チューブの先につながった月乃さんは目をつむり、なんだか気持ちよさそうにみえた。E粒子……というものをうけとっているのだろうか?


 やがて、ヌル君の腰にまでゼリーが到達すると、白いゼリーは固体になっていた。 


 月乃さんが、ぼくのほうをみて、手招きをしている。


「ヒマなんでしょ? そこらへんにある服とか拾っておいて」


 しかたなくぼくは、女の子の服を集めてまわった。

 ヌル君の掃除機機能をつかっても、白色のゼリーすべては回収できなかったみたいだった。こびりついていたゼリーが、プルプル、こきざみに振動している。心臓の脈のうごきとよくにていた。

 それを月乃さんにわたしてみると、パクっとたべてしまった。


「おいしいの?」


「ユキト君の体、ぜんぜん溶けていないね。さすがはE粒子ゼロの天才だよ。君の妹さんはすっごくキレイに溶けたのに。まるで、サファイアのようだったよ」


「耳ふさいでたよ」


「絶望にのまれている人なら、耳をふさいだくらいじゃふせげないんだけど」


 白色のゼリーをむしゃむしゃしていると、彼女の口の端から赤いものがタラと垂れた。


 やがて、月は雲にうらにかくれてしまい、元の白色になったヌル君は、その場にうずくまると、お尻のあたりをムズムズ震わせた。

 そして、お尻に四角い穴が開き、まるで、うんちをするように、白い四角のかたまりをいくつか吐きだした。


 その四角いかたまりは、かすかにうごいていたから、死んでいないみたいだ。

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