第9話

 父さんはおびえた子猫のようになった。

 ぼくにも、桜にも、暴力をふるわなくなった。

 サボりがちだった仕事も、まじめにいくようになった。

 

 『ハケン』でかせいだお金の一部を、台所の引き出しにいれ、時々桜は、そのお金をつかってスーパーで食パンを買った。


 夜、お風呂場のほうで、うめき声がきこえるようになった。


 夜、水のしたたる音がどこかできこえるから、トイレの帰りに覗いてみると、バスタブのなかで父さんが泣きながら、ふるえていた。体には殴られた痕があった。桜はよく、うつぶせの父さんの後頭部を何度も殴っていた。だから、脳をやられ、バスタブを自分の布団と勘違いしているのかもしれない。


 桜の右手を舐めさせてもらおうとしても、桜は拒否した。

 寝てる時にコッソリ舐めようとしたが、桜は眠っていないようだ。

 いつも畳の部屋の窓辺に突っ立ち、月の光をあびていて、まるで、日光浴をする、観葉植物のように、あんまりうごかない。


 桜は子守歌のかわりに、ぼくの首を絞めるようになった。

 子犬の毛のさわりごこちのようにやさしくて、つめたさで胸がいっぱいになる、すごい力だった。

 だけど、花の香りはしなかった。

 ぼくはたちまち、眠りについた。

 

 桜の腕の力はすこしずつ、強くなっている。

 黒く、どでかい手形が首に残った。

 冬がちかかったから、ぼくはマフラーで首をかくしていた。


 このままでは、いつかぼくの首の骨は、小枝のように折れてしまうかもしれない……そうすれば、マフラーなんかではつなぎとめられないだろう。





 放課後。

 その晩は満月だった。ぼくは忘れ物をとりにきたふりをして、屋上に忍びこんだ。


 屋上は風が強く、ぼくのマフラーは、首をしめるようになびいていた。

 きっと、屋上の柵を乗り越え、マフラーを柱にくくりつけてとびおりれば、ぼくはおおきな、そして、汚らしいテルテル坊主になるのだった。


 ブランコの鎖がキィキィ鳴っていた。大樹はとてもおおきく、一番上の枝にのぼれば、月にまでてがとどきそうなほどだ。

 月の光は大樹にあたり、影をつくっていた。


 ブランコの鉄の音は、さらに耳ざわりなほどにひびきだし、少女の笑い声が、風にのって、影のほうからきこえる。

 

 月乃さんと、そして、白いバケモノがいた。


 月乃さんはブランコをこぎ、バケモノは大樹の根っこのあたりを這いまわっていた。時々、樹をよじのぼろうとするんだけど、そのうごきは、なんだかとてもおおきなトカゲのようにもみえる。


「君は天体観測クラブの生徒ってわけではないよね? こんな時間に学校の屋上にいる生徒なんて、星好きか、あるいは自殺の下見にきているかくらいだ」


「ユキト君だね? たしかおなじクラスの」


 月明かりがこんなにも光っているから、そのガラスの目玉のおくで、しずかな闇がどんよりかくれているのがわかった。


 月乃さんは、ブランコからぴょんと、宇宙にとぶように、ふんわりと、そして、ふわふわとスカートをはためかせながら、おりたった。


「ヌル君っていうのよ。やっぱり、ユキト君はヌル君がみえるのね」


 ヌル君。

 ヌル君の体からは、今日も無数の緑色のチューブがのびていて、月乃さんの体に突き刺さっている。

 緑色の液体が、月に照らされ、ヌラヌラ光りながら、チューブを走っていた。(あれがうあさの……メロンソーダだろうか?)


「ヌル君とやらは、ドラゴンににているけど、翼はないんだね?」


「メタボなの。きっと翼があったとしても落っこちてしまうわ」


 月乃さんの表情は、よくわからない。

 まばたきをするごとに、顔の印象がかわる。おばあちゃんになったり、人体模型になったり、頭がへこんだ人形になったり、首の折れた女性になったりする。


 だけど、ガラスのような目玉はそのままだった。


 ヌル君はぼくにきづいたようで、首をこちらにむけていた。彼の首は、ブヨブヨしたその見た目の通り、のびるようだった。2メートルはゆうにありそうだった。


「主食はなんなの? やっぱり人肉?」


「E粒子」


 月乃さんはヌル君の首をなでた。


「良い漁師? この町に漁師はいないよ?」


 なでられて気持ちがいいのか、ヌル君は首を、ふるふるゆらしていた。


「ユキト君。なにかお願い事があってきたの? でも、私、君の体にはまったく興味がないの」


「あぁ、そうだった。ぼくの妹の右手をかえしてほしい」

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