空っぽランドセル

木目ソウ

第1話

 桜の右手の手のひらは、花の香りがただよっている。

 ぼくは花にはくわしくないから、なんの花なのかはしらない。でも、昆虫はあつまってこないようだった。


 ちっぽけで、雨がしみこんだようなこの部屋に、花なんかおいていないし、土の臭いと、酒の臭いしかない。だからぼくは、桜がいなくなったあと、この家にはもう、母さんがいないことをしった。




 耳鳴りと、暗い、天井の木目。

 月灯りはどこにもなかった。

 眠れない。

 殴られた場所が痛い。


 晩ご飯をたべる時、父さんは機嫌がわるかった。

 また『ハケン』というお仕事の偉い人に怒られたんだとおもう。


 父さんはイライラしている時、そして、お酒を飲む量が増えた時、ぼくと桜に暴力をふるう。


「にーにー」


 父さんの部屋からもどってきた桜は、目に涙をうかべていた。

 小学四年になってから、桜は時々、父さんの部屋によばれるようになっていた。

 しばらくすると、その日はかならず、桜は泣きながらぼくの布団にもぐりこんだ。

 腐った魚のような臭いが、桜の体から、ふわんと、ただよっていた。


 妹の桜は、ぼくとおなじく頭が悪い子だった。

 毎朝ぼくのために食パンを焼いてくれるが、電子レンジのタイマーの使い方がわからず、いつも真っ黒にしてしまう。でもおいしかった。

 洗濯機の使い方もよくわからないみたいで、父さんの作業着を粉まみれにして、よく殴られている。


 桜の体温は温かいけど、陽だまりほどではなかった。

 ぼくは桜の右手の、人差し指と中指を口にふくんだ。


「にーにー? あたしの右手……ペロペロキャンディーじゃないよ」


 おしゃぶりをしゃぶる、赤ちゃんみたい――。

 初めて桜の右手をくわえた時、桜はくすぐったそうに、そうつぶやいた。


 桜の右手。その手のひらには、花の香りがこびりついていた。


「また花の香りがする」


 蜂やカナブンは花の蜜が好きだけど、どうやら桜の右手には蜜はついていないようで、彼らはちかよらない。

 だから、ぼく専用の右手だった。


「いつもいってるね。あたしは、わかんないけど……なんのお花?」


「キンモクセイやアサガオのようにやさしい香りではないよ」


 母さんがまだいた頃。

 父さんの仕事がうまくいかない時は、ぼくと桜の晩ごはんはなかった。

 お腹が減りすぎたぼくは、花の香りがただよう桜の右ひじに噛みついた。桜は泣き叫んでいたけど、ぼくはお腹が減っていた。

 いくら噛みついても、人間の肉は丈夫みたいで、たべられなかった。

 血がながれて、黒い痕ができた。

 

 母さんがぼくをむりやり引き剥がした。

 桜の右ひじには、今も黒い歯形が残っている。

 桜はそれを友達にみられたくないようで、夏も長袖をきてすごしている。


「ねぇにーにー……。来年から中学生だね」


 でも、長袖のしたからでも、花の香りはただよっている。

 皆は、わからないのか?


 眠れない夜が何日もつづくと、夜と昼間の区別がつかなくなる。

 だけど、桜の右手を舐めていると、朝になっていた。


「でも……あたしはまだ小学生だ」


 頭がぐわんぐわんするなかで、桜はなにかを話していた。

 それは母さんのことだった。

 母さんとまた会いたいね、とか、私も母さんみたいに綺麗になりたいとか。

 よくわからないことをいっていた。


 死んだ人にあえるわけない。

 当たりまえのことだった。

 母さんはもう死んでいた。


「学校の屋上におおきな樹が生えているでしょう? あたし、先生にきいてみたの。あの木はなんで生えているんですかって。でも、わかんないんだって。先生にもわからないこと、あるんだね」


 天井の木目はやがてみえなくなった。

 部屋は真っ暗で、月明かりもない夜だった。


「あの木には女の子が住んでいるんだよ。クラスのお友達がいっていた。それでね、満月の夜に木にむかうと、枝にかかったブランコでひとりの女の子が遊んでいる」


 まぶたが重い。

 桜の指はぼくのヨダレでべとべとになっていた。

 頭のなかいっぱいに、水がつまってしまったように、重い。


「その子に願い事をすると、なんでも叶えてくれるんだって」

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