8
ララは、ホテルの周りをジョギングしていた。どこに遠征しても欠かさない、日課であった。まだ朝早く、人の姿もまばらである。しかし、特に目立つ大きな人影が視界に入った。水色のパーカーには、環日本プロレスのロゴが入っていた。
大鯱だ。シングルチャンピオンは、朝の公園で、鉄棒の前にいた。ララは立ち止って、その様子を眺める。
大鯱は何度か足を動かした後、勢いよく地面を蹴った。しかし、体は持ち上がらず、すぐに元の体勢に戻ってしまった。
「逆上がりの練習?」
ジョギングの最中に同業者に出会うことはたまにあったが、逆上がりをしているのは初めてだった。しかも、全くできていない。
その後何度か挑戦するも、全くできる気配がない。
「大鯱さん」
ララは、思わず近寄って声をかけていた。
「えっ……月尾……さん?」
ララの姿を確認すると、大鯱はうつむいてしまった。
「あ、ごめんなさい。見かけたのでつい声をかけてしまって」
「いや、あの。お恥ずかしいところを」
「そんな全然。逆上がりですか?」
「ええ、まあ。まったくできなくて。あ、僕、ブリッジとかもできなくて。なんかこう……それに近い感覚、味わってみたくて」
ララは大鯱の頭のてっぺんからつま先までを見た。大相撲時代よりも痩せたとはいえ、高身長で130キロに迫ろうかという巨体である。元々得意ならばともかく、そうでないならば逆上がりはどうにも無理そうな気がした。
「体、柔らかいかと思ってました」
「ああ、股わりとかのイメージ? それはできるけど。体は硬い方で」
「そうなんですね」
心の中では「知ってた」と思っていた。大鯱の間の悪さは、彼のぎこちない動きから来るものでもあった。そして言われてみれば確かに、ブリッジを必要とする技を見たことがない。もしスープレックスが封じられているとすれば、引き出しがかなり少なくなってしまう。
「月尾さんは、できる……んだよね?」
「ブリッジ? 逆上がり?」
「逆上がり」
「やってみましょうか」
ララは鉄棒をつかむと、くるんと素早く回って見せた。
「わあ」
「昔から、こういうのは得意で」
「いいなあ。プロレスラーに向いてる」
口元は笑っていたが、目がとても寂しそうだった。普段のマイクとは全く違う様子に、ララは困惑していた。
「大鯱さんも……向いてますよ」
「そうかなあ、ははは」
向いてないんだ。ララは確信した。大鯱銀河は、プロレスラーに向いていない。ただ、それ以上に大相撲に向いていなかったのかもしれない。
そしてどうしても、ララは木宮のことを思い出してしまう。向いている人が辞めてしまい、向いていない人がチャンピオンとして苦悩している。
不思議な世界だな、と思った。
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