10日目以降、あるいは思いつくすべての死
10日目
これまで8回ほど、4月8日を繰り返し、分かったことがある。主に3つ。
これから忘れないようにここに、書き留めておく。
ひとつ。2022年の4月8日に私が閉じ込められているということ。4月9日、あるいはそれ以降の日付迎えることはできるが、途中で意識を失うか眠るかすると、8日の朝に戻ってくる。
5回目に、眠らず10日の夜までたどり着くことができたが、睡魔に勝てず気が付いたら6回目の布団の中に居た。絶望した6回目は飲まず食わずで12日の昼まで過ごしていたが、気絶して無事7回目の朝を迎える結果となった。おそらく、自死もできないだろう。
これから試すことになるだろう。その際は必ず書き留めておこう。
ふたつ。8日の状態は常に一定であること。天候、気温。人々の動線。ニュース。世界情勢。その全てが過去の試行において全く一致していた。
私に対して嫌味を言ってくる教授の台詞さえ一言一句同じだということに気付いた4回目には、説教中に思わず吹き出してしまった。特筆すべきなのは、そう吹き出した私に対して教授が何食わぬ顔で説教を続けたことだ。私がまるで笑っていないかのように、話し続けるその様子は、1回目と同じだった。
教授だけではない。例えば食堂のおばちゃんや、ゼミの同期など、そこにいる人は私がまるでそこにいるかのように発話したり、振舞ったりしているが、私に向かって話しているわけではない。ロースカツ定食を頼んだ私に対して、エビフライ定食を出してくるし、セクハラまがいの発言をまるで聞こえていないかのように社交辞令の挨拶で返す。
全て、初めての4月8日のように。
繰り返される8日は、オリジナルの8日、つまり初日の状態がベースになっているようだ。私がその中で何をしても、初回の状態が損なわれることはないということだろう。
幽霊のようなものだと言っていいかもしれない。触れはするが、それがオリジナルの時の行動ではない限り、相手や物が反応を返すことはない。人は話さないし、物は動かない。
そう考えると、回数を積んで記憶が薄れないうちに、初日の記憶は書き留めておく必要があるのかもしれない。精神安定上。これは別途記録として保存しておく。いつでも見れると言ってしまえば、それまでではあるが。
記録と言えば、このPCの中だけは次回に維持されるらしい。仕組みは分からないが有り難い。仮に作品が何十万字を超えるようなものになった場合、数日ではとても書ききれるものではない。ループだなんだが知らないが、随分物書きに甘い仕組みだ。昔見た、タイムループを繰り返すアニメの主人公の苦労が偲ばれる。私は脳を焼かずとも、今日のこの日を繰り返すことができるのだから。
みっつ。この原因が、オリジナルの日の夜の誰かのせいであること。
オリジナルの行動を全くトレースした9回目の夜、誰もいない研究室であのやり取りが聞こえた。
『書けばいいじゃないですか。そんな文章を。』そんな文章とは何か。
【読んだ皆の心をざわつかせ、正気でいられなくし、かつそれが俺にしか書けないことが一目で分かるもの】だ。過去の俺は、そう願った。今も、そう願っている。
『でも、そのためには…』そして、そのために必要なものを願った。
『時間が足りない。』
つまり、このループは、2022年4月8日は、俺ができる最高傑作を書かないと終わらない。
俺自身が、そう願った。神か悪魔か、人智を超えた何かが、それを叶えた。
何と素晴らしいものなのか。この10回のループだけでも、俺はこれまでには想像できなかったほど貴重な体験を多く積むことができているではないか。
繰り返される日々の中で、幽霊のように扱われる恐怖。
睡眠不足と飢餓の中で、死ぬことすら覚悟した勇気。
それすら叶わず、文章を書くことしかやることがない日々への期待。
全て、これまでの私の人生には無かったものだ。
私には、書きえなかったものたちだ。
書ききれるだろうか。いや、書いてみせる。どのみち、書くしかないのだから。
ビール缶が散乱した机の上に、キッチンから持ち出した包丁をそっと置く。
置いて、右手で包丁の柄を握る。何回か、それを繰り返す。繰り返した後、右手でしっかりと握った。刃先を揺らす。どこに向かえばいいかと、薄く銀色に光る刃が問いかける。
左手か、首筋か、あるいは腹部か。
いつものように、左手に包丁をあてがう。そこに浮き出た線を見る。いくつもの白線と青線。弱い私の生の象徴。生にしがみ付く愚かさの象徴。それに重ねるように、右手で真っ赤な線を描く。3本の線から、生が溢れてこぼれ出す。机や、カーペットの上にそのまま滴る。
今までにない勢いで、血が体から抜けていくのを感じる。体中の血液を巡らす役割の心臓から、体全体を揺らすくらい大きなリズムで、死ぬための血液が送り出されていく。俺の心臓は今、死ぬために鼓動を続けている。これなら、風呂場に向かう必要もないだろう。
何と素晴らしいものなのか。頭に血液が届かなくなって、薄れてゆく、意識の中でそう思う。
処理に気を遣う必要もない。わざとこぼした生をタオルでぬぐいながら、自身のどうしようもない弱さと、それでも続く人生に絶望する必要もない。
何よりここでは、ためらい傷すら残らない。
最高傑作のための一日 蒼板菜緒 @aoita-nao
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