最高傑作のための一日

蒼板菜緒

1~3日目、あるいは気のせい

こんなものが書きたかったわけじゃない。こんなものが売れるわけがない。

なぜだ、なぜ。あいつが書いたものが売れて、俺の書いたものが評価されない。


俺だって書ける。俺だって知ってる。くだらない人間の後悔や、それを乗り越える美しさを知っている。家族の温かい心の交流や、気づかなかった恩師の教えのありがたさだって知ってる。そんなもの、俺だって知ってるし書けるのに。なぜ、そんなものしか書かないあいつのあんな本が。


俺だって書いてる。死ぬ気で書いてる。のうのうと放蕩の学生生活を送っている奴らを横目に見ながら、俺だけにしか書けないものを書いてきた。友人も、恋人も、家族も犠牲にして書いてきた。眠れなくなっても、食えなくなっても書いてきたのに。


書きたい。読んだ皆の心をざわつかせ、正気でいられなくするものが。

俺にしか書けないことが、見た誰にだって一目で分かる、そんな文章を。


「書けばいいじゃないですか。」卓上のライトとモニターが私だけを照らす、真っ暗な研究室に、俺ではない声が響く。

「書けばいいじゃないですか。そんな文章を。」

「でも、そのためには…」なぜかその声に答える自分がいる。今、自分の身に起きていることに疑問を抱かず答える自分がいる。誰かとすら尋ねず質問の答えを考える自分がいる。


そのためには。なにが必要なのだろうか。俺になくて、あいつにあったもの。

目の前の、見えない誰かは俺の言葉を待っている。何か言うことを促している。

ばかげている。そう思いつつ、考える。


才能?経験?努力?いや違う。全部俺のほうがあいつより上だ。上のはずだ。

だとしたら、今の俺に足りてないものは。


「時間が足りない。」



「時間が足らない。」

そう呟いた瞬間、気が付けば俺は布団の中にいた。いつもの自室。枕もと、騒々しくわめいているスマホを手に取る。6時50分。アラームを消して、今日の天気を見る。いつものルーチンだ。晴れのち曇り。昨日と変わらない、春らしい日だ。


気が重い。のそのそと布団から這い出る。ゆるゆると、就寝の感覚が体から抜けるのを味わう。頭がそれに追いついて覚めてくる。立ち上がる。

そこで、覚めかけた脳内が微かな違和感を検知する。なんだこの感じ。


寝ぼけまなこであたりを見渡す。いつもの自室だ。6畳程度の、単独入居用の安アパート。机の上には、昨日か一昨日開けたビール缶が散乱している。足元には飲みかけのペットボトル。これも、普段通り…


昨日、掃除しなかったか。違和感が大きくなって、ようやく気付く。

昨日は。二日酔いか、はっきりしない頭で必死に思い出そうとする。


たしか、久しぶりに部屋を片付けようと思って、布団も干してから、研究室に向かった。研究室で一通り説教された後、こそこそ執筆を進めて、次の懸賞こそ入選しようと躍起になって、気づいたら夜で。

その後。誰かが私に問いかけた。誰かと話して、その誰かが何かを言って。


私は何と言ったのだろうか。


微かな頭痛の予感がして、私は考えるのをやめた。どうせ、いつも通りの繰り返しだった。そんなことより、掃除した筈の室内がまるで元通りになっていることのほうが、よっぽど問題だろう。掃除の夢でも見て、した気になったのかもしれない。現実は、卓上の横になったビール缶からぬるそうな金色の液体が漏れ出ている。それだけは事実だ。



缶とペットボトルのゴミの袋、どこに置いてあったかな。布団も干さなければ。

今日の予定を考えながら、キッチンに向かう。いつもの繰り返しだ。掃除が終わったら、研究室に顔だそう。教授にひとまずの進捗報告と学会発表の辞退を申し出て、後は執筆作業に当てよう。文句や嫌味の一つでもいわれるだろうが、いつも通りだ。どうせいつかは大学も辞める。それまでに結果を出せばいい。研究しかり、執筆しかり。


いつも通りだ。昨日と同じことだ。



あれ?



6時50分のアラーム。天気は晴れのち曇りの春模様。

久しく干されていない布団特有のカビの匂い。転がるビール。


今日の日付は、2022年4月8日。

昨日と同じだ。昨日と同じと言っていいかは分からないが、睡眠をとる前の日付と同じだ。


そして、多分、一昨日とも同じ日付だ。


今日は、三回目の2022年4月8日だ。

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