18 溜めすぎて インストールが 終わらない(2/4)回想

 彼女の声は、この世界のすべてだった。


◇ ◇ ◇


 むかしむかしあるところに、ひとりの少年がいました。


 少年は人づきあいが苦手でした。できないわけではないけれど、仲間と話していると、その時間がどうも無駄に感じられ、家に帰ってひとりで遊んだほうが良いように思えてきて、実際にそうしていたのでした。


 少年はそんな自分のことを社会不適合者だとは思っていましたが、そのことについては特に気にしていませんでした。どうしてかというと、社会より自分の方が正しいし、賢いと信じていたからです。それは一面においては事実でしたが、その奢りがいずれ自分に何をもたらすかを考えられるほどには、少年は正しくもなければ賢くもありませんでした。


 そんな少年も、部屋にひとりでいると、ときに寂しくなることがありました(もっとも、少年はその感情が寂しさだとはまだ気づいていませんでしたが)。


 そんなとき少年は魔法の板を取り出すのでした。


 魔法の板はすごい板です。魔法の力で、遠くにいる人とお話ができます。文字を送り合って、声を使わないでお話をすることもできます。


 少年は最初、偉大な魔法使いたちが話しているのを、板を通してただ聞いていました。


 ひとたび偉大な魔法使いが話し始めると、多くの人がその言葉に耳を傾けていました。文字を使って魔法使いに話しかけることもできましたが、少年はそうしませんでした。畏れ多いことだと思ったからです。


 偉大な魔法使いたちが語ることは、魔法界についての多くのことを少年に教えてくれました。少年は魔法使いたちが教えてくれた遊びで遊び、歌を聴き、本を読みました。


 ですが少年はだんだん、それでは満足できなくなってきました。


 自分がここにいることを知ってほしい。自分が言ったことに答えてほしい。そんな思いが、彼の中でふつふつと湧き上がりました。


 だから少年は、大魔法使いが話しているとき、文字だけで話しかけてみました。ですが大魔法使いは答えてくれません。


 もう一度、さらにもう一度。ですが大魔法使いは答えてくれません。


 そこで少年は考えました。


 大魔法使いではなく、見習い魔法使いに話しかければ答えてくれるかもしれない!


 さっそく少年は、魔法の板を使って見習い魔法使いを探しました。するとすぐに、魔法界には少年が想像した以上にたくさんの見習い魔法使いたちがいることが分かりました。


 少年は魔法の板を使って、見習い魔法使いたちの声の海を渡り続けました。


 いろいろな見習い魔法使いがいました。


 大魔法使いに憧れてその言葉を真似する者、自分を慕う者たちと語り合うことで心の平穏を得ることができている者、自分へのもどかしさを言葉の刃にして振り回すことしかできない者、そして、自分に魔法は無理だと考え、すぐに消えてしまう者……。


 しばらくの漂流の末、少年はある見習い魔法使いの少女のもとにたどりつきました。


 少女は遠いところに住んでいて、少年より年上でした。学校に通っているけれど、その学校がつまらないそうです。


 少年は最初、少女のことを他の見習い魔法使いたちと同じだと思っていました。言葉を送れば、言葉を返してくれるけれど、きっとそれだけだと。


「今日はみんな何してた?」


『学校』


『仕事』


『休み』


「へえ、そうなんだ。大変だねえ、みんな」


 そんなとりとめのない会話が繰り返されて、きっと見習い魔法使いの少女はいつのまにか消えてしまうのだと。そうして消えてしまっても薄情な自分は『またか』と思うだけなのだと。


 でも、その少女は違いました。少女は少年の言葉にとても興味を持ってくれました。


「へえ、少年もあの本が好きなんだ。じゃあ、あれって読んだことある?」


 ふたりの会話は盛り上がりました。あまりに盛り上がりすぎたので、他の人たちを置いてけぼりにしてしまうほどでした。


 それではいけない、と思ったのでしょう。少女は少年に、ふたりだけで話そうと言いました。魔法の板の力を使えば、それは造作もないことでした。


 ある晩、少年と少女は語り合いました。


 魔法の板を通して伝わってくるのは少女の声だけでしたが、少年にはそれで十分でした。


 少年が多くを望まなかったからではありません。声を聞くだけで、少年の想像の中にひとりの少女が立っていたからです。少年は少女の姿を具体的に思い浮かべることはできませんでしたが、それでも確かに少女はそこにいました。


「少年、キミは大人の醜さや汚さについてどう思う?」


「どうって……特に何も考えたことはないけど……」


「そうか……大人は醜いし、汚いよ。だけど問題なのは、生きている限り誰もがいつの日にか大人になってしまうということだ。そのとき、大人はだいたい2種類に分岐する。自分の醜さや汚さに気づいていない大人と、気づいている大人だ。前者は正確には大人の醜さや汚さを忘れてしまった大人、後者は正確には、大人の醜さや汚さをずっと覚えている大人、ともいえるだろう。子供っぽい大人というのは後者のように思えるが、実は前者なのだといえる。自分が大人であることに気づいていないのだからね」


「覚えている大人、つまり大人っぽい大人は大変だね」


 少年は言いました。


「どうしてそう思うんだい?」


 少女は問いました。


「自分を否定するしかないから」


 少年は答えました。


 少女は少しだけ言葉に詰まりました。


「……ああ。そうだな」


「どうしていま、そんな話を?」


「少年に気をつけてほしかったからだよ。子供と対峙するとき、大人は本質的に矛盾した存在なんだ。何を言うにしても、何を伝えるにしても、自身の醜さと向き合わざるをえない。醜い自分が子供に何を言っても無駄だということを意識せざるをえない。それは裏を返せば、子供に都合のいい言葉ばかり口にする大人はおそろしくヤバい奴だということだよ」


「なんとなく、言いたいことは分かる」


 少年は言いました。


「ごめん、さっきのは嘘だ」


 唐突に、少女は言いました。


「さっきのって、どれ?」


 少年は問いました。


「気をつけてほしいから大人の話をした、という部分だ。本当のことを言うと、聞いてほしかったから言ったんだよ、ただ単に」


「分かった、いくらでも聞くよ」


 少年は言いました。


「ありがとう」


 少女は答えました。


 それからというもの、少年と少女は毎晩のように魔法の板で語り合いました。毎晩のように、というのは誇張ではありません。毎晩ではありませんでしたが、ほとんど毎晩だったのです。


 だいたいは少女が少年に声を掛け、おしゃべりが始まりました。少女はどうやらとても忙しいみたいでした。少女から連絡がないときは、少年は何もしませんでした。少女の眠りを邪魔してはいけないと考えたのです。


 少年に、自分から声を掛ける勇気がなかったのは確かです。でも少年と少女の会話は、少女を中心に回っていたこともまた確かでした。少女が話したいときに話す。それが暗黙のルールでした。


 次第に少年は、少女の声を聞かない夜に少女のことばかり考えるようになりました。


 しかも、少女のことを考える時間はたちまち長くなりました。少年はついには朝も昼も夜も少女のことを考えるようになってしまいました。少女のことを考えて胸が苦しくならないで済むのは、少女と話している間だけでした。


 これはおかしい、と少年は思いました。


 もしかして少女は、魔法使いとしての実力を伸ばし、自分に魔法をかけてしまったのだろうか。


 いや違う、と少年は思いました。ただ少女の声が、つまり少女が、少年を虜にしていたのです。


 それを恋、と呼ぶことも可能でした。しかし少年はそれを恋とは呼びたくありませんでした。自分の感情が、そんなちっぽけな一言で表されてしまうものだとは思えなかったからです。


 少年は迷いました。この気持ちを、果たして少女に伝えるべきなのだろうか。


 少年はやや理屈っぽい性格だったので、伝えることによるメリットとデメリットを頭の中で整理しました。


 まずはメリットです。


 伝えると、自分の気持ちが少女に伝わります。感情全部を伝えることは当然無理ですが、自分が少女のことを特別に思っているということだけは、おそらく伝わると思います。


 でも伝えてどうなるのか、と少年は思います。


 自分の気持ちを知ってほしい、というのは単なるワガママにも思えます。心の中のモヤモヤを相手にぶつければ、確かに自分はスッキリするでしょう。でも、相手の立場からすれば? 興味のない人間から好意をぶつけられるのは、交通事故に遭うようなものではないでしょうか?


 そこまで考えて、これはデメリットのときに考える問題だな、と少年は思いました。なので、少年はメリットについてもう少し楽観的に考えることにしました。


 つまり、少女が少年に多少なりとも好意を持ってくれている(これから持ってくれる)場合についてです。その場合、少年が思いを伝えれば、少女は少年の思いに応えてくれるかもしれません。


 そうなればどんなに嬉しいだろう、と少年は妄想しました。やや理屈っぽい少年ですが、この部分に関しては恋する人に特有の奔放さで想像を膨らませました。


 通話のとき、もっと深い話ができるかもしれない。もしかしたら、魔法の石を介さずに現実で会うことができるかもしれない。手と手を触れ合わせることができるかもしれない……。


 ですが少年は恋をしてもなお、何も考えずに生きているそこらへんの人間と同じようにはなりきれないかわいそうな少年でしたので、妄想を中断し、デメリットについても考えることにしました。


 デメリット――それは端的にいって、少女が少年に怯えてしまうという可能性です。


 メリットのところでも出ましたが、もし少女に一切そのような感情がなければ、少年から一方的に思いをぶつけられることは少女にとって交通事故のようなものでしょう。それは恐怖、とさえいえるかもしれません。


 ここにひとつのぬいぐるみがあるとします。そのぬいぐるみから突然ペニ……いえ、なんでもありません。そのぬいぐるみが突然、襲いかかってきたら怖いですよね? そういうことです。熊のぬいぐるみはぬいぐるみだから可愛らしいのであって、本物の熊は怖いのです。


 少年はそこまで考えて、メリットとデメリットを比較しました。そうして、自分の思いを少女に伝えることにおいてはメリットにデメリットが勝ることを確信しました。なぜなら少年は、少女との今の関係にも十分に満足していたからです。


 いま、夜な夜な少女とおしゃべりするのはとても楽しい。この関係が続くのならそれでいい。あえてこの関係を終わらせるかもしれないリスクを負う必要はない。少年はそう考えました。


 ですが、少年は間違っていました。少年は『この関係が続くのなら』とは考えましたが、『この関係が明日、突然に終わるとしたら』とは考えなかったからです。


「おやすみ、少年」


「お疲れー。おやすみなさい」


 それが最後の会話でした。


 翌日の晩、いつものように少年は少女から声がかかるのを期待して、魔法の板を取り出しました。


 不思議なことに、それを手にしただけで、どこか嫌な予感がしました。


 いつもはずっしりと重いはずの魔法の板が、今日はどこか軽く感ぜられました。そんなことは到底ありえないのですが、確かに少年にはそう思えたのです。


 少年は急いて魔法の回路を開き、それを点検しました。


 そうして、少年はあることに気がつきました。少女とつながっていた魔法回路が跡形もなく消えているのです。


 少女が自らの手でそうしたという以外にはありえない、それは消去でした。


 少女は消えました。


 残ったのは疑問と、後悔と、虚しさ。そうして少年の心の一部は、きっと壊れてしまいました。


 それから少年は、誰かと仲良くなるのを心から恐れるようになりました。

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