16 ボタニカル オーガニックな ノンシリコン

「あたし、スタンディングオベーションって言葉を人前で言うの、どうしても躊躇っちゃうんだよね。卑猥だから」


 よく晴れた5月の月曜日、下校途中。校門を出てしばらくしたところで霜上川さんは言った。


「きっとこういう人、多いと思うんだけどなー。みんなうっすら卑猥だと思ってるんだけど、卑猥だと思ってると思われたくないから堂々と『スタンディングオベーション』って発言してる人が多いと思うんだよね。でもそう思うにつけ、より卑猥な言葉に思えてくるというか……」


「え、ああ、うん」


「ええっ!? 新鮮な返事! なにか考えごとでもしてた!?」


「あっ、ごめん。なんでだろ」


「ぜんぜん気にしてないけどね! 五月雨くんにもツッコミぢからが鈍るときはあるだろうし!」


「下ネタに上手くツッコミを入れている状態が僕のベストコンディションだと思われている!?」


「そうそう、その調子!」


 霜上川さんはほっとしたようにはにかんだ。ツッコミを期待されていたらしい。


 一瞬、どうして、そしていつのまに、僕は霜上川さんの下ネタに必ずツッコミを入れることになっていたのだろうという根本的な疑問にぶつかりそうになる。


 駄目だ。なぜだか分からないけど、良くない傾向という気がする。


「フヒ、フヒヒ、テスト休み、最高……」


「うわぁぁぁっ!」


 そこへいきなり現れた山白さんに、僕はつい大声を上げる。


「やっほー。そっか、今日からテストが終わるまで部活はないんだよね」


 一方で霜上川さんは少しも驚く様子はなく余裕の応対だ。


「だから、霜上川さんと一緒に帰る絶好の機会……。卑猥に聞こえる言葉も、ちゃんと準備してきたよ」


「おっ、サンキュー」


 闇取引みたいになってんな……。


「ボクが霜上川さんにできるのは、それくらいだから……」


「そんなことないよー! 仲良くしてくれるだけで嬉しいし」


「か、神……」


 悶絶する山白さんをよそに、僕は『霜上川さんは仲良くしてくれるだけで嬉しいのか……』となぜかモヤる。あれ? でもほんと、なんで?


「それで、例のブツはどんな感じ?」


 霜上川さんはニヤリと笑うと、山白さんに問うた。こんな表情、見たことないのだが!?


「えっとね、えっとね、コミュニケーションって、頑張ったら、こ・むにゅ・陰茎・ションって読めないかな……。陰茎をむにゅってするのがコミュニケーション、みたいな……えへ……えへへ……」


「うーん……! ちょっと無理があるかもな~でも、かなりおしいんだよねえ」


 そう言って悩んだ様子の霜上川さんだが、表情はどこか満足げだ。


「駄目だったのか……半年ROMってくる」


「いやいや、そんな必要はないから! かなり筋は良いから!」


「す、筋が良い……って言葉、かなり卑猥じゃない?」


「わーっ! ほんとだあ!」


 遠くに珍しい動物を見つけたときみたいなテンションで霜上川さんは顔を輝かせる。


「タマタマに浮かんだだけ……筋だけに……ぐへへ」


「て、天才か……!?」


 霜上川さんは衝撃を受けて固まっている。


「あ、あと、もうひとつ思いついたのがあって……」


「おおっ! なになに!?」


「地下鉄前立線って……どうかな?」


 どうかな、じゃあないんだよ。


「良い……! とっても良いよ!」


「ぐへ……ぐへへ……嬉しい……」


 地下鉄前立線は無事に霜上川さんの琴線に触れたらしい。仲良いな、このふたり……。


 このふたりさえ満足なら、僕が話の輪に入る必要は特にない。そんなことを考えながら歩いていると、またしても背後から声が聞こえた。


「おーっほっほっほ! 偶然ですわ~!」


 このお嬢様ボイス(?)は……。


「フユちゃん!」


「おーっほっほ! 集さん! 今日も今日とて奢り高ぶっていますわねー!」


 やはり、霜上川さんに謎の対抗意識を燃やしているお嬢様こと冬籠さんだったか……。とはいえ、それは『懐いている』とほぼ同義の対抗意識だとは思うのだけれど。


「えっ、あたし、フユちゃんになんか嫌なことしちゃったかな!?」


 冬籠さんの言葉に対し、霜上川さんは奢り高ぶりの対極みたいなことを言ってあたふたする。本当に良い人だ……。


「いいえ、ただ、わたくしより上の "高み" にいるということがすでに傲慢なのですわー!」


「その台詞を言ってるやつが一番傲慢だよ!」


 とツッコミを入れて自分の声を聞き、発声するのがかなり久々だったことに気がつく。


「味噌だれさんはだまらっしゃーい!」


「五月雨なのだが!?」


「あははは。ふたりとも仲良くなってくれて嬉しいよ」


雁垂がんだれさんとは別に仲良くありませんわー!」


「漢字の部首のあれのこと!? だから五月雨だって!!!」


「雁垂ってあれだね、けっこう……いや、フユちゃんにはバレてないんだった。マズいマズい」


「集さん、何かおっしゃいまして?」


「ななな、なんでもないよー」


 どうやら雁垂という単語を卑猥に感じてそのことを指摘しようとしたけれど冬籠さんには下ネタの件がバレていないことを思い出し咄嗟に胸の内に留めたらしい。


 そうか。僕もうっかり霜上川さんの秘密を漏らしてしまわないよう、改めて気をつけないとな。


 と考えて、僕の思考は飛ぶ。あれ? ちょっと待てよ?


 山白さんは霜上川さんの下ネタのことに気づいているんだよな……!? もし山白さんが冬籠さんに下ネタのことを漏らしたらヤバくないか?


 と思って山白さんのことを見る。すると彼女は……なぜかめちゃめちゃ怒っていた。


「えっ……山白さん、どうかした!?」


 ついついそんな疑問が漏れ出る。


「アンチがいる……消さないと……」


「過激派やめて!?」


「ひえっ! さっきから視界には入っていましたけれど、この方、いったいどなたですの!?」


「山白さんだよ! あたしのことをすっごくよく見てくれてるんだ!」


「あっ……あっ……あっ……尊い……無理……」


 山白さんは霜上川さんの言葉に限界化し、毒気を抜かれたようだった。とりあえず血は流れないようで安心した。


「でも、アンチはアンチだから……消さないと……」


 やっぱり安心できねえ!


 そんな山白さんに、霜上川さんが慌ててフォローを入れる。


「フユちゃんはその……傲慢キャラというか……あれだから、そういうスタンスだから! ふたりとも仲良くしてね!」


「キャラってなんですの~!? わたくしは真剣にあなたを超えようと思っていますのに!」


 拗ねた冬籠さんが口を挟む。話がややこしくなるからやめてくれ!


「そういうスタンスね、了解。霜上川さんがそう言うなら、ヲタクとしては信じて言われた通りにするのみだよ……」


 山白さん、霜上川さんこうしきに言われたことには素直に従うタイプのヲタクなんだな。こういう人が暴走したとき一番ヤバいような気がしないでもないけど、杞憂だよね☆


「(それはそうとしてさ、山白さん。冬籠さんは霜上川さんの下ネタのこと知らないから、この場で言及しちゃ駄目だよ?)」


「(は? 古参ヲタ気取りの後方Pヅラ、マジでウザいんですけど)」


 他のふたりに聞こえないように小声で山白さんにささやくと、めちゃめちゃ睨まれる。だが、山白さんは少しだけ力を抜いて続ける。


「(推しが隠そうとしていることを、ボクがバラすわけないじゃん)」


 その言葉を聞いてほっとする。光のヲタクじゃん。


「(ぐふ……ぐふふ……だってボク、同担拒否だから……。自分だけが推しの秘密を知ってるという状況でしか得られない栄養が、ある……!)」


 光……か? まあ、光があれば影が生まれるからな。しゃあない。


「(いや、ちょっと待てよ? いま、『自分だけが』って言わなかった? 僕も知ってるのだが?)」


「(ほ、ほんとだ……。ボクだけの秘密であってほしいのに……。でも、犯罪は良くないからな……)」


 山白さんがギリギリ良心のある人で良かったと心から思う。


「どうしたの? ふたりで楽しいお話?」


 僕と山白さんが話していると、霜上川さんが急に話しかけてきた。喧嘩してるんじゃないかと心配してくれたのだろうか?


「あっ……あっ……なんでもないです! もしかして霜上川さん、ファン同士の慣れあいを好まないタイプか!?」


 頭を抱える山白さんを横目に、僕は言う。


「なんでもないよ、ちょっとした世間話」


「ふーん、そっか」


 霜上川さんはなぜか少しだけ不服そうな顔をする。もしかして、ほんとにコメ欄でのファン同士の慣れあいだと思ってる!?


「山白さん、でしたかしら? あなたは集さんに憧れていらっしゃいますの? 先ほどからお話を伺っていると、そんなご様子でしたけれど」


 冬籠さんが山白さんに話しかける。初対面の相手にも堂々と接する様子は、そこはかとなくお嬢様っぽい。


「そうとも言うかな。つまりは、推してる……フヒ、フヒヒ」


「なるほどですわ~! でしたらぜひ、わたくしに推し変あそばせ! わたくしはいずれ集さんを超えるのですから、その方がよろしくてよー!」


「…………は?」


「ひえっ! ま、まあ、好みは人それぞれですから。無理にとは言いませんわ~!」


 山白さんにこの世の終わりみたいな目つきで睨まれた冬籠さんは、すぐに撤退するという賢明な判断を下したようだ。身の危険を感じたのだろう。


「もう、みんな仲良くしてよー。せっかく一緒に下校してるんだからさ!」


「霜上川さんがそう言うなら」


「もちろん。わたくしはもともと争いを好まない性格ですわ~!」


 どの口が言ってるんだ……。


「それはそうと、霜上川さんってどんなシャンプー使ってるの? ぐへ……ぐへへ……」


「いきなり何言ってるの!?」


 山白さんが暴走し始めたため、ついつい派手に突っ込んでしまう。


「あら、さびぬきさん、どうかなさいまして? 山白さんは何かおかしなことをおっしゃったかしら?」


「五月雨です」


 それはそうと……確かに、今のは過剰反応だったのか? だって美容的な意味でシャンプーの種類を尋ねるのってたぶんそんなに異常なことじゃないもんな……。


「破廉恥ですわー! 何がどう破廉恥なのかは分かりませんけれど、なんとなく刺し網さんから破廉恥な妄想の気配を感じましたわー!」


「それはさすがに理不尽では!?」


 そして僕の名前をずっと覚えてくれないのは何!? 漁法の名称まで出てきたけど!?


「あたしはリンスインのよくCMしてるやつ使ってるよー」


「そ、そうなんだ。こんど塗ろう……じゃなくて、使おう……」


 使う、という表現すら何か危ないもののように思えてきたけれど、それはさすがに僕の想像力が豊かになってしまっているだけだと信じ、何も言わないでおくことにする。


「それにしても、それでよくそんなに綺麗な髪を維持できますわね……ライバルながら、見事というほかありませんわ……」


「フユちゃんはどんなの使ってるの?」


「わたくしは海外から輸入したオーガニックでボタニカルなノンシリコンのおシャンプーですわ~! おーっほっほ!」


「ちょ、ちょっと待って! いま、かなりあれだったね!?」


「はい? 『あれ』っていったいなんのことですの?」


 明らかに取り乱した様子の霜上川さんを見て、冬籠さんは首を傾げる。そりゃそうだ。霜上川さんの下ネタ好きを知らなければ、『オーガニック』『ボタニカル』『ノンシリコン』という卑猥に聞こえる言葉(?)三連発を受けて冷静さを失ったのだとは夢にも思わないだろう。


 マズい、何かフォローしなければ霜上川さんのボロが出てしまう。そう思ったのは山白さんも同じだったようで……。


「『あれ』っていうのは、この人がとても卑猥な表情をしてたから、そのことを言ったんだと思う」


 山白さんは僕を指して言う。濡れ衣にもほどがあるのだが!?


「ひょえー! 破廉恥ですわー!」


「フユちゃん! 違うから! 勘違いだから! あれっていうのは、ほら、すごいってことだから! 言葉が出てこなかっただけだから」


「なんだ、そうでしたの。確かに、わたくしが使っているシャンプーは一級品。すごすぎて言葉が出ないのも仕方ありませんわー! おーっほっほ!」


「ぐぬぬ……アンチはすぐに調子に乗る……」


 山白さんは悔しそうに唇を噛む。が、それ以上言っても霜上川さんの不利になると思ったのだろう、おとなしくしていることを選んだようだった。


「あら~こんにちは! とっても奇遇です~」


 と、そのとき。またしてもうしろから声を掛けられる。今日はよく人が集まってくる日だな……。


「月夜さん!」


 振り返った霜上川さんは嬉しそうに声を上げた。そこにいたのは言葉を略すときに独特なネーミングセンスを発揮してしまう高校生、月夜さんである。


「そちらのおふたりは初めましてですねー! わたし、花上月夜っていいます~」


 大人だ……。初めて会った人間に対して真っ先に自己紹介を交えた挨拶を送ることができる人というのは大人なんだなと心から思う。なぜならあとのふたりは……。


「お……? 新たな夢女子か……?」


「おーっほっほ! どなたか存じませんけれど、わたくしの魅力に引き寄せられていらっしゃったのかしら? 苦しゅうないですわ~!」


「ふえぇ……」


 癖の強いふたりに絡まれた月夜さんは怯えた様子で僕に視線を送ってきた。助けを求められても困るのですが……。


「こっちがフユちゃんで、こっちが山白さんです。ふたりとも、最近仲良くなったんです!」


 僕のかわりに、ということもないのだろうけれど、霜上川さんがお嬢様とヲタクを月夜さんに紹介する。


「そうなんですね~! お友達が増えるのは嬉しいですね~」


 ニコニコしてそう言いながら、月夜さんはちらっと僕と霜上川さんに視線を送った……気がした。気のせいか?


「ではわたしはこれで~」


「あれ、月夜さん、何かご用事ですか? いつももうちょっと先の方まで一緒なのに」


「えへへ。バレちゃいましたか~。高校生が急に混じったら怖がらせちゃうかなと思って、遠慮しちゃいました~」


 意外だ……。そんなに気を遣う人だったのか……もっとぼうっと生きているのだと思っていた(失礼)。


 それはともかく、月夜さんが人に威圧感を与えるなんてことは一切ない、というかむしろ、場が和むので一緒にいてほしい。それは霜上川さんも同じ思いだったようで――


「ぜんぜん怖くないですから! 一緒に帰って、わたしたちに癒しを与えてください!(霜上川)」


「ふえぇ……癒しなんてそんな~(月夜)」


「癒し、いやらしい……(山白)」


「ほうほう……まあ、でも当然といえば当然か、あ、ごめん、なんでもない(霜上川)」


「ふえぇ……わたし、いやらしいことを求められていたんですか~!?(月夜)」


「な、なんということ! 破廉恥ですわー!(冬籠)」


「山白さん、ちょっと我慢して!?(五月雨)」


「ご、ごめん、つい……喜ぶかと思って(山白)」


「喜ぶって、誰が喜びますの~!?(冬籠)」


「え、えっと、それは……コイツ(山白)」


 そう言って、山白さんはなぜか僕を指し示した。霜上川さんに被害が及ばないようにという配慮なんだろうけれど、とばっちりにもほどがある。


「まあ! おふたり、いやらしいことを言いあうような関係ですの!? あらゆる意味で破廉恥ですわ~!」


「ちょ、ちょっと! フユちゃん! それは違うから!」


 霜上川さんが慌てて誤解を解こうとしてくれる。しかもめちゃめちゃ必死だ。僕の体面のためにそこまで……ありがとう、霜上川さん。


「違うというのはどういうことですの~!? 阿弥陀籤あみだくじさん、きちんと説明してくださる!?」


「とりあえず訂正しとくと、五月雨だからね!?」


 ああ、どうしよう。けっこうめちゃくちゃになってきた……。


「ふえぇ……みなさん! 落ち着いてください~!」


 中学生4人のどうしようもない口舌を聞いていた月夜さんが声を上げた。年長者の言葉に、僕たちは耳を傾ける。


 そして僕は祈るような気持ちで待つ。月夜さんは一体、どんな言葉で僕たちを落ち着かせてくれるのだろうか?


「みなさん……セフレになってください!」


「??????」


「?????????」


「???????」


「?????????????」


 いちおう、先ほどまでの会話の混沌はおさまった。全部ふっとんでそれどころじゃなくなったので。


「ちょ、ちょっとすぐには決断できないというか……ぐへへ。あ、でもそもそも、『みなさん』ってどういうことだろう。矢印はどういう感じになるのかな」


 まんざらでもない様子で山白さんが言う。そういう問題か?


「みなさんはみなさんですよ~! 全員が全員と仲良くするということです~!」


「それは遠慮したいかも」


「えーっ、どうしてですか~?」


 なんだかよく分からないが、月夜さんと山白さんの間でものすごい勘違いが生じているっぽいことだけはよく分かる。


「ちょっとお待ちなさいまし。そもそもセフレってなんですの~!?」


「フユちゃん、それってどういう意味での質問なのかな?」


 霜上川さんが冬籠さんに問いかける。確かに、セフレという言葉をそもそも聞いたことがないからこその疑問なのか、この場で生じているらしい勘違いを問いただすための疑問なのか微妙なところだ。


「? どういう意味も何も、そのままの意味ですわ~! 聞いたことのない単語でしたので」


 そっちか~。


「あ~、了解」


 霜上川さんは親指を立ててウインクした。てへぺろ。


「セフレというのはセーフティーフレンズの略ですよ~。わたしが考えたんです!」


「はて、セーフティーフレンズ?」


 さすがの冬籠さんも月夜さんのペースに飲まれたらしく、きょとんとして次の言葉を待っている。


「そうです! 一緒にいると安全な場所にいるように落ち着ける、そういう大切なお友達のことです~!」


「なるほど! 素晴らしい概念ですわ~! わたくし、あらゆる人々から尊敬を集める予定の者としてぜひとも覚えておきます!」


「あら~。気に入ってもらえて嬉しいです~! ぜひとも世界中の人とセフレになってくださいね!」


「おーっほっほ! そうさせていただきますわ~!」


 どうしよう……もう僕にはどうすることもできねえ……。そんな地獄みたいな気分でふたりの会話を茫然としながら聞いていると、霜上川さんの声が聞こえてきた。


「ちょーっと待った~!」


「あら、集さん、どうなさいましたの?」


「実は、セフレという言葉には人口に膾炙したもっと別の意味があるんだよ」


「そうだったんですか~?」


 霜上川さんは月夜さんと冬籠さんの耳を集めてゴニョゴニョと説明する。


 その間、山白さんはどうしているのだろうと彼女の方を見ると、


「こんな面白いことってあるんだ……ぐふ……ぐふふ」


 静かにめちゃめちゃ笑っていた。その様子に、なぜだか少しだけホッとする。


「は、は、は、破廉恥ですわ~! そんな……契りもしない者同士が……!?」


 そうして、予想されていた反応が冬籠さんから発せられた。


「まあまあ、本人たちの自由だから、そう言ってあげないで」


 そして、霜上川さんの大人な反応。ドキッとしてしまうだろうが!


「ふええ……わたし、どうしてオリジナル略語を作るとこうなってしまうのでしょうか……」


「たまたま……そう、たまたまだと思いますよ!」


 霜上川さんはそう言ってフォローする。なぜか一瞬、言葉に詰まったな。『たまたま』が世間的に見て卑猥な言葉ではないということに自信がなくなったのだろう。


「ありがとうございます~。たまたまですよね! ですが、一緒にいて安心できる友達、を表す言葉って他に何かないんですかね~」


「まあ、それは『友達』でいいんじゃないですかね? 一緒にいて安心できない間柄を友達って呼ぶのかって話ですし」


 僕が言うと、月夜さんはふんわりと笑う。


「そっか~。そうかもしれませんね!」


「でも、一緒にいて安心できる関係って、友達だけじゃないよね?」


 せっかく話がまとまりかけたところ、不安そうに霜上川さんが言う。どういう意味だ?


「うふふ。そうかもしれません。ただ、何事も焦ることはないと思いますよ?」


「ううっ……ありがとうございます」


 なんか月夜さんと霜上川さんのふたりだけで会話が成立している。僕だけがこの機微を分かってないのかと思い、冬籠さんと山白さんの方を見るが、ふたりも『何言ってんだコイツら?』みたいな顔をしていたので、とりあえず胸を撫でおろした。


「あっ、ごめん、3人とも、なんかあたしだけ変なテンションになっちゃって」


 他の3人を置いてけぼりにしているように思ったのだろう、霜上川さんは慌てて両手を合わせた。


「どう考えても霜上川さんのテンションはこの中なら比較的、変じゃない方だと思うけどね」


「ちょっと三の丸さん、それは一体どういうことでして?」


「念のため伝えておくけれど、五月雨だからね!?」


 僕と冬籠さんの会話を聞いてか聞かずか、霜上川さんは合わせていた両手をパッと広げて、言う。


「そうだ! せっかく友達5人が集まったんだから、ちょっと散歩しない? 山の公園のところまで行こうよ」


 山の公園というのは、文字通りこの街を見下ろす裏山の上にある公園のことだ。


 裏山と言ってもほとんど見た目は丘で、麓から公園までは健脚ならほんの10分ほどでたどり着くことができる。


「『友達5人』、か……。推しから友達認定されるのは尊いけど、他のヲタクと友達かというとビミョいかも……ディスコすら知らないわけだし……」


「あら山白さん、ディスコでお遊びあそばされるの? お不良ですわ~」


「違う、そうじゃない」


「山白さんも嫌じゃなかったら一緒に行こうよ~」


「推しと遠足に行けるんだから、断る理由はないよね……ぐふ……ぐひひ」


「良かった~! どうですか、月夜さん?」


「わたしも一緒に行っていいなら行きたいです~。でもみなさん、テスト勉強は大丈夫なんですか~?」


「おーっほっほ! わたくしは余裕でしてよ~! 夕方から家庭教師の先生がいらっしゃいますから、それまでに帰れば問題ありませんわ~!」


「五月雨くんと山白さんは?」


「ま、帰ってからちゃんと勉強すれば大丈夫でしょ。夜までたむろするわけじゃないし」


「同じく」


 山白さんはそう言ってちょこんと頷く。


「逆に霜上川さんは大丈夫なの?」


 という僕の問いに答えたのは、なぜか山白さんだった。


「は? 霜上川さんは常に学年上位の成績を維持してるから。ヲタクならそれくらい把握しといてもろて」


「何度も言うけどヲタクじゃないからね!?」


「あはは。あたしは授業聞いてるだけでだいたい90点取れるから問題ないよ!」


 さらっとすごいこと言うよな、この人も。


「それなら良かったです~。お節介なことを言ってごめんなさい! ただ、年長者としていちおうそこのところは気になってしまって」


 真面目だ……真面目で良い人だ……。


「おーっほっほ! それじゃあさっそく行きますわよ~!」


 なんで冬籠さんが先導するの!?

 

 という疑問を飲み込んで、僕は4人のうしろに続いて歩く。目指すは山の公園だ。


◇ ◇ ◇


「ううっ……誰かわたくしを籠で運んでくださらない?(冬籠)」


「フユちゃん! 上り始めたばっかりだよ! 頑張って!(霜上川)」


「この階段、久しぶりです~! 小さい頃はチョコレートとかパイナップルとか言いながら上りました~(月夜)」


「パイン・アップル……じゅるり(霜上川)」


「あれ? 霜上川さん、どうかなさいました~?(月夜)」


「いえいえ! なんでもないです! おいしそうだなと思って!(霜上川)」


「あ~、確かに、甘くておいしいですよね~(月夜)」


「この間に頂上まで3往復くらいできそう……(山白)」


 好き放題に話しながら、5人でぞろぞろと階段を上る。


 霜上川さんはいつも通り下ネタの香りを嗅ぎつけたようだ(パイナップルに)。


 意外だったのが山白さんの様子で、先頭を歩きながら、少しじれったそうにたびたびうしろを振り返っている。そういえば彼女はバスケ部なのだったか(忘れてたけど)。このくらいの階段なら、日々のトレーニングで走っているのだろう。


「ふーっ。風が気持ちいいね(霜上川)」


「ほんとですね~(月夜)」


「少し強すぎますわ~(冬籠)」


「ちょっとくらい抵抗があったほうがいい(山白)」


 いつのまにか、歩く順番は先頭から山白さん、冬籠さん、月夜さん、そして僕と霜上川さんになっていた。


 僕と霜上川さんだけが、横に並んで歩いている。

 

 狭い道だから縦になろうと足を踏みだす速度を下げるが(上げると月夜さんとの距離感に迷いそうだ)、そのとき、霜上川さんに話しかけられる。自然と僕は速度を元に戻した。


 彼女はまだ隣にいる。


「あのお菓子、まだ中身入ってるのかな?」


「え、どれ?」


「あれ」


 霜上川さんが指し示す先にあったのは、スーパーでよく売られているクッキーの小袋だった。整備された階段から外れた雑木林のところにポツンと落ちている。


 僕たちは立ち止まらず、その袋のそばを通り過ぎる。ちらりと見た袋に破れたようなところはなかった。


「でもあんなところに落ちてるんだから、空っぽなんじゃない?」


 裂かずに上手く開ければ、あれくらいの見た目にはなるだろう。


「そうなのかな~。拾えば分かったのにね」


「やめときなよ。落ちてるもの食べるのは」


「違うよ! ゴミとして拾えば良かったっていうこと」


「だとしても、こんなご時世だしさ」


「でも、誰かが掃除するんでしょ?」


「まあそうだけど」


 霜上川さんはこの話題にそれ以上こだわるつもりはないらしく、前を向いて歩き続ける。


 と、そのとき。


 僕の指先が、何かに触れた。


「わあっ、ごめん!」


 僕は慌てて手を引っ込める。たぶん、霜上川さんの手に当たってしまった。お菓子の袋を見るときに、少し距離が近づいていたのだろう。


「そーんなに必死に引っ込めなくていいじゃん。嫌がられたみたいで傷つくなあ」


「ごめん。嫌じゃ……なかったんだけど」


 僕が言うと、霜上川さんは悪戯っぽく応える。


「それじゃあ手、つなぐ?」


「なんでそうなるの!? つながないよ!」


 僕の言葉に、霜上川さんはしゅんとした表情を見せる。冗談と分かっているけれど、なぜか申し訳ない気持ちになる。


「なんでってこともないけどさ。五月雨くんはどうして嫌なの?」


「それは……破廉恥だから」


「あはは。フユちゃんみたい」


 そう笑って、彼女は何事もなかったみたいにまた前を向く。


 嘘を吐いた、と僕は思う。


 破廉恥だからこそ手をつなぎたいということもあるもんな。

 

 いや、違う、と僕は思う。


 それ以前に、僕が手をつなぎたくないのは、きっと、いちど手をつないでしまうと――


 僕が空っぽだとバレてしまうからだ。


◇ ◇ ◇


 階段を上りきると、開けた場所に出た。


 山の公園には普通に小学生とかがいて、この程度の上りで息を切らしている中学生こと冬籠さんの体力が普通に心配になる。


 が、丘の上から見える僕たちの町を展望するなり、冬籠さんは目を輝かせた。


「素晴らしい! 頂点を目指すわたくしに相応しい眺めですわ~!」


「あんだけ不満たらたらで上ってたのに!?」


「さて、なんのことでしょう?」


 どうやら自分に都合の悪いことはすぐに忘れる性格らしい。


「いい景色ですね~。空がとっても素敵です」


 月夜さんが言う。こんな名前だとよくあることなのだが、自分の名前と同じ『空』という言葉を聞くとドキッとしてしまう。しかも年上のお姉さんに『素敵』と言われた日には、さらにドキドキしてしまうというものだ。


 が、こういう感覚は無視して、何事もないかのように振舞うに限る。そのことについて何を言っても、自意識過剰だと思われるだけだから。


 と思っていると、霜上川さんが口を開く。


「そ、空!? 呼び捨て……べた褒め……?????」


「なんで霜上川さんが反応してるの!? 空ってあれのことだから!」


 僕はそう言って、目の前に広がる青い物体を指さす。いや、物体……ではないか。空間? 空ってそういえば、一体なんだ?


「そういえば五月雨さんの下のお名前は空さんでしたね~。もちろん、お名前の方の空さんも素敵です」


「あ、ありがとうございます」


 素直に照れるわ。


「そそそ、そうですよね」


 あまりにも小さくかつ自信のなさそうな声だったので山白さんが話してるのかと思ったら霜上川さんだった。なんでこんなに挙動不審なんだ(山白さんに失礼)。


「ちょ……なんかこの人にだけファンサ多くない?(山白)」


「まあまあ、そういうこともありますって~(月夜)」


「遠くの方を見て視力の回復を図りますわ~!(冬籠)」


 好き勝手に話している3人を横目に、霜上川さんが僕に近づいてくるのに気づく。そうして彼女は僕にしか聞こえないくらいの声量で、


「(前から思ってたけど、下の名前って言い方、かなり卑猥だよね)」


「(言うと思ったよ)」


「(あ、でもこれは五月雨くんの下の名前とは関係なくて、その、あたし、ほんとに素敵な名前だと思ってるから)」


「(え、ああ、はい……それはその……ありがとう)」


 いやいやいや、今日の霜上川さん、なんでこんなに様子がおかしいんだよ。寝不足か?


 それからしばらく、無言の時間が続いた。正確には、無言だったのは僕と霜上川さんだけだった。あとの3人は何か話をしていたけれど、その音は背景に溶け込んでしまって聞こえなかった。僕は霜上川さんの方を見ないようにしながら街を眺め続けた。霜上川さんも同じようにしているのだと信じているものの、彼女を見ていないので分からなかった。


 そのとき、強い風が吹いた。


 霜上川さんの混乱も、僕の困惑も、すべて未来に運び去ってしまうような強い風だった。


 一瞬、そこにいた誰もが無言になった。そうしていつのまにか、5人が5人とも街を眺めていた。風が止んだ。


「こんなに家がいっぱいあって、大勢の人間がいて、それが希望みたいに思えるけどさ、」


 霜上川さんが口を開く。


 僕は彼女の声を、まるで神託を受け取るときのように耳をそばだてて聞く。きっと他の4人も同じだった。なぜそんなに真剣になる必要があるのかは分からないけれど、なぜかそうしなければと思わせるそれは切実さを湛えた声色だった。


「ほとんどがおじいちゃんやおばあちゃんで、あたしたちより小さな子供はすごく少ないんだよね」


「まあ、それが少子化ってやつだよね」


 藪から棒に何を言い出したんだコイツ、と思いながら、僕は相槌を打つ。


「そう、だから、何を言いたいかっていうとね、あと何年もしないうちにあたしたちは大人になって、20年もしたら、もっと大人になるわけじゃん? その間に、たくさんの子供たちが大人になって、いま大人の人たちはどんどんヨボヨボになるわけじゃん? でも、生まれてくる子供はたぶん増えないわけじゃん? そうして、いま見えてるたくさんの家に住んでる人たちはどんどん死んでいくわけじゃん? だからさ、なんていうのかな、全部が廃墟みたいに見えるんだよね」


 その言葉を受けて、改めて街を見渡す。


 さすがに廃墟には見えなかったけれど、霜上川さんの感じている虚しさは、なんとなく分かるような気がした。


「ごめん、みんな! あたし、わけわかんないこと言っちゃった!(霜上川)」


「と、尊い……。憂いを帯びた瞳の霜上川さん、尊すぎて昇天するぅ……(山白)」


「山白さん大丈夫!? 昇天しないで!?(霜上川)」


「おーっほっほっほ! 少子化の現実にまで目を配るとは、さすがの帝王学。わたくしのライバルに相応しい存在ですわあー!(冬籠)」


「帝王学は学んでないんだけどね!?(霜上川)」


「えへへ~実質的に崩壊したこの世界を死に物狂いで生き抜くのが人生というものですからね~(月夜)」


「月夜さん!? 突然どうしちゃったんですか!?(霜上川)」


 やっぱり霜上川さん、基本的にツッコミキャラなんだよな。どんなにキャラの濃い人が集まっても、彼女なら対応できそうだ。


 だからやっぱり、僕は、もう。


 一通りツッコミを終えたところで、(ツッコミのしすぎで)息を切らした霜上川さんが僕に目線を向けた。


「ハァ……ハァ……五月雨くんは、どう思った?」


「どうって……別にどうってこともないけど……霜上川さんの考えを聞いて、分からない部分もあれば分かる部分もあるなあと思っただけ、かな」


「なんですのそれは! もっとはっきりと感想をお言いなさい!」


「長いだけで中身のない返事。握手会では何もできずに剥がされるタイプ……」


 僕の返事は冬籠さんと山白さんには不評だったようで、軽くブーイングを受ける。


 霜上川さんは一体どういった感情なのか、口元に笑みを浮かべて一言、


「そっか」


 と言った。


 月夜さんはといえば、単に僕たちを眺めている。その姿は今までで一番、高校生らしく見えた。


 そうして、僕たちの放課後の散歩は幕を閉じた。丘を降り、それぞれがそれぞれの家に帰り、試験勉強にいそしんだ(たぶん)。


 続く数日も、試験前で下校時間が重なったこともあり、下校時に5人が揃った。特に示し合わせてもいないのにそうなったのは、もしかするとものすごい偶然の結果だったのかもしれないけれど、分からない。起きたこと、起きていることの貴重さを僕たちはしばしば認識できないから。


 その数日のあいだ、僕たちはまた他愛もない会話をして下校した。霜上川さんが先陣を切って話し、山白さんと冬籠さんが反応して、霜上川さん(ごくたまに僕)がツッコミを入れた。月夜さんはそんな様子をのほほんと見守ってくれていた。


 山の公園に行ったのはあの日だけだったけれど、それぞれの短い下校時間がハイキングみたいに思えた。


 そんな日々が続いて、定期テストが終わった。


 その日から僕はもう、霜上川さんと一緒に下校しないことに決めた。


 というか、ずっと前からそう決めていた。


 つづく

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