3 うぐぁうああっ! うぐぶふぉふぉああっ! ぶぐるわあああああっ

「うぐぁうああっ! うぐぶふぉふぉああっ! ぶぐるわあああああっ!」


 霜上川さんは僕が取り出したノートを見て、ありえないくらい動揺した。こんな声が人間から出るとは思わなかった。これを音効素材にしてホラーゲームを作ったら売れると思う。


 それはともかく、これは完全にクロか……。通常、自分の知らないノートを見せられてあれほど人が動揺することはない。デスノートであれ下ネタノートであれ、それがなんであるかを知っているから人はノートを見て素っ頓狂な声を上げるのだ。


 つまり、霜上川さんはこのノートが何かを知っていて、そしておそらく、彼女は……。


「このノートの持ち主は霜上川さんだったんだね」


「は? なんのことだし? そんなノート知らないし」


 そう言って霜上川さんは慌ててノートから視線を逸らした。


「いや、ごめん。正直、教室で霜上川さんの筆跡を見たときからもしかしてとは思ってたんだよ。でも確証がなくて……。もし間違ってたら失礼かなと思ったし」


「ちょっと待って、失礼って失礼じゃない?」


「果たしてそうかな!? ていうか認めるの!?」


 あのノートを書いてない人にあれ書いた? って言ったら普通に失礼でしょ!


「うぐぶふふぉぁああああっ!」


 またしても断末魔みたいな声を上げて霜上川さんは仰け反る。けっこう墓穴を掘るタイプなのか?


「そうね。そのノートはあたしのもの。認める。認めますよ」


「はい、じゃあ返す。それに、ごめん」


「な、なにが? もしかして、SNSにあたしの名前つきでアップしたりした?」


「最悪の想定を欠かさないリスク管理のお手本か?」


 でもまあ、彼女にしてみれば普通にそのリスクはあったわけで。


 だからこそ、僕は彼女にちゃんと説明して、謝らなければならないと思う。


「そんなことはしてない。たぶんこれは僕しか読んでないと思う」


「そ、そっかぁ……。良かったぁ……」


 霜上川さんは心底ほっとしたように言う。


「焦って教室に入ってきたときって、あれは廊下に落としたはずのノートを探しに行ったあとだったわけ?」


「そういうこと。でもどこ探してもなかったから、頭真っ白になった。まあ、記名してなかったのだけが救いだけど」


「あの直前、僕もあの廊下にいた。で、ノートを拾った。つまり霜上川さん、僕、霜上川さんの順であの廊下に入れ違いでやってきてたってことだね」


「なんであんなとこに行ってたの?」


 霜上川さんはあっけらかんとした様子で訊いてくる。


「それは……学校の空気に慣れたくて」


「ちょっとよくわかんない」


 まあそうだろうな。僕だってよく分かってないんだから。


「霜上川さんは?」


「久しぶりに通学路を歩いたらちょっと良いネタを思いついて、それを書き留めておきたくてね」


「ちょっとよくわかんないな」


 まあ、あまり深くは尋ねないことにしよう。どれがお気に入りなの? なんて訊いたあかつきにはセクハラだ。


「でもさ、なんでそんな大事なノートを落としちゃったわけ?」


「いやあ、ちょっとテンション上がっちゃって、ノートをそのへんに置いたの忘れたまま踊ってたんだよね」


「自由か……?」


「自由じゃないよ。そのへんで突然、歌って踊れないでしょ、あたし」


「……なるほど」


 僕は口ごもる。「そりゃそうだろ」と笑って受け流すのは簡単だったけれど、僕にはどうも、それがとてもグロいことに思えた。だから曖昧な反応を返すしかなかった。そのことによって彼女の発言を僕がなんとなく深刻なものに変えてしまった気がしたけれど、後悔は特になかった。


 とにかく。


「とにかく、僕がこのノートを拾わなければ、霜上川さんは今日一日、心穏やかに過ごせたわけだ。だから、ごめん」


「謝ることなんてないよ。持ち主に返そうと思って持っててくれたんでしょ? だから、あたしがありがとうって言うだけだよ」


 そう言って霜上川さんは笑顔を見せる。


「だから、ありがとうね、五月雨くん」


「うん。じゃあ」


 その笑顔があまりに眩しくて、僕は太陽を見たように目を逸らすと、ベンチから立ち上がった。


 とても晴ればれした気分だった。


 こうして、僕の奇妙な一日は終わった。明日からは、いつも通りの日常。激ヤバノートを拾うこともなく、霜上川さんと一緒にアイスを食べることもない。そういう日常だ。


 でも、そんな日常でもいいじゃないか。


 そんな一歩一歩が、僕の人生を形作ってゆくのだから。


――完。


「何ひとりですがすがしい顔してるの? 話はこれから、だよ?」


 うしろに気配を感じ、背中に鳥肌が立つ。


 これは、たぶん、どこにいるともわからぬ獲物に感知されたのを知った草食動物の感覚――。


「な、なにか他にご用件が?」


「そりゃあそうだよ、五月雨くん。これがあたしのノートだって知って、ただで帰れるわけないよね?」


 肩に、霜上川さんの手が載るのが分かった。なぜか感覚だけで、その手の華奢さ、綺麗さが分かる。だが同時に、その手がどうしても振り切れない力を持っていることも分かって、僕はもう少し彼女と話さなければならないのだと悟った。


 怖くて振り返れないまま、少しうしろに下がり、ベンチに腰を落とす。


 同じく隣に座った霜上川さんをちらりと見遣ると、先ほどと同じ、にこやかな彼女がそこにいて、それが逆にめっちゃ怖い。


「で、五月雨くんはどのくらいそのノートをじっくり読んで、あたしにいま、どんな印象を抱いているわけ?」


 嘘をついても見破られるだけだと思った。というより、嘘をつくなどという高度な心理的負荷を受け入れられるほどの余裕は僕には残されていなかった。もう楽にしてくれ。


 ていうか、どうして落とし物を拾っただけでこんな気まずい思いをしなくちゃならないんだ……。


「ま、まあ、中身にはぜんぶ目を通したかな。それほどじっくりとは読んでないと思うけど……」


「へえ。それで?」


「お、面白かったと思うよ」


「そ、そっか。ありがと」


 完全に論点を逸らすための発言だったが、なぜか彼女は顔を赤らめながら礼を言う。ぜんぜん意味が分からない。


「それで? いまあたしのことどう思ってるの?」


 アンケートか? 普通、今日初めて話した相手にそんな直球なこと訊きます?


「どうっていっても、僕は霜上川さんのことあんまり知らないし、まあ、ああいうノートを書きたくなることもあるかな……って感じ?」


「五月雨くんもあるの!?」


「ないよ!」


「そっかぁ」


 クソっ! なんでそこでそんな悲しそうな顔をするわけ!?


 僕がめっちゃ気を引こうとして適当なことを言って、それが嘘だとバレて傷つけてるみたいじゃん! あれ? もしかして実際にそうなのか!? でも正解がぜんぜん分からねえ!


「で、でも、あたしってああいうノート書きそうに見える?」


「見えない」


「そっかぁ」


 これもプレミなの!? でも絶対、見えるって言っても問題があったよね!?


「なんていうのかなあ。うーん。難しいなあ」


 僕も難しいよ……マジで……。


「もっとあたしに対しての印象、あると思うんだよね。幻滅した、とか、簡単に股開きそうと思った、とか」


「股開きそうとか言わないで!?」


「じゃ、じゃあ、チョロそう……とか?」


「いや、むしろ恐怖……?」


「ううっ……恐怖か……そうだよね……」


 ああああああー!! いまのは完全にプレミ! 正直な言葉が人を傷つけるうううううう!!!


「あ、でもそれは別に霜上川さんが怖いっていうんじゃなくて、たぶんみんなそんなもんだからさ。突然、他人の中身が見えるのって恐怖じゃん」


 フォローしようと僕は脳を介さずに脊髄から分泌される言葉を口から排出する。なんか変なこと言ってないか? ていうかむしろ、僕って普段、こんなこと思ってんの?


「ほう……。それはそうかもしれない。なんか五月雨くんの中身、いっこだけさらけ出してみてよ」


 どうしてそうなる!? 交換条件…ってコト!?


 僕のしでかしたことに対してはそんぐらいするべきなのか? でも僕の中身ってなんだよ……。


「た、たとえばいまめっちゃ口内炎が痛い……」


「薄っ! 口の中身の話をされたね!? でもやっぱりそれは恐怖かもしんない! 口内炎が痛い状態で話してたんだ! そんな苦しみを抱えながら……ぜんぜん知らなかった! しかもそれでチョコアイス食べたんだ!」


「なんかそんなに "理解" されると思ってなかったからびっくりだよ!」


 でもまあ確かに、人の苦しみって外からは本当に分からないもので。


「それで、恐怖以外になんかある? あのノートを見て思ったこと。ていうかあたし、なんであんなノート書いてるんだと思う? あたしは自分では分からないんだけどさ。ていうか、あたしのこと、おかしいと思った?」


 めっっっちゃ質問してくるじゃん! 僕のことを高名な僧かなんかだと思ってんのかコイツ!?


 いや、マジで同級生女子から彼女が書いた下ネタノートについての質問をされることほど気を遣うことって世の中にそんなにないからね。


 ていうか、どうして僕がこんなに気を遣わなくちゃいけないんだ……。なんかだんだん理不尽な気がしてきたぞ、これは……。


 そんな気持ちがふと心に浮かび、何か答えないといけないという焦りと混ざり合い、僕の中でモヤモヤになり、心臓の鼓動を早めていた。


「どうかな~」


 そして、そんな彼女のなにげない一言を契機に、僕は自分のモヤモヤを吐き出したくなってしまった。


「おかしくはないでしょ。別に犯罪でもないしさ。人間なんだから、こっそりやってることのひとつやふたつあると思う。正直ヤバいやつだとは思ったけど、人間がヤバいのは普通だし」


「でも、あたしが他の人間よりさらにヤバい可能性もあるのでは?」


「それでもいいよ別に!」


 少し大きな声が出た。


 僕は素直な気持ちを彼女にぶつけたつもりでいた。でもその言葉は、ただ大雑把なことを大きな声で言いたいという僕の衝動に結びついていた。


「うっ……ううっ!」


「泣いてるっ!?」


「泣いてないっ!!」


 確実に目から水を流している霜上川さんは、秒速でハンカチを取り出すと自らの涙を拭い、立ち上がった。


「じゃねっ!」


 そして彼女は足早に、角を曲がって消える。


 マジか……女の子を泣かせてしまった……。叔母に彼氏の趣味悪すぎるだろって言って号泣されたとき以来だ……。


 僕は呆然として、しばらくベンチに座っていた。


 春らしい暖かな風が吹いて、変色した桜の花びらを公園の隅から巻き上げた。

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