2 帰り道 気丈にふるまう 聞き上手

 とりあえず、ノートに記載された怪文書をもう少し見ておこう。


 「淫らにきこえる言葉」の部分からしばらく空白をあけて、ふいに殴り書きされたような文字列が続く箇所がある。


 そこにはたとえば、「豊満なパフォーマンス」、「睾丸投げ(金)」、「騎乗位で/気丈にふるまう/聞き上手」などなど、目も当てられないような下ネタが書き連ねられている。


 で、だ。


 僕はあろうことか、これを書いたのが教室で僕の隣の席に座る美少女こと霜上川さんなのではないか、という疑念を抱いている。


 帰りの通学路をひとりで歩きながら、僕は考える。


 いまのところ、根拠は筆跡だけ。もちろん僕は筆跡鑑定に関しては素人だ。『科〇研の女』で得た知識しかない。


 でも、それにしても。


 あの怪ノートに記されていた文字と、霜上川さんが見せてくれた作文の文字とは、うりふたつだった。


 十中八九、彼女だと思う。


 そう思いたいからそう思い込んでるだけとか、ぜんぜんない。むしろ、そんな疑念、抱きたくなかった、マジで。別に女の子が下ネタを書き連ねたノートを持ってることがショックだとかそんなんじゃなくて、隣に平然と座ってる人間があんなヤバすぎるノートを書いてたらふつうに嫌すぎじゃない? これからどう接すればいんだよ。


 そしてくだんのノートはいま、僕の鞄の中にある。


 これを机に置きっぱなしにして、万が一それが誰かに見つかったら……確実にノートの作者は僕だということになってしまう。それだけは避けたい。なんとしても避けたい。


 もう最悪だ。いまの僕は『寡黙で何考えてるか分かんねえヤベーやつ』というポジションをギリギリ確立できているのに、その何考えてるのか分かんないやつが考えてるのが「睾丸投げ」だとなれば、その後どうなるかは推して知るべしだ。


 ああ、僕はなんでこんな呪いのノートみたいなものを拾ってしまったんだ……。

捨てるか? 捨てるとして、どこに?


 いや、それは本末転倒だ。わざわざ拾ったノートを何の関係もない場所に捨てるなんてのは道義にもとる。僕はこのノートの面倒を最後までみなきゃならない。つまりは、持ち主に返さなければならないんだ……。


 そんなことを思いながら気を重くして歩いていると、正面に美少女のうしろ姿が見えた。


 キラキラと輝くようなシルエット。歩き方のお手本みたいなやつが歩いている。


 綺麗な髪、見えそうで見えない、でも少し見えそうなうなじ、すらりとした脚。考えなくても分かった。霜上川さんだ……。


 どうして……。いままでこんなことってあったか?


 わからん。同じクラスになるまで意識したことがなかっただけで、実は帰り道は同じだったのかもしれない。まあそんなことはどうでもいい。問題は、いま、僕の目の前に変態ノートの持ち主が歩いているかもしれないという事実。


 どうする……?


 このノート、霜上川さんのじゃないです? って素直に訊くか?


 それは正直、僕にはハードルが高すぎる。そもそも、帰り道に同級生に話しかけるという行為自体がキツい。「なんで話しかけてくんの!?」って内心思われてるんだろうなと想像するだけで吐きそうになる。


 その上、提供しようとしている話題が下ネタノートだ。もし霜上川さんが持ち主じゃなかったらどうなる? それこそ最悪も最悪だ。今日隣の席になったばかりの男に騎乗位がどうとかいう怪文書を見せられたら怖すぎるだろ。もう僕は今後の学校生活において、変態痴漢野郎というあだ名でしか呼ばれなくなるに違いない。


 うん。今日のところは無視しよう。


 様子見だ、様子見。決して先延ばしとか逃避じゃない。様子見である。


 このまましれっとわき道にそれて、コンビニにでも寄って店内を一周してから帰ろう、そうしよう。たまにはアイスとか買ってもいいかもしれないな。4月なのにやたら暑いし。始業式を無事に終えた自分へのご褒美だ。


 ぶおー。ん? なんの音?


 って、うしろから車来てんじゃん。しかもけっこう速いし。住宅街なんだから速度落とせよな。


「あっ、五月雨くんじゃん! やっほー!」


 うぎゃあああああああああああ。


 なんか聞こえた、と思って恐る恐る前を向くと、輝く笑顔の霜上川さんがこちらに手を振っていた。いや、天使なの? 僕のような者にそんな笑顔ポイント使わなくていいと思うよ、ほんと。もっと散歩中のデカい犬とか見たときのために取っといたほうがいい。


 それはそうと、どうやら僕は考え事をするあまり霜上川さんまでの距離を思いのほか詰めていたらしい。


 そして、車の音に気づいた霜上川さんが振り返ったとき、僕までもが視界に入ってしまったのだろう。


「うん、お疲れ」


「えへへ。別に疲れてないでしょ。半日だけだったんだから」


 いや、そりゃあ霜上川さんのようなパワフルな人間は半日だと疲れないかもしれませんけれど、僕は春休みが終わったというだけでもう体力の8割持ってかれてるし、学校にいるだけで2割の体力を消耗するので、朝のチャイムが鳴った瞬間から疲れ切っていましたよ?


 ということを長々と言っても仕方ないので、世間話でもすることにする。FPSで鍛えた雑談スキル、舐めてもらっちゃ困るぜ!


「霜上川さんってこっちの方向だったっけ? あんまり帰り道とか一緒になった記憶がないんだけど」


「おっ、鋭いところ突いてくるね。実は今日、たまたま道を変えてみたんだ~。春だし、そういうのもいいかと思って」


 ぐっ! 初々しい! 春のことを花粉は飛ぶしやたらみんな活発だしで鬱陶しい季節だとしか思っていない僕からすれば、眩しすぎる。


 で、こんな爽やかな美少女があんな下ネタを書くのか? という疑問が僕の中で急激に膨らんでくる。


 やっぱり、あれは何かの間違いだったんだな。うん。そうに違いない。霜上川さんは絶対、下ネタという言葉すら知らないような純粋無垢な人なんだ。ネタの下だからシャリですか? ワサビですか? とか、そんなレベルだ、絶対。


「あー、いいね、確かに、春だし」


「てきとうだね~。思ってないでしょ」


 僕が適当に返事をすると、霜上川さんはこちらの顔を覗き込んで言った。


 そういうこと言わないで! それを無視するのがコミュニケーションってもんでしょうが!


 とはいえ、霜上川さんに言われるとぜんぜん気にならないというのも確かで。


 適当である自分、僕に話しかけてきてくれた人間にすら素直に心を開けない自分でも、なぜか許されているような気がして。


 そりゃあ人気者にもなる、と思う。


 霜上川さんは、僕とはぜんぜんタイプの違う人間だ。だから僕とも話してくれる。だから僕は、彼女に甘えて、適当な返事をしてしまう。


「思ってないかも」


「やっぱり。じゃあ、何考えてた?」


 あなたが下ネタノートを書いたかどうか考えてました、とは言えない。


 そしてやっぱり、ノートを書いたのは霜上川さんじゃない。


「別になんにも。そういえば、霜上川さんはどうして語彙にこだわってたのかな、とか」


 教室で、霜上川さんは僕に執拗に語彙力対決を挑んできた。結果として僕が勝ったのだけど、霜上川さんは悔しがるというよりむしろ、ちょっと羨ましそうな目で僕のことを見ていた……気がする。


 それは僕の思い過ごしだとしても、すぐにホームルームが始まったので結局、彼女の意図は分からないままだったのだ。


「えーっとね、別に、なんでってわけでもないんだけど、語彙力あるのってすごいなと常々思ってるから」


 そりゃあすごいかもしれないけど、そんなこと常々思うか?


「漢検とか好きな感じ?」


「いや、そういうわけじゃないんだけど、でも、そういうのもいいかもね、うん!」


 あれ?


 なんか急にしどろもどろになったな……。僕と話すのがさすがに嫌になってきたか? まあそれも仕方ない。ここは気を利かせてさりげなく退散しよう。


「僕、コンビニに寄って帰るわ。アイス食べたいし」


「あっ、あたしも行く! なんのアイス買うの?」


 ついてくんのかよ!


 ぜんぜん何考えてるかわかんねえ。怖いよ僕はこの人が……。


「チョコバー的なやつとか?」


「おっ、いいね~。あたし、ハー〇ンダッツ買っちゃおっかな。黒蜜のやつ売ってるかな~」


 なんで僕は美少女とコンビニに行くことになってんの? なんかいつのまにかすげえ徳を積んでたの?


 コンビニは角を曲がったすぐのところにあった。僕と霜上川さんは並んで入店した。


「あー、黒蜜のやつ、ないかー。残念。五月雨くんは何がいいと思う? チョコクッキーにしがちなんだけど、けっこう重くて、バニラでよかったなって思うこともあるんだよね。そして、実はストロベリーの果肉感もけっこう好きだったり」


「いや、僕は霜上川さんじゃないから、分からん……」


「確かにねえ。五月雨くん "深い" ね」


「もしかして馬鹿にされてる?」


「いやいや、本気だよー。本人にしか分からないこと、本人にしか知りえないことってあるもんね」


 確かに。それはそうだ。


 人間、誰しもが人に言えないようなこと、言ってもしょうがないと思って言わないことを頭ん中に抱えて生きてる……んだと思う。


 霜上川さんのそれはどんなものなんだろう。


 そんなことを、僕は考えてしまう。考えたところで、彼女が僕に心の内側をさらけ出そうとしてくれることなんて、一生ないのは分かってるけど。


「五月雨くんは有言実行だね」


 僕の手の中にあるチョコアイスを見て、霜上川さんは言う。


「そりゃあチョコの口になってたから」


「チョコの口……なるほど……」


 何に納得しているのかまったく分からないが、霜上川さんは神妙な表情で言うと会計のラインに並んだ。僕もそのうしろに続く。


 足元に示される待機位置が僕と霜上川さんの距離を事務的に決定する。楽だ。何も考えなくていいから。


「ねえ、五月雨くん。あのレジの横にあるホットドックとかアメリカンドックとかが入ってるやつ、なんて言うんだっけ?」


 なんでドック縛りなの? チキンとかの方が目立つくない?


 という細かいことは置いておくとして、


「ホットスナックのこと?」


「あー! そうそう! さすがの語彙」


「いや、語彙とかそういう問題か?」


「ホットスナックか……。でも、ビジュアルに引っ張られすぎてる気がするし、微妙だなあ」


「?? なんて?」


 マジで発言の意図が1ミリも理解できず、素で訊き返してしまう。


「い、いやいや。なんでもないの! 気にしないで!」


 霜上川さんはしまったという表情で手をひらひらと振った。マジで分からん……。ビジュアルって、ホットドックとかアメリカンドックとかのビジュアルか?


 と、そこまで考えて、僕はある恐ろしい仮説にたどりついた。


 まさか……ね。


 まさかとは思うけど、その仮説をふまえて、さっきの霜上川さんの発言に補足してみる。


『ホットスナックか……(なんとなく卑猥にきこえる単語な気がするなあ)。でも、(ホットドックとかアメリカンドックとかの卑猥な)ビジュアルに引っ張られすぎてる気がするし、(卑猥さの加減としては)微妙だなあ』


 いや、まさかそんなわけあるかい!


 もしかしてあのノート、持ってるだけで発想がおかしくなってくるマジもんの呪いのやつ?


 だって、霜上川さんがそんなこと考えてるわけないでしょ。


 ……と思うも、語彙ゴイ言ってるのも、もしや「卑猥にきこえることば」の項目を増やすという密かな趣味のためなのか?


 なんかそんな気がしてきた。いや、でもさすがに……。


「袋、いりますか?」


 ぼうっとしている僕に、店員さんが困った様子で訊いていた。


「あ、すみません、そのままで」


 ついつい思考が加速して、ほとんど無意識のまま会計してもらってたぜ……。


 少しのうしろめたさから、店員さんに大きめに「ありがとうございました」と言ってコンビニを出る。


 入口の脇で、霜上川さんが待っていた。


「ううっ。やっぱりまだちめたい。早く落ち着いて食べられるとこ見つけなくちゃだね」


 ハーゲ〇ダッツに触れる手の部分を色々と変えながら霜上川さんは言う。「落ち着いて食べられるとこ」ってなんだ?


「家で食べるんじゃないの?」


「それだとすぐに食べられないじゃん!」


「そりゃそうだけどさ……」


「それに、五月雨くんもいまにも食べそうなご様子だよ?」


 確かに。袋も購入せず直でアイスを持つ僕は、客観的に見たらいますぐにアイスを食べたい人だろう。


「確か、あそこに公園あるから、そこで食べよ!」


「え? 一緒に食べんの?」


「え? 嫌?」


「嫌じゃないけど……霜上川さんはいいのかなって思って」


「アイス食べるのに良いも悪いもないよっ」


 そう言って霜上川さんは歩き出す。


 もうなんでもいいや。状況に身を任せよう。


 学校一の美少女と帰り道にアイスを食べるイベントとか、完全に僕のキャパを超えてる。もう逆に冷静だもんな。人はギャルゲみたいな状況になってもこんなに冷静でいられるのだということが分かった。なぜならこれは現実だから(悟り)。


「ここにドーン!」


 霜上川さんは公園の空いているベンチに腰掛ける。できるだけ間を空けて、僕は彼女の隣に座った。


「はい、ウェットティッシュ1枚あげる。アルコール除菌だよ」


「ありがとう……ございます」


「なんでいきなり丁寧になってるのよ」


「いや、別に……」


 駄目だ僕、ぜんぜん冷静になってなかったわ。めっちゃ緊張してるわ。


 差し出されたパックから端っこの出たウェットティッシュを指でつまみ、2枚以上が続けて引き出されないようにそっと引っ張った。パックを介して、霜上川さんの力が確かにそこに作用していることを感じる。


 上手く取り出せたことに安堵し、それで手を拭いてから、僕はアイスの袋を開けた。口に含むと、濃厚なチョコの香りが漂ってくる。


「おいしい?」


「そりゃおいしいでしょ」


「わかる」


 霜上川さんもさっそくハーゲン〇ッツ(結局ストロベリー味にしたらしい)を食べるのかと思いきや、なかなか食べ始めない。というか、なぜかずっと僕のほうを見ている。


「棒アイスを食べる男子中学生、"良い" な」


「なんか言いました?」


「いいえ、何も」


 なんか不穏な気配を感じたが、きっと気のせいだろう。


 霜上川さんは何食わぬ顔で僕から目を逸らすと、いよいよアイスの蓋を開けた。


「あー、やっぱハー〇ンダッツおいしー。完成されてるんだよね、ハーゲ〇ダッツとして」


「そりゃあハーゲン〇ッツだからな……」


 まあ言いたいことは分からんでもないけど。


「五月雨くんはクラス、どうだった?」


「どうもこうも、特に何もないけど」


 あなた、僕が隣の席で死んだ目をしながら本を読んでたの見てたでしょうが。


「そっかー。まあ、そういうのもアリだよね。あたしもけっこう、どのクラスにいても同じっていうか」


「それは霜上川さんが人気者だからでしょ」


 ついつい、そんなことを言ってしまう。僕は口調が必要以上に卑屈なものになっていなかったかどうか確認するために脳内で先ほどの自分の声を響かせようと努力したが、結局うまくいかなかった。


「あはは。人気者ってなんなんだろうね」


 霜上川さんは笑う。その笑顔は、たぶん彼女が自分で思っている以上に寂しげで。


「たまに言われるけど、けっこう謎。だって人気って、自分と関係ないじゃん。優しい、とか面白い、とかだったら、ああ、あたしってそうなんだって思えるけどさ」


「優しくて面白いから人気なんじゃないの?」


「ふぇっ!?」


 僕の言葉に、霜上川さんはなぜか顔を赤らめる。『よく考えるとどうしてこんな意味わかんねえ男と一緒にアイス食ってんだろう』と我に返って、頭に血がのぼったのだろうか……。


「そ、そうだったらいいね」


 それだけ言って、霜上川さんはアイスに向き直った。まあ、早く食わんと溶けるからね。


 頭に血がのぼる、で思い出したけど、そういえば今朝の霜上川さんの様子はいまの比じゃないくらいにヤバかったな。


 教室に息を切らしながら入ってきたかと思うと戦いのさなかにある鬼のような表情をして衆目を引いていたわけだけれど、一瞬のあとには何事もなかったかのようなクールさを取り戻し、何事もなかったかのように時を進ませたのだった。あまりに何事もなかったかのような様子だったから、僕もいまのいままで忘れてたぜ。


「そういえば霜上川さん、今朝なんかあったの?」


 まあここはいっちょ僕からも世間話くらいしときますか! と思って話を振ったが、すぐにそれが間違いだったことに気がついた。


 霜上川さんの目が、変わった。


 見開かれた目はどこまでも綺麗でたとえば白い海に浮かぶ海月くらげを思わせたけれど、同時にそれはすべてを吸い込んで無へと還すブラックホールのようでもあった。


 失敗プレミだ……。別に変なことは言ってないと思うんだけど、触れてはいけなかった。なかったことになっているはずのあれを、掘り返してはいけなかった。そもそも、僕ごときが彼女に許可なく話しかけてはいけなかったのだ。


「どうしてそう思ったの?」


「いや、なんか一瞬、焦ってる? みたいに見えたから」


「そっか。なんでもないよ。ちょっと落ち着かなかっただけ。新学年だからね。やっぱり初めて新しい教室に入るときは、緊張するよね」


 ゆっくりと、言葉を選ぶように霜上川さんは言う。


 緊張、か。そう言われてしまえば、納得するほかない。というか僕は別に、何も疑ってない……はずなんだけど。


 何かが引っ掛かる。


 そして僕は僕の悪癖として、自分の中の疑問に気づいた瞬間、それを声に出してしまう。


「あれ? でも霜上川さん、あの時点で教室に鞄、置いてなかったっけ?」


 そうだ。僕が最初に教室に入ったとき、霜上川さんの机にはすでに鞄が無造作に置かれていた。だとすればそれは、『初めて新しい教室に入るとき』に緊張したといういまさっきの霜上川さんの発言と矛盾する。


 霜上川さんはいったん教室に鞄を置き、そして教室から出て、戻ってきたときにありえないぐらいヤバい表情をしていた。そういう時系列のはずなんだ。


「言葉の綾だよ、五月雨くん。初めてっていうのが厳密に初めてじゃなくても別に構わないでしょ?」


 霜上川さんは鋭い視線で僕を射抜く。ふつういまのセリフ、笑いながら言うところじゃない?


 もちろん、彼女の言っていることはもっともなんだが、それでも僕は、どうしても妄想をたくましくしてしまう。


 もし、彼女が何かを誤魔化そうとしているとしたら。


 それは、教室でヤバい表情をしていたことじゃない。その前に、いちど教室を出たこと、さらに言えば、何のために一度教室を出たのかということだろう。


 いちど登校した教室にとどまらず、鞄を開けたまま飛び出す理由。


 ――忘れ物?


 僕の思考は、疑念は、きれいに一周してもとに戻った。そして、僕の中ですべてがつながる。つながってしまう。


 だとすればなおさら、僕は彼女に真相を問わなければならないんだ。


 なぜなら、僕の考えが正しければ、すべては僕の責任でさえあるのだから。


「でしょ? 五月雨くん」


 すごい "圧" で迫ってくる霜上川さんに僕は向き直り、覚悟を決める。


 勘違いだって可能性はおおいにある。もしもそんなノート知らないって言われたら絶対に中身を見せなければいいだけだ。そうすれば僕も霜上川さんも心の平穏を取り戻し、良い感じの放課後でしたねってな感じでおさらばできる。


 もしそうじゃなかったら? 知らないって言われなかったら? それこそ知らないね。


 僕は自分の鞄を開き、限界下ネタノートを取り出した。


「霜上川さん、このノート、見覚えある?」


 その瞬間、僕と霜上川さんの関係は、決定的に、変わった。

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