第2話 彼女の青春はただの娯楽

「井上部長、自ら主役をやるつもりで引き受けたらしいんだけど、あの美人監督があなたを主役に指名したのよね。なぜなのかしら?」


 夕方で混雑している帰りの山手線の中、新井は不思議そうな顔で覗き込んでくる。


「さあな。どうせ身の危険を感じたからだろうさ。あの井上を主役にしたら、なにされるかわかったもんじゃないからな」

「それは言えているわね。サークルに入ってから、私も何度となく誘われたもの」

 あの野郎、そんなに手が早いのか。非難めいた顔をしている新井に皮肉のひとつも言いたくなった。


「ははは、お前に声をかけるなんて、物好きにも程があるな」

「なによそれ。私だって他にも言い寄ってくる男くらいいるんだから……」

 見慣れたふくれっ面だ。この顔を見られるのは今のところ俺だけだろう。


「そういえば、配役される前に俺たち全員、監督と面談したよな。あの影響かもしれないな、俺が主役って」

 この言葉に食いついてきた。

「なんて言ったのよ、あの美人に」


 いや、とくにアピールはしなかった。

 ただ「映画なんてしょせん娯楽なんですから、面白ければそれでいいんじゃないですか。誰が何役をやろうと、観客はそんなところを見てはいないんですから」と口にしただけだ。


「あ、それはまずいわね」

 まずいかな? 新井は勘がいいから続きに耳を傾けた。

「あの監督、美人だったからプライドも高そうなのよね。自分は映画に青春を懸けている。なのに『しょせん娯楽』扱いされたら、懲らしめてやりたいって思うんじゃないかしら」


 新井の言い分では、彼女の青春を否定した俺に対する当てつけということになるのか。それだとかなり厄介だ。

 美人監督から目の敵にされ、主役を押し付けられ、演技に四苦八苦しているさまを内心で笑われているのかもしれない。


 しかし、あの程度の愚痴を聞かされたら、普通、役にはつけないよな。

 映画に対する情熱がまったくない人間を、あえて主役にするものかな。

 笑いものにする以外にも、なにか目的があるような気がする。


「どうしても嫌なら降りちゃったら?」

「何度もその機会を狙っているんだけどな。井上の野郎は『美人のご指名なんだから断るな』とかぬかしやがった」


 車内アナウンスは次が新宿駅だと告げていた。乗り換えのためにおしゃべりを控えることにした。

 電車が完全に停まり、ドアが開くと大勢の乗客が一斉に降りていく。さすが世界一乗降客の多い駅に認定されているだけのことはある。

 押し寄せる人波に逆らわず、階段を下って右に折れた。ここをくぐれば京王線の始発駅である。庶民的な路線なので、私鉄といえども乗降客が多い。とくにこの時間は帰宅を急ぐ学生が多くて、駅構内にはたくさんの若者がごった返している。


 新宿始発の京王線特急に乗ってから話を続けた。

「でも、映画の主役なんて滅多に経験できないんだから、楽しんでやったらどうなの?」

「あれだけ駄目出しを食らうと、楽しいなんてまったく感じないよ。とにかく適当に穏便にやっていれば、そのうちOKが出る、くらいのスタンスにしかなりようがない」


 撮影者がどんなに頑張っても出演者の演技をすべてコントロールできるわけじゃない。役者が自発的に演技を追求しないかぎり、演技の質なんて上がりはしないだろう。

 そうじゃなければ、なぜ俳優は演技が上手なのか、説明もつかないはずだ。


 話しつつ車内を見るとどんどん人が乗ってきている。座席はすぐに埋まり、出入り口の脇にもたれている人も多くいた。このちょっとだらしないところも、この路線の魅力のひとつだ。


「なら、いっそ演劇サークルに仮入部でもしてみる? 愛美に聞いてみてもいいけど」

 愛美とは松田愛美のことで、俺たちの高校時代の同級生だ。同じ鷲田大学に進んで演劇サークルに入っているらしい。そういえば彼女、高校でも演劇部だったっけ。


「いや、演技をやりたくてやっているわけじゃないし。それにあの監督、演劇サークルから目をつけられているらしいんだよな」

「目をつけられているって?」

 聞いた話だが、映画サークルが演劇サークルに出演依頼しなかったのは今年が初めてなのだそうだ。


 演劇サークルとしては、日頃の練習の成果を発表できる晴れ舞台のひとつとされている。だから山本監督は演劇サークルから恨みを買っているらしい。

 あくまで噂レベルだが。


「危険な噂ね。あれだけの美人だから、それだけで恨みを買っている可能性は高いわよ。妬みなんかで襲われちゃう可能性だってなくはないでしょう?」

「なんでも映画サークルのプロデューサーが部長なんだけど、その人いろいろと芸能界にコネがあるらしくて──」


「コネ? そんなすごい人がいるの、あの映画サークル」

「そうらしい。だから芸能界への登竜門にもなるから、そのプロデューサーには逆らえないってこと」


「なら、あなたの演技が評価されて芸能界デビュー、って路線もあるわけか」

「ないない。それほどの逸材なら、何度もリテイクなんて出されないよ。一発でビシッと決めてこそ、芸能界で通用するんじゃないかな」

「なるほどね。でもそのくらいすごい人なのに、どうして大学に出てこないのかしら」


「俺たちとまだ一度も会っていないけど、それも芸能活動の一端を担っているかららしい。派手な外車を乗りまわして、若手の芸能人を侍らせているって噂だよ」

「お近づきになりたくない人みたいね」


 同感。芸能界なんてろくなところじゃなさそうだ。

 第一、演技も満足にできない素人が通用するような甘い世界じゃないはず。俺が通用してしまったら、演劇サークルで日夜苦労している人たちが哀れすぎるだろうな。


 特急電車の発車ベルが鳴り、ドアが閉まっていく。構内の雑踏が掻き消え、そしてゆっくりと電車は滑り出した。

「それにしても単位に余裕があるわけでもないし、早めに撮影が終わってくれるよう願うしかないわね。私たちも三年生になったら就職か大学院に上がるか、進路を決めなきゃならないし」


 じきに電車は轟音を響かせて地下を走っていく。新型コロナウイルス感染症の影響で窓を少し開けているので、その轟音では隣の声も聞こえなくなる。

 このまま三分ほど我慢するとようやく電車は地上へ出た。これで隣の声も聞こえる。


「俺ってまだ、将来なにをやりたいか決めていないんだよな」

「一哉ってどうして鷲田なんて受けたの? 政治家になりたかった、とか?」


 ははは、鷲田大学から政治家になった人は確かに多いけど、たいてい政経出身だ。文学部出身の政治家なんてまずいないんじゃないかな。

「それもそうね。じゃあ小説家になりたかったとか?」

「取り立てて小説家になろうとも思っていないんだよな。単に倍率が低くて受かりやすいところを探していたら、たまたま鷲田の文学部がヒットしただけで」

「そんな打算だけで決めたの? 呆れたわ」

「じゃあどんな意気込みだったらよかったんだ? 新井が鷲田に行くから俺も、とでも言ってほしかったとか?」

「確かにそう言ってもらえたら、女の子として悪い気はしないわね」


 でも新井の成績なら、東都大学の法学部でも入れたはずなのに、なぜかレベルの低い鷲田の文学部を受けたんだよな。そちらのほうがよくわからなかった。

 単に「いい大学」に興味がなかっただけなのだろうか。


 車内アナウンスが次の停車駅、明大前を知らせている。程なくして電車のスピードが落ちていく。

 新井はここで降りて井の頭線に乗り換えるのだ。

 通いやすさでいえば、山手線で渋谷駅まで行って、井の頭線に乗り換えるほうが乗り降りする回数が少なくて済む。

 おそらく行きはそうしているのだろう。俺と帰るときはわざわざ遠まわりをしてくれているのかもしれない。


 そんなことを考えていると、電車はホームで停車した。ドアがゆっくりと開いていった。ここは特急より遅い快速などとのアクセスによいため、多くの人が降りていく。


「それじゃあ、また明日ね」

「ああ、帰り道気をつけろよ」

「わかってるって」


 大きな人波に押されるようにして、新井は電車から降りていった。



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