エピローグ(一)

 桜の花が校庭を彩る季節になった。

 月島の勤める学校にも、多くの新入生が入学してきた。不安と期待を抱きながら、今日から始まる学校生活に胸をときめかせている。毎年目にする初々しい姿だ。


 別れと出会いの春。卒業生を見送り、新入生を迎える。こうして生徒たちは少しずつ入れ替わる。

 時間は確実に流れた。四か月前のことはすでに過去となり、人々の記憶から忘れ去られていた。


 月島は、真新しい制服もぎこちない子供たちを見ながら、忌わしい事件の起きた冬がとうに終わっていたことを感じた。

 聖夜の残した猫は、ホリーと名づけられた。ホリーは聖夜のベッドを占領してしまい、掃除をする月島を手こずらせる。部屋はあの日のままいつでも使えるような状態で保たれ、ホリーや月島とともに主の帰宅を待っている。



 夏がすぎて秋も終わり、風が冷たさを運んでくる。せわしくすぎる毎日を送っているうちに、季節はひと巡りしていた。

 間もなく一年を迎えようとしているのに、聖夜はなんの便りも寄こさない。今ごろどこでどんなふうにしているのだろうか。元気でいるだろうか。寒さに凍えていないだろうか。


 ——生きているだろうか。

 片時も頭から離れることのない、大切な存在なのに。

 待つことしかできない日々がこんなにも苦しいものだったとは。いつしか月島は、そんな毎日に疲れを感じ始めていた。



 二学期の終業式の日、帰宅する生徒たちを校門で見送った月島は、雪のちらつき始めた校庭にそのまま立っていた。肩に落ちた雪をはらっていると、うしろからそっと傘がさしかけられる。

「また、聖夜くんのことを思い出していたのですか」


 物越しの柔らかい女性の声にふりかえると、英語教師の稲葉が立っている。彼女は去年、聖夜のクラスを担任していた。

 月島は、問いかけに軽くうなずいて答える。

「去っていった人のためだけに費やす人生は、もうやめませんか?」

 はっとして、目の前の女性の顔を見つめる。


「わたしにも聖夜くんと同じ年の息子がいます。今は大学で教育学部に在籍してるんですよ。おかげでわたしも、春からひとり暮らしを始めました」

 彼の通う大学は聖夜が目指していたところと同じだった。運命が少し異なっていれば、今ごろふたりは肩を並べて勉学に励んでいたかもしれない。


「離れていると、一緒にいるとき以上に気になってしまうんですよね。だからわたしにも、月島先生のお気持ちがよく解るんです。聖夜くんのことはよく知ってるだけに」

 稲葉は月島の目をまっすぐ見つめ返す。


「忘れろっていうのではありません。でも聖夜くんは、自分の父親が過去に捕われているのを知ると、悲しく思いますよ。あの子はいつだって未来を見つめていた。そうじゃありませんか」

 そうだ。聖夜は未来に希望を抱いていた。人間として成長する未来を望んでいた。

「だからもう、過去ばかりに捕われるのは、やめにしませんか?」

 校庭を背に、稲葉は物静かに語った。


 ——知ってる? ぼくの担任の稲葉先生、父さんのこと好きだってうわさだよ。

 いつかの聖夜の言葉が、月島の脳裏によみがえる。あれは、そう、微笑みながらやんわりと再婚を勧めてくれたときのことだ。


 同僚の女性のまなざしは、雪の中にいてなお、春の柔らかく暖かい空気を感じさせる。流香とも聖夜ともちがう安らぎをあたえてくれる。

 こんな目で自分を見ている女性がすぐそばにいたのに、今まで気づこうとしなかった。子供たちの方が遥かに敏感に、大人たちの心を読みとっていたとは。

「そう、ですね。わたしもそろそろ未来を見つめなければならない時期にきたんですね」

 月島は稲葉の傍らで、ともに雪の舞い散る校庭を見つめていた。



 ほどなくしてふたりは結婚した。そのときを境に、月島は聖夜のものを整理した。そして新しくできた子供に、いなくなった子供の部屋を渡した。

「いいんですか? 聖夜さん、いつ帰ってくるかわからないですよ。それにおれはもう、家を出た身だし」

「圭介くん、いいんだよ。きみの実家はここなんだ。自分の部屋があって当然じゃないか。自由に使いなさい」


 思い出と決別し、現実の世界を生きる。

 いつまでも幻を追いかけてはいられない。

 月島は、あの冬の出来事とそれにまつわるすべてのことに、扉を閉めた。



   *   *   *



 月日は流れる。町並みは少しずつ、それでも確実に変化する。

 小さな街の駅前は再開発され、田畑のあったところには住宅が立ち並ぶ。郊外に大きなショッピングモールが建ち、静かだった街は、にぎやかな市街地へと変化した。

 ときを重ね、人は成長し、街は姿を変える。すべてのものが変わっていく。変わらないものなど、この世には存在しないのだろうか。


 月島はコートの襟をあわせながら、舞い散る雪の中、思い出深い教会を見上げていた。

 寒波がこのまま居座れば、今年は十年ぶりのホワイト・クリスマスになるかもしれない。


 明日は圭介の結婚式だ。

 本当はクリスマス・イヴに挙げたかったらしいが、ただでさえ忙しい年の瀬にと友人一同から止められ、一週間ほど早い日を選んだ。

 圭介は最後まで抵抗していたが、なぜそこまでしてこの日にこだわるのか、月島には見当がつかなかった。


「クリスマスか」

 それは聖夜の誕生日で、姿を見た最後の日でもあった。

 あの日からもう十年の歳月が流れている。

 月島は、あのとき助けてもらった教会の敷地に、ゆっくりと足を踏み入れた。

 明日の結婚式は、家族と数名の友人を招いただけの質素なものだ。


 すべての段取りを圭介と妻に任せていた月島は、今日までここにくることはなかった。あまりに多くの思い出がありすぎて、どうしても足を運ぶことができなかった。


 十年のうちに神父も代替わりした。あの冬のことを知っている彼は、去年の秋、枯れ葉が散るように静かにこの世を去った。事件の真相を知るものは、今では月島ひとりになってしまった。

 忘れたはずの記憶がよみがえる。街並が変わっても、教会は昔のたたずまいを見せている。流れる季節に取り残されたようだ。


 月島は手帳から一枚の写真を取り出した。昨夜古い本を手にとったら偶然出てきたもので、そこには聖夜が写っていた。

 月島はそれを手にして、あの冬の事件を思い出していた。

「パパ、なに見てるの?」

 かわいい声にふりかえると、ツインテールの少女が真っ赤なマフラーにくるまれて、月島を見上げていた。無邪気な笑顔を浮かべ、ほおを赤く染めている。


 月島は幼い少女にほほえみを返し、片膝をついて目の高さをあわせる。

「美優のお兄さんの写真だよ」

 そう言って見せると美優は唇を尖らせ、怪訝そうに答えた。


「これだれ? 圭介兄ちゃんじゃないよ」

「もうひとりのお兄さんさ」

「そんなの知らない。ミユのお兄ちゃんは圭介兄ちゃんひとりだけよ」

 そのときだった。

「美優、ママが呼んでるよ」

「はーい」

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