第四十二話 残される人

 暖かく優しい、大きな手のひらだった。だが聖夜は、その手にふれることができない。

「ごめんなさい、父さん」

「どうした。なにを謝っているんだ」

「もういいよ。ぼくに誕生日はこなくなったから」

「こないって。今日がその日じゃないか」

 聖夜はゆっくりと顔を左右にふった。無理して笑顔を作ろうとするが、うまく笑えた自信がない。


「ぼくの時間は止まってしまった。もう十八歳を迎えることができないんだ。だから——約束守れなくてごめんね」

 聖夜は月島のそばまでゆっくりと歩き、傍らで立ち止まった。


 十八年間、ずっと父をたよりに生きてきた。暖かく力強い手に守られて、なんの不自由も感じることなく育てられた。片親なのを寂しいと思ったこともない。ふたり分、いやそれ以上の愛情で、聖夜をずっと見守ってくれた。

 幼いころは見上げなければならなかった父の姿を、見下ろすようになったのはいつからだろう。


 目元に刻まれたしわ。毎日一緒に生活し、顔をあわせていたのに、今までそれに気づかなかった。この半月ほどで一気に老け込んだのかもしれない。この事件で、父はまるで数年の時間を旅したようだ。

 すべては自分に原因がある。


 血のつながりがないぶん、深い絆でつながれた親子だった。こんな事件がなければ、聖夜は月島を実の父親と信じ、疑問を感じることすらなかっただろう。

 できればそうしたかった。いつまでも一緒にいたかった。

 だがそれはできない。

 聖夜は父に向かい、もう一度笑顔を見せる。今度はちゃんと笑えただろうか。

「ぼくをここまで育ててくれてありがとう。父さんのことは、絶対に忘れない。コナーって人が本当の父親だとしても、ぼくにとって父親は、月島秀貴ひとりだけだよ」




 月島はだまって聖夜を見つめた。

 行くなとも言えない。だが別れの言葉も口にできない。聖夜が今からなにをするつもりでいるのかを理解できるだけに、言葉をなくしてしまう。

「子猫のこと、よろしくね。約束したのに、世話できなくなってごめん。でも捨てたりしないでよ。あの子もひとりなんだから」

「心配するな。面倒はみるよ」

 聖夜は安堵の表情を見せた。


「よかった。これで安心して行ける」

「行くって——聖夜」

 わかっていた言葉なのに、衝撃は予想以上に大きい。

「父さん。元気で……ね」

 強い意志を瞳の奥に宿らせて、聖夜が微笑む。深い悲しみと強い決意の同居した笑顔が、月島の胸を掠めた。


 雪の舞い散る中、聖夜は月島に背を向けた。そして家とは逆に向かって踏み出す。

「聖夜!」

 月島は、息子の背中に叫ぶ。

「どうしたんだ? どこへ行くんだ?」

 歩みが止まる。


「一度覚えた血の味は、忘れられない。このまま成長することもできない。ぼくはここで一緒に暮らせないんだよ」

 決してふりかえらない。わずかに震える声だけが、耳に届く。

「ぼくのことはほかの吸血鬼やハンターの地下組織に知られた。この先また同じようなことが起きるかもしれない。そんな世界に、これ以上父さんをまきこめないよ」


「聖夜……」

「今度こそ本当に、さよなら、だね」

 一度もふりかえることのないまま、聖夜はふたたび歩き始めた。

 雪が静かに舞い降りる。月島はその中で、じっと聖夜の背中を見つめた。

 最後にもう一度だけ、その笑顔が見たい。忘れないように心に深く刻みつけるから。


 だが聖夜は、決してふりかえらない。そうすることで決心が脆くも崩れることを恐れているのだろうか。

 それならそれでもいい。今ならまだ引き返せる。

 心の中で強く願っても、口にすることは許されない。一歩踏み出して、引き止めることもできない。月島はその場に立ち尽くし、無言で聖夜の後ろ姿を見つめることしかできなかった。


 白い雪は静けさをつれて降り続ける。人々の罪を覆い隠すように。不浄の色を清めるように。

 血に染められた聖夜の手。身体を流れるヴァンパイアの血。そんな聖夜の肩にも雪は等しく舞い降りる。

 昼の世界からは忌み嫌われ、夜の世界からは疎んじられる。両方の血を受け継ぎながら、そのどちらからも拒否される。トワイライトの世界の住人たち。


 ——まきこめないよ。


 ともに暮らすことは、互いのためにならない。一緒にいることで、相手の命を危険にさらしてしまう。

 そんなことは解っている。だからなんだというのだ。

 それでもいいから、戻ってほしかった。ひとりにはなりたくなかった。

 事故で逝った両親。愛する家族を守るために去った流香。そして今、住む世界が変わってしまい、旅立とうとしている聖夜。


 どんなに手をつくしても、自分には残されるだけの人生しかないのか。

 聖夜、いつまでも待っている。旅の目的を果たしたとき、あるいは破れて疲れ果てたとき。おまえの帰る場所は、ここなのだから。


 聖夜の影は雪の中にまぎれ、やがて視界から消えた。

 教会からキリストの生誕を讃える歌が響く。聖夜の生まれた夜と同じだ。

 始まりはクリスマス・イヴの日。そして終わりもクリスマス・イヴの日。

 月島の胸に、あの日聞いたものと同じ曲が、少しずつ少しずつ染み込んでくる。

 十八年前のこの日、月島は聖夜と出会った。十八回目の誕生日に、聖夜は月島のもとを去った。



 そして月島はひとりになった。

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