エピローグ(二)
礼拝堂から出てきた圭介に呼ばれ、美優は中に戻った。娘を見送ったあとで、月島はふたたび写真に視線を落とした。
それは聖夜が高校三年生のときのものだ。校内球技大会で優勝したときの写真だろう。仲の良かった四人が全員写っていた。聖夜はウインクをしながら、Vサインをしている。
思い出の中の聖夜は、いつまでも十七歳のままだ。写真も記憶も、ときの流れに残されている。そして目の前の教会も。
月島はふと、白いものが多くなった自分の頭を思い出した。自分ひとりがときを重ねたような錯覚を起こす。
「父さん、なにしてるんですか? 外は寒いでしょう。みんな中で暖まってますよ」
小雪の中、黒いコートに身を包んで立っていたのは、圭介だ。髪を短く切りそろえ細いフレームの眼鏡をかけた姿は、スーツを着ると立派な教師だ。学生時代にハードロックにこり、バンド活動をしていたときの面影は残っていない。
「早いですね。父さんたちが結婚してもう八年か。美優も小学生。おれも年を取るはずだ」
「まだ二十八歳だろ。年をとったなんていうほどじゃない」
「いやいや。もう充分すぎるくらいに結婚適齢期ですからね。さすがのおれも、年貢の収めどきかな」
肩をすくめながら、圭介は口元に笑みを浮かべた。つられて月島にも笑みが浮かぶ。
「わたしの一度目の結婚は、二十三歳だったよ。それから比べたら、圭介くんはずいぶん独身生活を楽しんだよ」
「そうですか?」
圭介はポケットに手を入れ、雪がうっすらと積もった地面を見下ろした。
「おれがどうしてクリスマス・イヴに結婚式を挙げたかったか、ご存じですか?」
「彼女の希望かと思ってたけど、ちがうのかい?」
圭介は月島に視線を移した。
「その日が、聖夜さんの誕生日だからです。父さんやお袋にとって特別な日なら、おれにとっても特別な、忘れられない日にしたかったんですよ」
会ったこともない兄弟なのに、聖夜は圭介の一部にもなっていたとは。
「ありがとう。その気持ちだけで、わたしは充分だよ」
「そうですか。それより今夜ですが、予定はありますか?」
「いや、特別には」
「なら、もしよかったら今夜、ふたりきりで一杯どうです?」
突然の提案に、月島は圭介の横顔を見つめる。
大学時代にひとり暮らしをしていた圭介は、この街で教師になったあとも、遠慮して同居しなかった。週末には帰宅していたが、ふたりでじっくり語る機会をもつこともないまま、今日まできた。
「ずっとそうしたいと思ってたんですが、なかなか言いだせなくて」
頭をかきながら、圭介は照れくさそうに提案した。
「若くして結婚した気持ちとか、お袋に聞かせたくない話もあるだろうから、どこか外で」
「そうだな。明日にさしさわりない程度に」
月島はうなずき、写真をポケットに入れようとした。そのとき突然の強風が吹き抜け、手の中の写真が飛ばされた。
「あっ」
風にさらわれた思い出の品を追いかけ、月島は教会の敷地を飛び出した。
写真は風下にいた青年の足元で止まった。目の前に突然現れた一枚を手に取り、青年は月島に手渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとう。助かったよ」
礼を言って写真を受け取ったあと、月島は何気なく相手の顔を見て、息を飲んだ。
すれちがいざまに見せたその顔は、写真の人物に瓜ふたつだ。
「聖夜っ」
月島はふりかえり、慌てて青年を追う。
だが彼は人混みの雑踏にまぎれ、ふたたびその姿を見つけだすことはできなかった。
聖夜にそっくりの人物。記憶の中、写真の中そのままの姿だった。ときの流れに取り残されて、十七歳のままだった。
今のは他人の空似か。それとも写真に引きずられて、錯覚をおこしただけか。
あるいは——。
「父さん、どうしたんですか?」
圭介が背後から声をかける。唐突に教会を飛び出した父を追いかけてきたのだった。
「いや、なんでもない。ちょっと昔のことを思い出したみたいだ」
「昔のことって、聖夜さんのことですか? もしかして聖夜さんを見かけたんですか?」
「いや、そうじゃない。わたしが見た人物は、十年前の聖夜にそっくりだった。他人の空似だよ」
「そうですか。でも残念だな。一度でいいから聖夜さんに会ってみたかった。父さんもお袋も知ってて、おれだけが知らないんです。なんだか仲間はずれにされてるみたいですよ」
圭介は寂しそうに笑った。
あのとき仲間に入れなかったのは、自分だけだった。流香、聖夜、ドルー。みんな昼の世界の住人ではなかった。
だが今の月島は、ひとり残されたわけではない。妻がいて息子がいて、血を分けた幼い娘もいる。明日になれば、もうひとり新しい娘もできる。にぎやかで明るい家庭が、月島のまわりを囲んでいる。
本当なら、ここにもうひとりいたはずだった。
雪の舞い散る中を去っていく、聖夜の姿がまぶたに浮かんだ。
昼の世界にも、夜の世界にも属することのできない聖夜は、姿を消す以外になす術を持たなかった。
遠ざかる聖夜が見えなくなるまで、月島はずっと影を見つめていた。その姿が街の背景に溶け込むころ、降り積もる雪は、足跡さえも消していた。そこに聖夜がいたことを記すものは、なにひとつ残されていなかった。
雪が静かに降り、昼の世界に属するものとそうでないもののあいだに、越えることのできない白い壁を作る。
それからしばらく、月島は雪を見るのが嫌いになった。だが満ち足りた生活の中で、そんな気持ちはいつしか消え去っていた。
忘れていた記憶と感情を、今日ばかりは思い出してしまった。あのときと変わらない風景に、月島の心もあのころに戻ったようだ。
雑踏の中、ひとことだけ交わした青年を見失った方向を見つめた。
雪が舞い降りて、目の中に落ちる。
視界がぼやけてくるのは、雪のせいだろうか。
そのときの月島には解らなかった。
— 了 —
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