第三十二話 束の間の安らぎ
カーテンの隙間から細く射しこんだ月光が、机におかれた写真立てに青白い光を落とす。静けさの戻った部屋の中で、月島と流香はひとつのベッドに入っていた。
流香の頬はうっすらと赤みがさし、冷たかった身体に温もりが戻る。月島の左肩には白い包帯が巻かれている。流香が手当てしてくれたものだ。
小さなキスを交わしたあとで、流香がつぶやいた。
「わたしたち、今からでも三人で暮らせないかな」
月島は腕の中の流香を見た。流香は肩から上をシーツから出し、月島の腕を枕にしたまま軽く瞳を閉じている。
「わたしが一番に起きて、秀貴さんと聖夜のお弁当と朝食を作るの。コーヒーがはいったころに、ふたりとも寝惚けまなこでリビングにやってくるのよ」
枕元に子猫が飛び乗った。流香が頭をなでると、子猫はゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくる。自分が手にかけようとしたことは、記憶にないようだ。
「ひとりっ子だと聖夜も寂しいよね。弟か妹を生んで、四人家族にしようかな。平凡な毎日がのんびりとすぎるの。そんな暮らしが……」
声は途中で震え、涙に変わる。
ドルーのそばにいくことを選んだのは、だれでもない流香自身だ。愛しているからこそ、聖夜を身ごもった。だれに咎められても、子供を産む道を選んだ。それほどまでに愛した者と一緒にいて、なぜ涙を流すのか。
「流香、おれの前だからって、無理して嘘をつくことはないんだよ」
「わたしが嘘を?」
耳にした言葉を疑うように、流香の大きな目が月島をじっと見つめる。
「聖夜が教えてくれた。流香はドルーを愛していたと。彼に聞かされたすべてを、おれに語ってくれたよ。そんなことも知らないで、おれはきみを——」
「そうじゃないの」
「おれが余計なお節介を焼かなければ、きみたち三人はあの日からずっと、離れることなく一緒にいられたはずだ」
「ちがう。聖夜はあの人に騙されてる」
流香の叫びに、月島の言葉が止まった。
「知ってるでしょ、ブラッディ・マスターとスレーブの関係を」
それは、絶対的な主従関係。飢えているときのスレーブに自由意志はない。
そのことは月島も知っていた。だが流香が絡んだことで、正常な判断ができていなかった。
「あれはわたしの本心じゃない。わたしはドルーのところになんて行きたくなかった」
「じゃあどうしてあのとき流香は?」
月島の問いかけに、流香の顔が、少女から母親に変わる。
「あの子を、聖夜を守るためよ」
聖夜を産んだ直後と同じ強い光が、流香の瞳の奥によみがえる。
「ドルーはずっと聖夜の命をねらっていた」
母子ともども殺そうとしたドルーから、流香は逃げた。両親が命を落としたのも、そのまきぞえになったからだという。
「わたしはなんとしても子供を産みたかったの。だから日本に逃げ帰った。まさかここまで追ってくるとは思わなかったから」
それでもドルーは油断ができない。どれだけ離れていても、仲間の存在を嗅ぎつける。いつ魔の手がのび、命をねらわれるかわからない。自分の影のように、不安は常につきまとう。
「これ以上の犠牲を出さないために、子供とふたり、隠れるようにひっそりと生きていくつもりだったの」
「それでおれのプロポーズを断ったのか」
「でもわたしは、自分の心に嘘がつけなかった。秀貴さんをふり切るなんてできなかった。知ってた? わたしの初恋は、秀貴さんだったのよ。
そんなあなたに何度も何度もプロポーズされて、断り切れるわけないでしょ。危険にさらすかもしれないとわかっていたのにね……」
そして始まった幸せな日々。
産まれたばかりの聖夜を抱いたとき、月島は、この子の父親は自分以外にいないと悟った。
血のつながりなど、どうでもいい。自分をたよってくる小さな命を守りたい。だれでもない、自分こそが本当の父親だと実感した。
「流香がいて聖夜がいる。あんなに充実した日々はなかったよ」
「わたしもそうよ。でも幸せを感じれば感じるほどつらかった。いつ壊れるかと思うと、素直に喜べなかった」
それはなんの前触れもなく訪れた。聖夜が産まれて半年がすぎたとき、恐れていたことが現実となって流香の前に立ちはだかった。
聖夜を守るために、流香は抵抗する。そして月島を危険にさらしてしまった。流香の気持ちが月島のもとにあることを知ったドルーは、ふたりの命と引き換えに交換条件を持ちだした。
それは流香がドルーのスレーブになることだ。そうすれば月島と聖夜の命を奪わない。その代わり、十八年のうちに聖夜が覚醒したときは、容赦なく命を絶つ。
流香にとってそれは、大きな賭けだった。
「聖夜が吸血鬼となる日は絶対に訪れない。それを信じてわたしは、ドルーの出した条件を飲んだの」
「おれたちを助けるために、自分を犠牲にしたのか」
「すべてはわたしに原因があるのよ。秀貴さんや聖夜をまき込みたくはなかったの」
流香の中に今でも燃える自分たちへの愛。それなのにドルーの作り話を信じたとは。月島は自分に腹が立って仕方がなかった。
「こうしてまた秀貴さんの腕に抱かれるなんて。夢を見てるのかな」
子猫がベッドから飛び降りた。流香の目がそれを追う。表情が母親から少女に戻った。
月島は流香を力強く抱きしめる。
このままずっと一緒にいたかった。
いつまでもこの腕で抱きしめていたかった。
昼の世界と夜の世界の垣根を越えたかった。
ともにいられるなら、なにを犠牲にしてもよかった。
そう。許されることなら自分も——。
「流香。一緒にいられるなら、おれもきみたちと……」
流香は目を大きく見開き、月島を見返す。漆黒の瞳に、すがるような目をした自分が映った。
「だめよ。それは絶対に。秀貴さんまで聖夜の敵になるつもりなの?」
「敵だって?」
ブラッディ・マスターとなった聖夜と、夜の世界に引き込まれたスレーブがどうして敵同士になるのか。どちらも同じ吸血鬼ではないか。
「それはどういう意味なんだ?」
流香は目を閉じ、口をつぐんだ。月島が頬に手をあてると、目を開け、こちらを見上げる。漆黒の瞳が涙の粒を浮かべた。やがて堰を切ったように透明の滴があふれ、白い頬をぬらした。
流香は月島の両腕にすがり、胸に顔をうずめる。
「どうしたんだ。なぜそんなに涙を流す?」
月島は流香の肩を抱きしめ、胸で涙を受けとめた。腕の中の流香は、絞り出すような声で告げた。
「あの子はブラッディ・マスターであると同時に、ヴァンパイアにとって忌むべき存在。ダンピールなの」
「ダンピール? 忌むべき存在? それはいったい……」
「ヴァンパイアを倒す能力を持った人々のことよ」
「ヴァンパイアを? まさか聖夜にそんな能力が……。信じられないが……だからドルーは幼い命を絶とうとしたのか」
「彼はそういう人なの。自分の命を脅かす者の存在が許せなかったのよ」
仲間として受け入れるよりも、敵として滅ぼす。それがドルーのやり方だ。
「じゃあ流香は、なぜ聖夜が覚醒したら命を絶つようにおれに指示したんだ?」
「あのころのわたしは、ダンピールのことを知らなかった。知っていたのは、覚醒がなければ人間で終わる。それだけだった」
覚醒すなわちブラッディ・マスターだと思っていたのか。
「渇きを覚えたヴァンパイアは、自分の意志に関係なく血を求める。飢えが満たされたとき、自分のやったことを知り、自分自身を責める。わたしはあの人のそういう姿を何度も見た。
だから聖夜にもあなたにも、同じ道をたどらせたくない」
ドルーが自分自身を責める?
人間の尊厳など無視し、少女たちの命を平気で奪っていく吸血鬼がそんなことをするとは到底思えない。流香のいう「あの人」とはだれのことなのか。
「夜明けが近い」
流香が寂し気につぶやいた。東の空がわずかに白み始めていた。
「どうしても行かなければならないのか。ここに残ることはできないのか?」
わずかでも、ともに暮らせる方法があるのなら、流香の望みをかなえてやりたかった。いや、流香だけではない。それは月島の願いでもあった。
流香は目を伏せると、唇に哀しげな笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横にふった。
「昼がすぎて次の夜がきたとき、わたしはまた飢餓に襲われる。そうなったら秀貴さんを傷つけてしまうのよ」
「それでもいい。ずっとそばにいてくれ。聖夜と三人で一緒に暮らそう」
「できるならわたしもそうしたい。でも今の私たちにそれはできない。昼と夜の住人が一緒にいることはできないの」
どうしても流香は戻れない。ならば方法はひとつだ。たとえ自由をなくしても、流香とともにいられるなら、それでいい。
「おれもつれていってくれ。聖夜とともに、夜の世界に」
放したくない。離れたくない。いつまでもそばにいたい。冷たい肌をずっと温めてやりたい。
月島は思いを込めて、流香を力強く抱きしめる。
「聖夜が拒否した世界よ。あなたまでいなくなったら、あの子はひとりになってしまう。お願い、聖夜のためにも残って」
流香は腕をすり抜け、窓を開けた。夜明け前の空気が部屋に流れてくる。
冷たい風に、ベッドの下にいた子猫が顔を上げた。朝の凍える空気は、月島の頬を鋭く刺し、吐く息が白く凍る。
「あと一日、聖夜を守って。明日になればあの子は十八。これで魔物にならずにすむ」
子猫がゆっくりと流香に近づき、足首に頬をこすりつけた。喉を鳴らしながら流香に甘える。
「ごめんね。もう行かないといけないの」
流香は両手で子猫をだき、頬ずりした。
「いいね。おまえはとっても温かい」
冷たい世界に帰る流香の、最後の温もりを求める姿に、月島は胸に痛みを感じる。
「さようなら」
流香は子猫を手渡す。その姿は、最後に残る闇にとけ込む。
「もう、会えないのか?」
流香が哀しげにうなずいた。
今夜のことは、一夜限りの夢なのか。二度と訪れることのない、束の間の幻だったのか。
「では最後にひとつだけ、教えてくれ。聖夜の父親は、本当にドルーなのか?」
「それは——」
流香の口元が動き、真実を伝えようとする。だが声は届かない、上り始めた太陽から逃げるように、流香の姿は消えた。
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