第三十三話 人間の血と吸血鬼の本能

 目を覚ましたとき、聖夜はベッドの上だった。文字通りそのまま倒れるように眠りについたのだろう。あきれたことに、シーツに潜ることもせず、上で眠り込んだらしい。


 身体がだるく、寝返りをすることすらおっくうだ。考えもろくにまとまらない。

 それでも自分のおかれた状況を確認すべく、横になったままあたりを見まわした。


 ホテルのスイートルームのような広い部屋だ。薄暗いが明かりが必要というほどでもない。

 聖夜には、ここにきた覚えが一切なかった。自分のいる場所、理由、最後の記憶をたどらなくてはならないと思うのに、考える気力も残っていない。

 横に目をやるとすぐ隣にだれかがいる。


「うそだろ?」

 葉月がベッドに仰向けになって目を閉じていた。穏やかな寝顔をしている。

 どうしてここにいるのだろう。ともに一夜を明かしたということか。だがふたりとも服を着たままだ。特別なにかをしたわけではないとわかると、安心したような、それでいて少し寂しかった。


 とても長い夢を見ていたような気がする。


 この世界に吸血鬼が現れて、聖夜の平穏な生活が壊されてしまった。大切な友人や恋人が襲われ、犠牲になる中で、自分は吸血鬼の血を引く存在になっていた。

 さらわれたはずの葉月が、すぐそばで眠っている。それこそが、今までのことがすべて夢だったと証明していた。


「葉月、おはよう」

 目を覚まして微笑んでくれることを期待しながら、聖夜は手を伸ばして恋人の頬にふれた。だが葉月は目を開けようとしない。寝顔が不自然な気がした。


 違和感?

 なぜ?

 わからない。

 冷たい肌が意味するものは――。


 ――恐ろしい予感がする。


「葉月?」

 肩を揺さぶる。


 閉じたままの瞳。

 返らない答え。

 動かない。動けない。

 穏やかな寝顔。

 安らかな寝顔? 寝顔? 寝顔? 

 ちがう。寝ているんじゃない。


 ちがう、ちがう、ちがう!


 葉月を抱き起こそうとして、聖夜はベッドから起き上がろうとした。

「なに?」

 全身が痺れ、思うように力が入らない。腕が身体をささえられず、聖夜はベッドから落ちてしまった。


 葉月のことが気がかりでならない。自分の身体が思うように動かないのと同じで、葉月も身動きがとれないのか。

 いや、ここにいる葉月は、眠っているのではない。命の温もりが感じられない。

 もう一度葉月にふれたくて、なんとか身体を起こそうと聖夜はあがいた。


「お目覚めのようですね」

 扉が開く音がして、背後で男性の声がした。聞き覚えのある声に記憶をたどる。

 黒ずくめの男――レン――、吸血鬼ドルーに協力している人物だった。

 だが彼は夢の中の登場人物だ。なぜここにいる?


「無理して動かないほうがよろしいですよ。きみの身体は変化したばかりですから」

「——変化?」

 突然目の前に、たくさんの映像が浮かび上がった。


 全身傷だらけの孝則と、牙を見せる美奈子。

 月明かりをあびる死んだはずの母と、銀髪の吸血鬼。

 父の語った過去の悲劇と、ドルーから聞かされた話。

 さして、さらわれた葉月。


 甘く魅惑的な香りが、聖夜の欲望を呼び起こす。


 痺れるような感覚。

 堪え難い渇き。

 全身を駆け抜ける誘惑。変化する身体。

 血の匂い。血の味。甘く芳醇な香り。

 命の源。


 愛しい人の柔肌に鋭い牙を立てた。口に広がる極上の飲み物、それは愛する人の身体を流れる血そのものだ。


 そう――あれは自分が自分でなくなった瞬間だった。


 頭の中で断片的に浮かんだ記憶が、一本につながる。

「夢じゃない、すべては現実?」

 ドルーに刺激されて、聖夜の身体は血を求めた。

 抑えようとしても抑えられなかった。あれほどまでに強く避けがたい誘惑は生まれて初めてだ。


 うすれていく記憶の中で、自分の身体に生じた変化を自覚していた。生命の源から生き血をすするために、牙が伸びる。

 そしてだれよりも大切な少女の首筋にそれを立て、流れ出す血をひたすら飲み続けた。


 この世で一番大切な葉月の血で飢えを満たし、自分を別の生き物に変えてしまった。

「葉月は? 彼女は無事なのか?」

 聖夜の問いかけに、レンは無表情のままで頭をふった。

「じゃあ……まさか」


「ええ。きみは葉月さんの命と引き換えに、ダンピールとなったのです」

「ダンピール?」

の中で、のことです。今のきみのように」


「じゃあぼくは、吸血鬼ではない?」

 聖夜の中でわずかな希望が生まれる。

「まさか。きみが昨夜したことは覚えているでしょう。半分は吸血鬼、ブラッディ・マスターとなるための第一段階を終えたにすぎません。いずれにしても、もうきみは人間とは異なる存在になったのですよ」

 人間に留まる可能性は、一瞬にして消え去った。


「嘘だ。そんな話、信じられない」

「嘘じゃありません。きみのやったことの結果が、すぐそこにあるでしょう」

 レンはベッドに横たわる葉月の亡骸なきがらを指さした。聖夜は言葉をなくし、眠っているような顔を力なく見つめる。

「葉月……」


 人間のままでいたかった。しかし、身体を流れる血が許さなかった。

 吸血鬼の血は、聖夜の意志をいとも簡単に砕いた。

「そんなものになるために、ぼくは葉月の命を奪ったというの? でも葉月は、吸血鬼になっていたんじゃ……」


「彼女は人間のままでしたよ。ドルーに血を吸われることで暗示にかけられていましたが、吸血鬼にはなっていませんでした。ダンピールに変化するとき、大量の血が必要となります。人を死に追いやるほどの量がね。

 ドルーは初めから葉月さんにその役を担わせるために、自分の手元においたのです」

 レンは淡々と事実を告げる。少女の命が失われたことになんの感情も見せない。


「そんな……ぼく自身の手で葉月の命を奪ったなんて」

「ダンピールなら、だれもが通る道です」

「でもぼくは、そんなものになりたくなかった。人間のままでいたかったのに」

「ならどうして、ここにきたのです? ドルーはきみの覚醒を願っていた。そんな彼が、きみが拒否するからと言って、あきらめるはずなどないでしょう」

 聖夜はレンの言葉を背後に聞きながら、やっとの思いで身体を起こし、ベッドにもたれかかった状態で床の上に座った。


「別れを告げにくるなどと、そんなセンチメンタルなことをするからですよ。初めからこなければ、人間のままでいられたかもしれません。ドルーに会うことのリスクを考えなかったんですか? その甘さが招いた結果ですよ」

 レンは聖夜の前で片膝をつくと、あごをつかみ、顔を向けさせた。


「きみは以前、なぜわたしがドルーの手下になったのかと尋ねましたね。わたしは彼の手下などではありません。わたしと彼は対等な立場です。ここでの生活を世話する代わりに、彼にはあるものを貰うつもりでね」

 レンから見れば、聖夜は考えの甘い子供にすぎなかった。


「今後きみには、やらなくてはならない大切な仕事があります。だからこそ気をつけなさい。でなければ、その甘さが身を滅ぼす……」

 そのときの聖夜は、レンの言葉が素通りしていた。


 視線がレンの首筋に吸いつけられる。そこに息づくエネルギーは、ヴァンパイアなら本能で感じとることができる。

 獲物が自分から近づいてきた。逃してはならない。

 聖夜は身体を瞬時に変化させ、いきなりレンの首筋に食らいついた。

「うわあっ」


 避ける余裕はない。レンは聖夜に牙を立てられた。

 温かく甘い液体が、口の中に広がる。これこそ自分が求めていたもの。焼けつくような喉の乾きがいやされ、全身にエネルギーが満ちあふれてくる。

 変化したばかりで動きもままならない聖夜だったが、血を新たに飲むことで、不足していたエネルギーが補充できた。全身が温かくなり、力がたまっていくのがわかる。


 牙を立てられた獲物は、捕食者に抵抗できない。逃げようとする意志は、あたえられる快楽によってかき消される。

 全身が痺れるような心地よさは、これまで経験したことのないものだ。手放したくない。これを得るためならなんでもする。

 この快楽を手にできるのであれば、捕食者の要求はすべて受け入れる。それが獲物にしかけられた罠だった。


 だがレンの意志は強く、流されそうになる本能を理性が抑え込む。手元のリモコンで部屋のシャッターを開けた。

 輝く太陽の光が窓から一斉に射し込み、聖夜の全身に降りそそいだ。

 冬の柔らかい陽射しが、ダンピールになったばかりの身体を焼きつくそうとする。外はとうに日が上っていた。夜の世界は終わり、明るい昼の世界が広がっていた。


 真冬だというのに、真夏の照りつける太陽同然に強い陽射しだ。

 聖夜の身体はこわばって動けない。伝説の吸血鬼のように、ここで灰になってしまうのか。

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