第三十一話 時間の流れが止まるとき
左の肩が熱い。痛みが全身の感覚を麻痺させる。肩から腕に、生暖かい液体が流れる。右手につかんだナイフは、刃が赤く染められていた。
「流香、血がほしいのだろう? なら、好きなだけ飲むといい。飢えを満たして正気を取り戻してくれ」
月島は自分の肩にナイフを刺し、引き抜いていた。流れる血を見て、流香の動きが止まる。
「おいで」
月島は右手のナイフを床に落とし、愛しい人に向けて優しく手を差し伸べる。ルビーの瞳をした吸血鬼の少女は、血の匂いに誘われるままにゆっくりと歩み寄った。そして月島の左肩から流れる生命の
子猫はよろよろと立ち上がり、机の上に飛び乗った。壁に打ちつけられたが、打撲だけですんだようだ。安心しながら見守っていると、いかにも不安げな目でこちらを見上げる。心配するなという意味をこめて、月島は優しく笑ってみせた。
肩に口づける少女の髪を軽くなで、そっと抱きしめる。流香の身体は冷たかった。冷え切った身体を温めようと、月島は流香を抱く両腕に力を込める。
流香はむさぼるように飲み続けた。月島の流す血を一滴も逃さまいとするようだ。
傷口を強く吸われ、痛みが走る。流れる血の多さに軽いめまいがしてきた。流香の飢えが満たされるのと、自分の身体がまいるのと、どちらが先だろう。
ちょうどそのときだった。不意に流香の動きが止まった。
「え、あれ?」
月島から身体を離し、流香は顔を上げた。
「もしかして、秀貴さん、なの?」
自分のおかれている状況が解らないのか、とまどいながらあたりを見まわし、最後にもう一度月島を見上げた。
赤く染まった口元に牙はなく、瞳には優しい光が戻っている。
「おれが、わかるのか」
流香はゆっくりとうなずいた。困惑は消え、強い喜びの感情が浮かんだ。
「本当に、あなたなのね」
流香は月島の胸に顔をうずめようとする。だが次の瞬間、その顔は恐怖に支配された。
「そんな、わたしは——」
瞳が大きく見開かれ、口元をふるわせながらじっと月島を見つめる。
「どうしたんだい?」
「あなたの、秀貴さんの血で、わたしは飢えを満たしたの?」
「落ち着いて、流香」
「あなたを傷つけてしまった」
「ちがう。おれが勝手にしたことだ」
「あなたを闇に引き込んでしまう」
「流香」
「あなたを……」
血で染まった月島の肩と床の血だまりが、流香に冷たい現実をつきつけた。
自分の起こした罪とそれが呼びよせる次の悲劇に、流香は力なく泣き崩れる。傷口を押さえて止血しながら、月島は流香のそばにしゃがみ、視線をあわせた。
「心配しなくてもいいよ。流香はおれを傷つけていないから」
「でもわたしは、秀貴さんの血を飲んだの。あなたの命を削って飢えを満たしたのよ」
「だが、牙を立てたわけじゃない。流香はおれを傷つけてないから、きみたちに暗示をかけられる心配もない。なにも恐れなくていいんだよ」
泣きじゃくる流香を包み込むようにふわりと抱き寄せて、月島は額にかかる髪を優しくかき上げた。
「どうしてそんな無茶をしたの?」
「おれは昔の流香に会いたかった。スレーブではない、本当のきみに」
月島は思いを伝えるように、流香を強く抱きしめた。
「秀貴さんの手は温かいのね。わたし、ずっと覚えてた。あなたの温かい手も、肌も、そして優しい笑顔も。そして自分を犠牲にしてわたしを守ってくれる所まで。少しも変わってないのね」
「いや、おれはもうずいぶん変わってしまったよ。きみたちとちがって、ときの流れには逆らえない」
別れたときと同じ姿の流香。だが月島は、あれから十七年のときを重ねている。
「外見なんて関係ない。あなたはいつだって温かく包んでくれる。あのころも、そして今も」
流香は顔を上げて月島の目を覗き込んだ。黒い瞳に映った自分は、もう二十代の青年ではなかった。
流香は目を閉じ、ゆっくりと顔を近づけ、優しく口づけてきた。
冷たい唇だった。冷たい身体だった。月島はそれが悲しかった。温めてやりたかった。人の温もりを思い出させたかった。
思いを込めて口づけを返す。激しいキスで流香の頬が紅潮し始める。やがて唇を離し、月島は流香のうなじをそっとなでた。ほんのりと赤みをさしてきた白い肌も、記憶の中にあるものと同じだ。
あのころのように流香を愛したい。あのころのように愛されたい。二度と戻ることのない、幸せな時間だと思っていた。
だが流香は今、自分の腕の中にいる。月の光が見せる幻ではない。
「愛してる。一日たりとも忘れたことはなかった」
「わたしもよ。あなたのことをいつも考えていた」
流香の言葉が月島の思いに火を灯す。
「愛してる。今でもあなただけを」
十七年の隔たりを埋めたい。長い孤独に疲れた心をいやしたい。背徳と罵られてもいい。今だけは忘れよう。夜がすべての罪を隠してくれる。
子猫が机から飛び降り、椅子の下で身体を丸め、寝息を立て始めた。
* * *
——聖夜があたしを必要なら、ずっとそばにいる。聖夜になにがあってもついていく。世界中が聖夜の敵になったとしても、あたしは信じるからね。
いつか話してくれた葉月の言葉が、聖夜の耳の奥で響き、胸を強く揺さぶった。慈悲深い瞳と優しい囁きはいつしか媚薬に変わり、封印されていた魔性の心を呼び覚ます。
それは聖夜の心を少しずつ支配し、理性という名の人間性をねじ伏せる。そこにいるのはずっと眠ったままのもうひとりの聖夜。人間の姿をした魔性の者。十八年のときをへて、今まさに目覚めようとしていた。
「葉月、愛してる。やっとこのときがきたね。きみはもう、ぼくのものだ」
聖夜の口づけは激しく、葉月の快楽を確実に呼び起こす。ぬれた柔らかい唇を、あごから首筋に、ゆっくりとはわせる。丁寧に、そのくせじらすようにときどき離れながら、腕の中の少女の反応を冷静に見つめる。
「あ……いや。やめないで……お願い、せい、や……」
葉月の言葉とともにもれる吐息は熱く、聖夜の魔性は解き放たれる。
喉が渇く。焼けつくようだ。
欲望を鎮めるため、渇きをいやすため。必要なものはひとつ。
命の源、葉月の全身を流れる赤い血だ。
奇妙な感触が聖夜の全身を走り抜けた。血が熱くたぎり、身体が別のなにかに変化する。瞳は月明かりを受けて輝き、犬歯が伸びて、鋭い牙となる。
いやだ。逃げだしたい。こんなことしたくない。血なんかほしくない。堕ちていくのはいやだ。
わずかに残った理性が最後の砦となり、魔性の目覚めをはばむ。聖夜の変化が止まり、元に戻りかけたとき。
「だめだよ、聖夜」
葉月が目を開けた。聖夜を見て、口元に妖しい笑みを浮かべる。
それはドルーと同じものだった。暗示にかけられた葉月が、聖夜を後戻りさせない。
葉月は自分の唇を噛み切った。にじみ出る血を、紅を引くように指で唇に塗る。そのまま聖夜にキスをしてきた。
愛する人の血の味が口の中に広がった。わずかな量の血が、聖夜の抵抗する気持を萎えさせる。
頭の中でなにかが壊れる音がした。
赤い血が、最後に残った理性を打ち砕いた。封印がとけ、もうひとりの聖夜が目を覚ます。
喉の渇きが抑えられない。砂漠で水を求める旅人のように、聖夜は血を渇望した。
目覚めたばかりの魔性は、渇きと空腹を覚えた。それを満たすものがなんであるかも知っていた。
聖夜は魔性に支配された。避けがたい誘惑に導かれる。もうだれにも抑えられない。魔性を鎮める方法がほかにないことを、聖夜は本能で知っていた。
葉月の身体を流れる血の道が透けて見えた。迷うことはない。魔性にはすべてが解っている。それに身を任せればいい。
聖夜の犬歯が伸びて鋭い牙に変わった。命の源を求め葉月の細い首筋にかぶりつく。
葉月の歓喜の声が、耳元で響いた。
* * *
暖かい陽射しが聖夜をはねつける。柔らかい日の光が遠ざかる。身体を流れる血は、少しずつ温もりを失っていく。
ヴァンパイアの血が聖夜を支配した。愛する者に牙を立てる魔性の者。愛するがゆえに、傷つけずにはいられない。魔物たちの支配する夜の世界が手招きをする。
おまえはこちら側の住人だ。
昼の世界にいてはならない。
住むべき世界は、暗い闇の中。
声に導かれて扉を開ける。足を踏み入れた瞬間から、昼の世界には戻れない。
流れる季節に残される。ときの流れに乗ることのできない、忌むべき存在。それは死者と同じもの。
世界が少しずつ変わる。指の隙間からさらさらとこぼれていく、昨日までの日常。ささやかな幸せ。
そして輝ける未来。
昨日までのぼくの世界。すべてがぼくを残していく。ときの流れがこの身をすり抜ける。そしてぼくは……血を求めて闇の中を彷徨い歩く、夜の住人。
ときがとまる。
永遠に。
永遠に——。
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