第二十八話 忘れられない想い
月島は書斎で椅子に座って、月明かりだけをたよりに親子三人で写した唯一の写真を見つめていた。
流香がいなくなってから、ずっと聖夜とふたりで生きてきた。
頼る両親もなかった月島がなんとかやっていけたのは、友人たちのおかげだ。人の手を借りたくないと、がむしゃらにがんばる自分を助けてくれたのは、学生時代の友人であり、学校の教師仲間だった。
ひとりでは大変だろうと、お見合い話を持ってくる者もいた。だが月島は、どうしても再婚する気になれなかった。
聖夜が覚醒したときは、ふたりで死を選ぶ。
そんな明日をもしれぬ生活を送らねばならない自分が、相手を幸せにできるとは思えなかった。
一方で流香のことも、ずっと忘れられないでいる。思いに区切りをつけるために、墓を建てた。それでも気持ちは残る。今でも変わらない。だからドルーのもとで吸血鬼になっている流香を見て、冷静でいられるはずはなかった。
そのとき、考えを遮るように、子猫が月島の足にぶつかった。
「どうしたんだ?」
声をかけると、にゃあと鳴いて答える。月島の緊張がほぐれた。
聖夜が拾った子猫は、夕食を終えたのち、書斎に入る月島のあとを追ってきた。猫用のおもちゃなどなかったので、手元のゴルフボールを渡してやると、じゃれついて遊びまわっている。
初めのうちは部屋を荒らされはしないかと気が気でなかったが、その心配はいつのまにか消えていた。
子猫のようすを見ていると、聖夜が幼かったころが思い出される。保育所からつれて帰り、食事や入浴をすませたあと、月島は仕事をするために書斎に入る。それが日課だった。
そんなとき聖夜は眠い目をこすりながら必ずついてきて、ひとりでおもちゃを出して遊んでいた。いつだったかクレヨンで床や壁に大量の落書きをされて、困り果てたことがあった。
以来しばらくのあいだ、お絵描きするときは要注意だった。今の気持ちは、そのときのはらはらしたものと同じだ。
相手をしてやれなくても、見える範囲にいるだけで安心できるのだろう。
男親だけで育てたにもかかわらず、聖夜は気持ちのまっすぐな、思いやりのある繊細な人間に育った。身体の半分を流れる吸血鬼の血は、影すら見せない。残虐どころか、人の痛みが解る優しい人物だ。
そして今、思いやりゆえに、聖夜はドルーと流香のもとに赴いた。血のつながりがあるという理由だけで、彼らのもとに出向いた。
会いに行くことで聖夜に危険がおよぶかもしれない。そう思った月島は何度も止めたが、気持ちを変えることはできなかった。
「わざわざぼくを迎えにきたんだ。一緒に行けないからこそ、きちんと別れはしておきたいよ」
こちらが気おくれするほどに、決意のあふれた笑顔を見せる。
無事に帰ってほしい。そう願わずにはいられない。だが、もう帰ってこないかもしれない。心の中でそんな予感がする。
あの夜ドルーが流香をつれていったように、今度は聖夜をつれ去るかもしれない。
そしてまた自分はひとりになる。
両親は交通事故にまきこまれ、この世を去った。愛した女性は、昔の恋人のもとに帰った。聖夜もまた、実の両親が住む夜の世界に去っていくのだろうか。
たったひとりで残される昼の世界に、どれだけの価値があるのだろう。残りの人生を孤独の中で生きることの意味は、どこにあるのだろう。
夜の世界に生きる……。
月島の中でふと、憧れにも似た感情が芽生えた。
「ばかな。なにを考えているんだ、おれは」
夜の世界に生きるスレーブに自由などない。ブラッディ・マスターの支配下におかれ、生きることも死ぬことも自分の意志で選べない。
血に飢えた悪魔が自由になれるのは、飢えが満たされるわずかな時間のみだ。自分が人間の生き血をすする悪魔だと知って、嘆き、悲しむ。その瞬間だけマスターから解き放たれる。それがドルーのあたえる自由だった。
どこまでも残虐な心を持つ吸血鬼。聖夜はその血を引いている。信じられない、いや信じたくない。
だが今の聖夜には残虐性はかけらも存在しない。覚醒し、ブラッディ・マスターになることで、悪魔が心に誕生するのだろうか。
——無事に帰るつもりでいるよ。でも、万が一ぼくが吸血鬼になって自我をなくしたときは……そのときは、ぼくを殺して。
家を出るとき聖夜はそう言い残した。そこまで覚悟を決め、両親に別れを告げにいった。
「そのときは聖夜。この手でおまえの命を断とう。おまえの魂を救うために」
突然子猫が身構え、窓に向かってうなり声をあげた。
「だめよ。聖夜を殺させはしない」
窓の外から声が響いた。
「まさか……」
遠い昔、いつも耳にしていた懐かしい声だ。
「流香なのか?」
月島はゆっくりとふりかえった。二階の部屋の窓の向こう、人がいられるはずのない場所にいたのは、流香だ。古びた写真と同じ姿で、月明かりをあびていた。
* * *
手の中のグラスが砕けた。ワインレッドの液体が腕を伝い、肘で滴となって床にしたたり落ちる。手のひらはガラスの破片をにぎりしめたままだ。指の隙間から血がにじみ出る。
「本気でそのようなことを考えているのか?」
銀髪を揺らしてドルーがふりかえった。予想もしなかった聖夜からの答えに、表情が厳しくなる。
「あなたたちにはすまないと思っています。でもこれがぼくの出した結論です」
「限りある命を持つ者ならだれしも望むものを、おまえは拒否するというのか」
「はい」
「やがては年老い、朽ち果てていく道を選ぶのか」
ドルーは手を開き、血まみれの破片をテーブルに落とした。
「おのれの身体を流れる血を拒否するのか」
淡い月の光が窓から射し込み、テーブルに転がる破片で反射して、聖夜の頬に淡い光を投げかけた。
——夜の住人にはならない。
聖夜の決意は変わらなかった。
人間として可能性のある未来こそ、聖夜の望むものだ。闇にまぎれて生き存えることに価値は見いだせない。
尊敬する父と同じ、教師という生き方を選んだ。それを実現するために、永遠の命など必要ない。考えるまでもなく、結論は初めから出ていた。
聖夜は自分の考えと決意を伝え、実の両親に別れを告げるために、夜を待ってドルーのもとを訪れた。そして正直な心のうちを話した。
「拒否するなら、なぜここを訪れた? どうして静かに十八歳を迎えようとしない」
「それは……」
聖夜は言葉を止め、ドルーの傷ついた手のひらを見た。
「あなたがぼくの……父だからです」
銀髪の吸血鬼が流す血。それと同じものが、自分の身体の半分を流れている。
「あなたがいるから、今のぼくがいるんです」
可能性のある未来に向かって歩けるのも、ドルーと流香によって命があたえられたからだ。そのことを聖夜は素直に感謝していた。
「興味深い考え方だ」
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