第二十九話 魔性の血
ドルーが唇の端をゆがめ、にやりと笑った。聖夜の胸にとまどいと違和感が芽生える。
「血のつながりだけで、わたしに会いにきたとは。そんなくだらない理由で、最後の別れにきたのか」
ドルーは聖夜に歩み寄った。一歩、また一歩近づく。口元に浮かぶ冷たい笑みにおされるように、聖夜は無意識のうちにあとずさった。
「昼の世界のどこに魅力がある? 自分と異なる能力を持つというだけで、勝手に期待し、ことが終われば一方的に裏切るような者たちが集う世界だ。
欲望と嫉妬に支配され、他人を蹴落とし見下すことに喜びを感じるような下賤の輩に、おまえの未来や可能性は虫けらのごとく潰されてしまう。
そのような世界で将来に希望を持てると思っているのか? おまえのいう価値が、どこにあるというのだ」
ドルーの歩みにあわせるように、聖夜はうしろにさがる。
「こちらにはそのような輩はおらぬ。ヴァンパイアの頂点に立つものとして、聖夜、おまえを歓迎する。夜の世界の覇者として、永遠のときの流れをともに生きようではないか」
背中に壁がふれた。これ以上の逃げ場がない。慌ててうしろをふりかえった拍子に、なにかが頬を掠め、痛みが走った。壁にかけてあった剣だ。
「気をつけろ。それは真剣だ。気安くふれると怪我をする」
それはとりたてて装飾を施されているわけでもなく、シンプルなデザインだった。飾るには質素だが、よく手入れされているようで、一点のくもりもない。聖夜には解らないが、名刀なのだろうか。
「忌わしい剣だ、あれは。多くの同胞の命をうばい、わたしまでも傷つけた」
「そのようなものを、どうして手元においておくのです」
「いや、忌わしいのは剣ではなく、これを使っていた者だったな。彼は多くのヴァンパイアを殺した」
「信じられない。そんなに簡単に吸血鬼を倒せる人間がいるなんて」
「あの者は特別だ。彼だからそこできるヴァンパイア殺しだ。人間の側に立ち、やつらの狗となって、我らの仲間を赤子の手をひねるように殺していった。そしてわたしの前に、この剣を従えてあらわれた」
すぎさった遠い日々を懐かしむように、ドルーは目を閉じた。
「ヴァンパイア・ハンターを名乗るだけあって、手強い相手だった。だが彼には、ひとつだけ弱点があった」
「ヴァンパイア・ハンターってなんですか? その人の弱点って」
聖夜の質問を無視して、ドルーは目を開いた。
「あの者のことなど、今さらどうでもよい。わたしにはおまえがいるのだから」
血に染まったドルーの手が頬にふれ、聖夜の思考がとまった。傷口から流れる血が、聖夜の顔を赤く染める。生暖かく粘性のある感触が、聖夜の中で眠る未知の感覚を呼び起こそうとする。
「無理して抑えることはない。おまえ自身のもつ本能だ。心の赴くままに身を任せればいい」
耳元で囁くドルーの声が優しい調べとなり、心の底にある、固く閉じた箱を開けようとする。頬にふれる血が惹きつける。身体中の血が熱くなりそうだ。欲望が目覚め、血の渇きを覚えはじめる。
――いやだ、人間のままでいたい。血に飢えた悪魔にはなりたくない。
聖夜は唇を噛み、封印を解こうとする誘惑と戦う。
「なにを躊躇っている。身体は正直だぞ」
魔性の本能は姿を消すどころか、ますます大きくなる。
ここで許してしまえば求める未来は手の届かないところに行ってしまう。永遠の命などいらない。ぜったいにほしくない。
不意に聖夜は、いつかの夢を思いだした。目の前の女性を傷つけまいと必死で本能と戦った夢を。泥沼でもがく聖夜を引き上げてくれたのは、父の力強い腕だった。
「父さん……」
そばにいなくても、父の優しさはいつでも感じられる。
理性が少しずつ戻る。血の匂いにもゆるがない強い精神が、目を覚ました。
大丈夫だ。まだ踏みとどまれる。
ドルーは聖夜の心に芽生えた小さな変化を読みとった。
「そうか。やはり月島がキーパーソンか」
ドルーは頬から手を離した。
「昼の世界に引き止めるのは、おまえを育てた月島なのだな」
聖夜は否定も肯定もしなかった。
「それなら案ずることはない。月島も今ごろは流香の手で、こちら側にきているだろう」
「父さんが? 父さんになにをした」
父の身に迫る危機が聖夜の感情に火をつける。母を使うという卑怯なやり方が許せない。強くにぎった拳の中で、手のひらに爪が突き刺さった。
「父さんは関係ない。だれに言われたわけでもなく、ぼくがひとりで考えて決めたことなんだ」
「だがこのあと月島がいなくなったら、おまえはどうやって生きていくつもりだ? 強がるのもいいが、現実を直視することも覚えておくのだな」
「それでもぼくは……」
噛みしめた唇が切れ、血がにじんだ。
「それでもぼくは、人間でいたい」
ドルーは動きを止め、睨むように聖夜をじっと見る。
「あなたたちと同じ世界には、いきたくない」
聖夜は顔をそむけ、ドルーの視線から逃げた。
「まわりの人間が、こちら側の住人になった。それでも拒否するというのか」
だれも自分から吸血鬼になることを望んだわけではない。ドルーが勝手にしたことだ。
聖夜を引きこむための駒として、大切な人たちの未来を奪った。吸血鬼となった人たち、犠牲になった人たちを思うと、胸が痛み、申し訳なさでいっぱいになる。
「どうして。どうしてそこまでしてぼくを仲間に入れたがるのです?」
聖夜はドルーの目を覗き込んだ。エメラルドの瞳が視線を受け止める。吸血鬼の瞳。その光に射抜かれたとき、聖夜の意識に霞がかかる。
「どこまでもわたしを拒否するのか。そのようなところまで、あの者と同じだとはな……」
「あの者……?」
思考がまとまらない。すべてが霞む。見えるのはドルーの輝く瞳のみ、耳に届くのは妖しい囁きばかり。
「あの者って、だれのことですか? ヴァンパイア・ハンター……?」
問いかけにドルーはなにかをつぶやいた。聖夜の意識はすでに朦朧としていて、言葉を理解できない。
吸血鬼の瞳に射抜かれた聖夜は、少しずつ思考ができなくなった。人間の聖夜が、ブラッディ・マスターと対等でいられるはずなどない。勝敗ははじめから解っていた。
「所詮はこの程度か。覚醒前とはいえ、もう少し手強いかと思ったが」
ドルーは聖夜を思いどおりにできる喜びと、あまりにも簡単に意のままになったことの失望を感じた。意志の強さで、もっと抗うところを見てみたかったのかもしれない。
「あとのことは、わかっているな」
部屋のすみで影のようにひかえていたレンに、ドルーが呼びかけた。
「手筈は整っております」
足取りもおぼつかない聖夜をささえながら、レンは部屋を出ていった。
テーブルにおかれたハンカチで、手についた血を拭う。ガラスの破片で傷だらけになっていた手のひらは、すでに完治していた。
赤いワインの入ったグラスを手にして、ドルーはソファーに身を沈めた。一口飲むごとに、アルコールで身体が温められる。血を飲んだときに生じる温もりにはおよばないが、それでもないよりはいい。限りなく死者に近い身体でも、それが恋しくなるときがある。
「新たなるブラッディ・マスターの目覚めに」
長い時間の孤独がこれで終わる。大切な同胞と袂をわかってからいったいどれくらいの年月が流れたのだろう。極端に数の少ない同胞が、やっと誕生する。
グラスを軽く掲げたのち、ドルーは一気に飲み干した。
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