第二十七話 流香との別離
「待って。あなたのかなう相手じゃないのよ」
「お待ちなさい、流香さん」
追いかけて外に出ようとする流香を、神父が止める。
「ほら、お母さんだよ」
この状況で楽しそうに笑う聖夜を、流香に渡した。
「ふたりとも出ていったら、この子はどうなります? こんな小さい子をだれが守るのです」
母親の腕に抱かれると、聖夜は小さな手を伸ばし、流香の頬にふれた。
「聖夜……」
流香は柔らかな頬にそっと頬ずりした。涙の粒が聖夜の顔をぬらす。
「つらいでしょうが、月島さんにすべてを任せるのです。彼もそれを望んでいますよ」
優しさの中にも力強いものを感じさせる神父の声が、流香の気持ちをしばし落ち着かせる。
雷鳴が夜の静寂をつらぬき、梅雨明け前の豪雨が教会の屋根をたたきつけるように降る。
荒れ狂う雨の中、流香がドルーと呼んだ青年が立っていた。
「おまえは昨夜の?」
「そうだ。流香はこない」
「あのふたりが出てきさえすれば、おまえを傷つけるつもりはなかったのだが。なぜそうまでして死に急ぐ?」
ドルーはあざけるように大声で笑った。
闇の帝王のそれは地獄から響く引導にも似て、月島の決意を萎えさせ、恐怖心を呼び起こす。今すぐ逃げ出したい。そんな衝動に駆られる。
だがそれはできない。月島にとって、ふたりはかけがえのない存在であり、なにがあっても守りぬくと誓った命だ。
「ここは聖地だ。おまえが本当に吸血鬼なら、ここから先に立ち入る資格はないはずだ」
雷鳴の轟く中、月島は力強く叫び、ドルーに向かって十字架をかざした。
「本当に、か。存在を疑っているものに対し、己の信仰心が役に立つと思うか」
信じる気持がなければ、十字架も聖水も効き目がないというのか。
ちがう。流香と聖夜を守りたいという気持ちに揺らぎはない。相手が吸血鬼だろうとそうでなかろうと、それだけはたしかな事実だ。
「ふたりには指一本ふれさせない。吸血鬼なら闇の世界に立ち去れっ」
ドルーの瞳がエメラルドに輝き、月島を射抜く。だが昨夜とはちがい、今度は身体が硬直しなかった。十字架のおかげだろうか。ならば目の前の青年は、流香たちの言うように本当に吸血鬼なのか。
月島は意を決した。顔めがけて小瓶を投げつけた。
「なに?」
避けようとしたドルーの腕に当たり、砕ける。皮膚を焼く音と臭いがした。
人間にはなんの害もない聖水が、ドルーの身体を傷つける。流香の話は嘘ではなかった。
吸血鬼は皮膚を焼かれても、苦痛の声すら上げない。
「こざかしい」
ドルーが月島の腕を爪で切り裂いた。衝撃で十字架を落とす。よけるまもなくドルーに片手であごをつかまれ、月島の身体が持ち上げられた。
「ふふ。命の源が流れているな。おまえの血で傷をいやさせてもらおう」
ドルーは空いた手で、月島の肩をえぐった。
「ぐわあっ」
鋭い痛みに声が上がった。
流れる血と雨で身体が真っ赤に染められる。ドルーはそれを手にうけ、焼けただれた皮膚にあてがった。傷は見る見るうちに完治した。
月島は呼吸すらままならない。肺は新鮮な空気を求めて悲鳴を上げる。雨で体温がうばわれ、流れる血が徐々に体力を削る。
うすれかけた意識の中で月島は、自分の首筋に近づく、すえた吐息に気がついた。
ドルーの瞳が輝き、犬歯が鋭く伸びた。降りしきる雨が牙を伝う。それは紛れもない、吸血鬼の姿だ。
このまま血を吸われて死ぬのか。それとも伝説の通り、吸血鬼になるのか。
どちらにしても、大切なふたりを守り通すことができなかった。自分の力のなさが悲しく、情けなかった。
そのとき。月島はいきなり地面に落とされた。呼吸ができるようになり、身体が少し楽になる。仰向けのまま激しい雨にうたれながら、咳き込んだ。
「おまえひとりか?」
頭上でドルーの声が響いた。
「秀貴さんも聖夜も殺さないで。代わりにわたしの命をあげる」
流香だった。出てくるなと言い残してきたのに。肝心なところでたのみをきいてくれないのか。
「おまえの命だと?」
「流香、きみは引っ込んでろっ」
月島は力一杯叫んだつもりだった。だが傷ついた身体から出される声は小さく、豪雨と雷鳴にかき消される。
「それもまた一興かもしれぬな」
ドルーはそうつぶやくと、流香に向かって両腕を広げた。
「ならば、この腕の中にくるがいい」
雷鳴が響く。光が反射して、ドルーの瞳を夜行獣のように輝かせた。
「流香、やめろ。行くな……行くんじゃない……」
「秀貴さん、本当にいろいろとありがとう。やっとあなたに借りを返せる。お願いだから、なにも言わないで見送って」
「借りだなんて……おれは、そんなつもりで……きみと一緒になったんじゃない……」
傷ついた肩からの出血はひどく、意識はだんだんと遠ざかる。たたきつけるように降る雨が目の中に落ち、視界がぼやける。
まばたきを何度も繰り返し、目から雨を追い出す。
「子供の命はひとまずあずけよう。あの者が覚醒する日までな。そのときが再会するときだ」
ぼやけた視界の中で月島が最後に見たのは、闇にとけるように姿を消すドルーと流香だった。
これが現実のはずがない。すべては夢だ。目が覚めたらそこに、聖夜を抱いた流香が笑みを浮かべて立っているにちがいない。
吸血鬼など、現実にいるはずがない——。
雨にまぎれて、なにかが手の中に落ちた。ゆっくりと顔に近づけてそれを確認する。
「これはあのときの」
月島が流香にプレゼントした十字架のネックレスだった。
——秀貴さんにもらったお守りもあったのよ。いつもそばにいるって思えるの。これのおかげで。
流香の声が聞こえたような気がした。
「流香……」
流れる血が水たまりを真っ赤に染める。
手の中の十字架をにぎりしめ、地面に仰むけになったまま、月島は激しい雨に打たれ続けていた。
* * *
「家に戻ると、書斎に流香の書き置きがあった」
月島は静かな面持ちで、聖夜に古びた一通の手紙を渡した。封筒から出し、
薄い水色の紙に青いインクで文字が書かれていた。女性らしい流れるような筆跡だ。ところどころ滲んだ痕が残っている。
聖夜は手紙に目を通した。そこには月島に対する感謝の気持ちが綴られている。
そしてもうひとつ。聖夜に関する重要なことが書かれていた。
『もしも聖夜の中の吸血鬼が目を覚ましたときは、迷わずに命を断ってください。わたしはあの子を、血に飢えた悪魔にしたくないのです。そんな姿のまま、生きることも死ぬこともできないなんて、あまりに哀しすぎます。
でもその日は訪れない。わたしはそう信じています。
呪縛が解けるのは十八歳の誕生日。その日をともに迎えられないのが心残りでなりません。秀貴さん、聖夜のことはくれぐれもよろしくお願いします』
読み終えた聖夜は、母の悲しいまでの願いと、それを受け止めることしかできなかった父の苦悩を知った。
「覚醒を恐れていたわたしは、ドルーの起こした事件の犯人をおまえだと思いこんだ。それを確認しようとあとをつけた夜、おまえはもう少しで吸血鬼に変貌するところだった。
だからわたしは決心した。おまえを殺して……自分も死のうと」
だが現実はちがった。吸血鬼になった流香は聖夜の覚醒を待ち、ともに生きることを望んでいる。
夜の世界にはいって初めて、そのすばらしさを知り、子供を迎えにきたのか。親子三人で幸せに暮らしたいと。
「あのとき、わたしが身を引いて、おまえたちを見送ればよかったのかもしれない……」
月島はそれきり黙り込んでしまった。聖夜はなんといって声をかければいいのか解らなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、月島がぽつりと問いかける。
「両親のところに行くか?」
「……両親だって?」
月島は聖夜の横で眠る子猫を見ながら、答えを待っている。
聖夜は窓の外に目をやった。あれからずっと雪が降り続いている。
父の言う通り母とともに夜の世界に行き、そこの住人となっていたなら、今ごろどのような生活をしていただろう。
日の当たる場所を避け、ひっそりと闇に生きているのか。あるいは夜の世界で君臨していただろうか。どちらもまったく想像できない世界だ。
ただはっきりと解ることがひとつある。今の自分はいない。
昼の世界と引き換えに手にするものは、永遠の若さと命だ。それが本当に望むことか。
やりたいこと、なりたいもの、かなえたい夢。
それを考えれば悩む必要などどこにもない。結論はおのずとでている。
「ぼくは行かないよ」
聖夜は迷いのないまっすぐな瞳で、父を見つめた。
「後悔しないか? あのふたりはおまえの実の両親なんだぞ。今行かなければ、ブラッディ・マスターにはなれない」
聖夜は小さくかぶりをふった。
「そうじゃなくて……あの世界じゃ、だめなんだ」
「だめ?」
父の問いかけに、聖夜は軽くうなずく。
「ぼくは未来の可能性にかけて、日々、成長したい」
流香の時間は十八歳で止まっていた。ときの流れに乗ることのできない存在。それは死者にほかならない。
両親の元に行くことは、永遠の命や若さを手にすることではない。生きながらにして死者になることだ。
「ぼくは、大人になりたい。いつまでも子供のままではいたくない」
やりたいことやかなえたい夢はまだみつかっていない。でもそれを探して、かなえるために努力を重ねる。輝かしい未来のために。
だが吸血鬼に未来はない。永遠の命とひきかえに、可能性のある未来を捨てることなどできない。
「少しずつ変わっていく自分、成長していく自分を見ていたいんだ。だから行かない。自分の意志で、人間として一生を終える人生を選ぶよ」
心の奥深い場所に強く輝く光が灯される。堅い決意が生まれた。自分の意志で選び、自分の足で歩むことの大切さを、聖夜はこのとき強烈に感じていた。
呪縛の解ける日は、あと二日に迫っていた。
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