第二十六話 さよならのイヴニング(三)
流香の唇が震え、瞳から大粒の涙が流れ落ちた。月島の腕の中で不思議そうに母を見ていた聖夜が、なにかを感じとったように、急にわっと泣き出す。
「とうとうきたのね。ドルーが」
「ドルーって、もしかしてゆうべの?」
ならばさっさと警察につき出してやればいい。
それで解決する話だ。流香がおびえる必要も、罪の意識を感じる必要もない。
月島は携帯電話を取り出して一一〇番通報しようとした。ところが、
「おやめなさい」
止めたのは、意外にも神父だった。
「なぜですか?」
「司法の手がおよぶような相手ではないのです」
ではどうしろというのか。月島は流香たちの真相がますます解らなくなった。
「流香さん。もう時間がありませんよ」
神父に促されて、流香はうなずく。そして椅子に座り、月島にも勧めた。
ふたりが通路をはさんで向かいあって座る横で、神父が優しいまなざしで流香を見守っている。
「秀貴さん、これから話すことは信じられないかもしれないけど、本当のことなの」
「信じられない話?」
なにをもったいぶっているのか、さっぱり見当がつかない。
「昨日来たドルーは、人間ではないの」
「……人間では、ない?」
月島はとっさに理解できず、流香の言葉を繰り返す。夫の反応を見て、流香はまた口ごもった。だがためらったあとで意を決し、やっと口を開いた。
「彼はヴァンパイアなの」
「え? な、なんて……?」
月島は我が耳を疑った。真面目な顔でなにを言い出すかと思ったら、フィクションの話を始めるとは。この期におよんで悪ふざけにもほどがある。
「流香、自分の言ってることがわかってるのか? 映画やマンガを持ち出してどういうつもりだ。教会にきたのも、そのことと関係があるのか」
科学技術が発達し、物質の本質や宇宙の始まりが解明されようとするこの時代に、だれが伝説のモンスターを信じるというのか。
それらは自然への畏怖が生み出した想像上の存在にすぎない。それくらい少し考えれば解ることだ。
「神父さま、これが普通の人の反応なんです。でも秀貴さんを責めることなんてできません。わたしだってつい最近まで同じ考えでしたもの」
困り果てた流香の言葉を神父が受けついだ。
「月島さん。彼らは、実在するはずがないという人々の思い込みの中で、巧みに姿を隠して生き続け、人間社会にまぎれ込んでいるのです。伝説が受け入れられていた時代のほうが、彼らには生きづらかった。
ところが今は信じるものなどほとんどいません。それが吸血鬼を、そして伝説の魔物たちを闇の中から人間の世界に解放したのです」
「待ってください、神父さままで流香の夢物語につきあうのですか」
吸血鬼、蘇る死者とはすなわち早すぎる埋葬であり、血を吸う行為は
それを現実のものとしてとらえる行為は、科学に携わる人間のすることではない。
月島は高校で物理を教える教師だ。子供たちに科学的な視野と論理的な考え方を身につけるように指導する立場にいる。
「とてもじゃないが、信じられない」
月島は背中を丸めたまま、ため息をつくようにつぶやいた。
「雷も放電現象だと解明されるまでは、人々は神の怒りだと信じていました。だが解明前も後も、存在することに変わりはありません。科学的な説明がついただけです」
「でも吸血鬼は存在しません」
「存在しないことを証明するのは困難ですよ。とくに彼らは人間と見た目が変わりません。優しい隣人や親しい友人が吸血鬼でないと言い切ることは、だれにもできないでしょう」
「それは
「物語がすべて真実というわけでもないでしょう。それに吸血鬼にだって、科学的な解釈ができる日がくるかもしれませんよ。雷と同じように」
早すぎる埋葬とヘマトフィールがその解釈の結果ではないか。それとも他にまだ説明し切れないものがあるのか。
月島は流香を見た。夫の態度を見て、これ以上なにを言っても無駄だとあきらめているようだ。
「わかりました。そういう考え方もあるわけですね……」
神父の説明を鵜呑みにしたわけではない。さりとてすべてをかたくなに否定しない。場に応じて思考を巡らせる。
月島はビリーバーではないが、がちがちの否定派でもなかった。すべてはあのドルーという青年に会えばはっきりする。
考えてみれば、彼はなんの道具も使わないでシャッターやガラスを破壊した。少なくとも、人並みはずれた力を持つことは疑いようがない。
では流香や神父の話すように、吸血鬼は存在するのか。そして彼こそがそうだというのか。いや、とりあえず結論は保留しておこう。
「解ったよ、流香。きみたちの言うことを信じよう。でもどうして吸血鬼が流香を追ってくるんだ?」
「それは……」
流香が口ごもる。
「どんな真実があっても、受け入れる覚悟はできたよ」
月島は流香の前に立ち、震える肩をそっと包み込むように抱いた。
小さな身体と細い身体を両腕に感じ、ふたりを守らなければならないと改めて決意する。
「聖夜が……」
「聖夜がどうしたって?」
「あの子は——ヴァンパイアの血を引いているの。聖夜の父親は……」
それ以上言葉を続けられず、流香は月島の胸でわっと泣き崩れた。
「ヴァンパイアを愛したのも、聖夜を産んだのも、すべてわたしひとりが選んだ道。秀貴さんをこれ以上危険にまきこめない」
「聖夜の父親が、ヴァンパイア?」
とても信じられない。吸血鬼の存在もそうだが、それが聖夜の父だと言う流香の話は、どこまでが真実でどこからが妄想なのか。
夢の中の出来事、激しい思い込み。それともどちらでもない、疑いようのない事実なのか。
月島は腕の中の聖夜を見た。
母親を心配して泣きじゃくっている無邪気な子に、魔性の血が流れているのか。流香の持つ柔らかい髪と、優しい光の瞳を受け継いだ愛し子。
それが吸血鬼だと説明されても、とても信じられない。
「いつまでも隠し続けるつもりはなかった。でもこんな話、信じてもらえるとは思えなかったから、どうしても言えなかったの」
「わかったよ、流香。ずっとつらい思いをさせたね」
流香は顔を上げて月島を見つめた。
「言っただろ。どんな真実があっても受けいれる覚悟はできたって」
泣きじゃくる流香の額に、月島が口づける。
「一時的だったけど、わたしは彼を本気で愛してた。聖夜を産んだあとで彼の仲間になるつもりだったの。でも彼はそれを拒否して、帰国させた。わたしを夜の世界に引き込みたくない、そう言って」
一緒にいることが流香を不幸する。ならばいっそ別れたほうがいい。それが聖夜の父である吸血鬼の愛情だった。
そこにある愛の深さに、月島の胸がしめつけられる。
自分にそのような愛し方ができるだろうか。彼より強い思いで流香を愛せるだろうか——。
「彼らの血を引いてるといっても、聖夜は必ずしもヴァンパイアになるわけではないの。十八歳の誕生日までに覚醒しなかったら、あの子は普通の人間として一生を終える。わたしはその可能性にかけたの」
ならばなぜ今ごろになって、吸血鬼は流香の前に現れ、聖夜の命をねらうのだろう。
わいてくる疑問を流香にぶつけようとしたとき、聖夜の泣き声がぴたりと止まった。
なにかを感じ取って、無邪気に笑う。同胞が近くにいることを知り、喜んでいるようにも見えた。
「ドルーがすぐそこまできたのね。これでお別れね。短いあいだだったけど、秀貴さんと一緒にいられてわたしは幸せだった。ありがとう」
流香は聖夜を強く抱きしめたあとで、名残惜しそうに月島に手渡した。
「聖夜のこと、お願いします。さようなら」
豪雨の中、教会を出ていこうとする流香の腕を、月島の逞しい手がとらえた。
「だめだ。おれが行く。流香はここに残ってろっ」
月島は聖夜を神父にあずけ、祭壇においてあった十字架と聖水を手に取った。フィクションの中で吸血鬼が恐れるアイテムだ。こんなものが役に立つのだろうか。
だが疑っている余裕はない。月島は大きく息を吸い、意を決して礼拝堂の扉を開けた。
強い風と雨が中まで吹き込んでくる。それをものともせず、月島は足を踏み出す。
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