第二十話 呪いからの解放

 まどわされてはならない。美奈子はもう人間ではない。月島はそう自分に言い聞かせた。だが理性とは裏腹に感情は揺れ動く。目の前の少女は自分の教え子であり聖夜の大切な友だちだ。

 月島は一瞬怯んでしまい、十字架をかざす手に力を入れることができなくなった。

 美奈子はその瞬間を見逃さなかった。


「孝則、助けて!」

 目覚めた孝則は、背後から月島に襲いかかり、手にした十字架を奪い取る。そのまま腕をひねり上げ、動きを封じ込める。

 ほんの数秒で、形勢が逆転した。


 美奈子は勝ち誇ったようにふっと息を吐く。そして月島のポケットに手をいれ、中にあったサバイバルナイフを取り出した。

 光を冷たく反射する刃先に、美奈子は指を軽くすべらせる。傷口から血がにじみでて大きな玉となり、やがて指から肘まで伝った。


「切れ味のいい刃ね。これでどこを切ろうかな」

 美奈子の瞳が怪しい光をたたえた。

「頬? 首筋?」

 そう言って、月島の顔にナイフの刃を当てる。

「それとも……」


 白い歯を見せて、美奈子が笑った。口元から鋭い牙が姿を見せ、舌が真っ赤な唇をゆっくりと舐める。

 そして思いついたように突然ナイフをふりかざした。

「心臓をひとつきに!」


 左胸めがけて、勢いよくナイフを下ろす。

 月島は思わず目を閉じた。

 迫りくる死の瞬間に、身を堅くする。

 が、ナイフは立てられない。月島は恐る恐る目を開けた。

「先生、安心してください。すぐに殺したりしませんから。先生には、もっともっと苦しんでもらいます。だってあたしと孝則を別れさせようとしたんですよ。それくらいされて当然でしょ」


 他愛のない会話を交わすような口調で言うと、美奈子は無邪気に笑う。そして子供がおもちゃを扱うように、ナイフを月島の頬に当てた。

 ひやりとした感覚が走ったかと思うと、次の瞬間皮膚を引き裂かれた。

「うっ」

 かすり傷程度の切り方ではあったが、それでも痛みは走る。美奈子は月島のうめき声を聞き、くすくすと笑う。


「この程度でも痛みを感じるんですね。じゃあ次はどこにしようかな」

 鼻歌を歌いながら少し考えたあとで、美奈子は思いついたように、ナイフを首筋に当てた。

「ここ、頸動脈っていうんでしょ。先生、切ったらどうなると思います? 動脈だもん、勢いよく血がでますよ。心臓が脈打つごとに血が噴きだし、少しずつ、少しずつ、死に近づく。皮肉ですね。命をささえるはずの心臓の動きが、自らの身体を流れる血を溢れさせて、死に導くなんて」


 美奈子の顔から無邪気な笑みが消えた。

「そして最期のときを迎えるころ、先生は後悔するの。あたしたちの仲間になればよかったって。そして永遠の命をもつあたしたちをうらやましいって思うんです」

 悪魔が乗り移ったような冷淡な笑みを、美奈子は浮かべる。人間だったころの明るい表情はそこになく、見る者に死を連想させるような、冷たい笑みだ。

 原始的な恐怖が月島の中で生まれる。


 これが吸血鬼。人間の恐怖心を簡単に呼び起こすことのできる邪悪な存在だった。

 月島は、自分の無力さをいやというほど感じていた。すでに戦う気力は残っていない。吸血鬼の毒牙にかかり、生と死の狭間を漂うのか。いや、美奈子は永遠の命など与えるつもりはなさそうだ。


 つまり自分の命もここまでということか。


 なかば死を覚悟した月島は、迫りくる運命を静かに受け入れようと、そっと目を閉じた。

 こんなに簡単に勝負がつくとは思わなかった。やはり普通の人間にはかなわない相手だったのか。

 十七年前のあの日、流香を救えなかった。そして今は、孝則を、聖夜を守れない。吸血鬼と戦い勝利するには、人間はなんと無力な存在なのだろう。


 閉じた瞳の奥で、幼い聖夜を腕に抱いた流香の姿が浮かんだ。昨夜見た吸血鬼ではなく、あどけなさを残したままの笑顔に出会えたとき、月島は心の平穏が訪れたことを感じた。

 死を素直に受け入れようとしたそのとき。


「父さんを傷つけるのはやめろっ」


 聖夜の声が部屋の中で響き、月島は目を開けた。美奈子が驚きの表情を浮かべてふりむく。その顔をめがけて聖夜は十字架を投げつけた。

「ぎゃあっ」

 美奈子の悲鳴とともに孝則の呪縛が解け、月島は抑えつけられた身体が解放された。

 聖夜は窓を背に立ち、美奈子にナイフ切っ先を向ける。


「どうしてここが解ったの? あたしは月島くんをまいたつもりだったのに」

「解らない。でもぼくには、美奈ちゃんの進んだ道が見えた。それをたどったら、ここに着いたんだ」

 左手で顔を抑えながら、美奈子は納得したようにつぶやいた。

「そうか。やっぱり月島くんは普通の人間じゃない。初めて血の匂いを嗅いだときから、どこかちがうとは思ってたけど。まさかブラッディ・マスターだったなんてね」


「ブラッディ・マスター?」

 聖夜はその言葉を口にした。


 前方に聖夜、後方には月島が立ち、美奈子の行く手をはばむ。

「ブラッディ・マスターが相手じゃ、勝てないか」

 美奈子の瞳にあきらめの色が浮かんだ。

 がそれは唐突に消え、口元がゆがみ、妖しげな笑みが浮かぶ。


「やはりまちがいない。おまえは我らの血を引くものだ」


 美奈子の口から出たのは彼女の声ではない。そこにかぶさった男の声を聞き、月島が口を開いた。

「ドルー。やはり彼女の目を通してすべて見ていたのか」

「聖夜はすでに覚醒のときを迎えているようだな。月島、おまえがいくらあがいたところで、所詮運命には逆らえないものだ」

「運命など関係ない。聖夜の未来を決めるのは、聖夜自身だ」


「現実から目をそらしたところで同じだ。もはやこの女に用はない。目的は果たした。聖夜、おまえの愛する女性は、我らの元にある。取り戻したくば、おまえ自身がやってくるのだな」

「まさか、葉月を」

 美奈子は聖夜と葉月を引き離すための囮だった。目の前の敵に気を取られ、他にも吸血鬼がいることを忘れていた。


「聖夜、覚醒のときを待っている」

 言い終わるのと同時に、美奈子が手にしたナイフを自分の左胸に突き刺そうとした。

「だめだっ」

 聖夜は美奈子に飛びかかり、ナイフを取り上げようとした。が、まにあわない。美奈子は口から血を吐き、その場に崩れた。


「しっかりして、美奈ちゃん」

 抱き起こすと、美奈子はゆっくりと顔を上げた。鋭い牙は消え、漆黒の大きな瞳が聖夜を映す。腕の中にいるのは、人間だったころの姿に戻った美奈子だった。

「わかってたんだ……自分のやってることが……どれだけ愚かかってことは、ね……でも逆らえなかった……あたしには、自分の意志で動く、ことは許されない、から……でもこれ……で解放される……自由になれるんだ、ね……やっと」

「美奈ちゃん……」

「月島……くん、孝則のこと、たの、む……ね——」


 最期の力をふりしぼり、美奈子は聖夜に望みを託した。邪悪な吸血鬼ではなく、元気なときに浮かべていた優しい笑顔が徐々に霞む。

 聖夜の腕の中で事切れた美奈子の遺体は、やがて朽ち果て、塵となった。あとに残されたものは、なにひとつなかった。


「そんな……遺体も残らないなんて」

 悲しすぎる結末だった。

 だがこれで終わりではない。ドルーがいる限り、同じ悲劇は幾度となく繰り返される。

 月島は床に倒れた孝則を起こし、首筋を確認した。傷跡はなにも残っていない。闇の刻印を施したのは美奈子のみだった。孝則だけでも助けられたことを月島は神に感謝した。


「もう大丈夫だ。これで吸血鬼になる心配もなくなった」

 月島は安堵して、聖夜の背中に告げた。だが聖夜はなんの感情も見せない。

 やがてゆっくりふりむくと、すがるような目で月島を見た。

「どうした? そんな深刻な顔をして」


「父さん。覚醒って……どういう意味?」

「え?」

「今ドルーって吸血鬼が言ってただろ。ぼくが覚醒のときを迎えてるって」

 月島の顔がこわばった。

「お願いだ、これ以上隠さないで、知ってることを全部話してよ」


 月島はなにも答えられず、聖夜の顔をじっと見つめるしかできなかった。

「父さん、ちゃんと答えてよ。ごまかしたりしないで」

 いらだたしげに聖夜が叫ぶ。月島は口をつぐみ、顔をそむけた。

「逃げるの?」

 そんなつもりはない。だが今話すのは早すぎる。まだ期が熟していない。


「クリスマス・イヴまであと三日か。おまえも十八歳になるんだな」

 月島は視線を足元に落とし、つぶやくような小さな声を出した。

 平穏な中で迎えるその日のことを想像し、しばし緊張がほぐれた。

「父さん?」

「春からは大学生か。ときの流れは早いものだ」

「なに言ってるの。そんなこと聞いてないよ」

「もっともここ数日みたいな状態じゃ、それも一年先のことになりそうだな」

「だからそのためにも、ぼくにすべてを——」


「甘ったれるなっ」

 月島は口調を厳しくする。

「おまえの目指してる大学は、片手間の勉強で入れるようなところじゃない。追い込みの今、こんな事件に首をつっこんでいる暇なんてないはずだ」

「好きでまきこまれたんじゃない。だれが喜んで首を突っ込むんだよ」

「だったらもう関わるのはよすんだ。今朝も話したはずだぞ。この事件から手を引けと」

「でも、こんな気持ちのままじゃ……」


 月島は聖夜を無視し、背を向けて部屋を出ようとする。

 聖夜のつぶやきが背後から聞こえた。

「父さん、教師の顔になったね」

 厳しくも暖かい父の顔を消し、教師の仮面をかぶることで大切な子供を突き放した。


 今はそうすることでしか秘密を守り通す自信がない。

 悲しいまでの拒否が、聖夜の中にある信頼を砕けさせる結果となっても。

 それ以外なにもできない自分が、親として心底情けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る