第十九話 永遠(とわ)の幸せを願ったのに
聖夜の心臓が高鳴り、身体を流れる血が熱くたぎる。感覚は研ぎすまされ、窓の外に忍びよる影の存在をとらえた。
「なにがあっても取り乱さないで」
聖夜は葉月を背にして立った。
窓ガラスの下から白く長い指をした手が姿を見せ、はめ殺しの窓ガラスにぴたりと吸いつく。
次の瞬間、ガラスに雲の巣状に亀裂が入り、砕け散った。
窓の桟にかけられた両手は破片で傷だらけになり、血を流している。腕の主は徐々に姿を見せ始めた。
五階にある病室まで壁を伝って登ってきたのは、美奈子だった。
「月島くん、またあなたなのね。どうしていつもあたしの邪魔ばかりするの?」
病室に入った美奈子は、そこに聖夜の姿を見て、敵意をあらわにする。
「孝則や葉月を傷つけようとするからだ。このままだまって姿を消すならなにもしない。だけど、葉月を傷つけるなら、たとえ美奈ちゃんでもぼくは許さない」
「そっか。プリンセスを守るナイトってわけね。おもしろい」
美奈子は口元に邪悪な笑みをたたえ、わずかに眉を動かす。
そのとたん聖夜は、背後からものすごい力で首を絞められた。
「は……葉月……?」
守るはずの葉月が、聖夜の敵にまわる。
「残念だけど、姫には呪いがかけられているの。葉月はあたしたちのものよ」
聖夜は、首を絞めつける細い腕をおさえつけた。息ができない。肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
聖夜は無我夢中で胸元の十字架をにぎりしめ、それを葉月の腕にあてた。
「ぎゃあー」
悲鳴とともに腕がほどけ、葉月はベッドに崩れた。肺に酸素が流れこみ、聖夜は咳き込む。
葉月の腕は、十字架のふれた部分が軽い火傷を負っていた。大切な人を心ならずも傷つけたことに、胸が痛んだ。
聖夜の手にした十字架を見て、美奈子は一瞬ひるむ。そのすきに聖夜は、そばにあった果物ナイフを手にし、美奈子の心臓めがけて、胸元に飛び込んだ。
貫いた。
そう思った。
だが吸血鬼となった美奈子の動きは早く、聖夜はあっさりとかわされた。
一瞬の油断が命取りになる。葉月が聖夜に飛びかかり、手首をしめつける。痛みに耐えられず、ナイフを落とす。
葉月にとらえられ動けない聖夜を、美奈子がふりはらった。身体が宙を飛ぶ。壁に強く打ちつけられ、聖夜は床に沈んだ。
美奈子の軽い動作のどこに、こんなパワーがあったのか。
これが吸血鬼の力だ。
聖夜は右腕に生暖かいものが流れているのを感じた。なぐられた拍子に右肩が爪でえぐられ、血を流している。壁にぶつけられた衝撃で、聖夜の全身は痺れていた。
美奈子は床に落ちた果物ナイフを拾い上げた。
「月島くん、あたしたちの方に来ない? 葉月と孝則、そして月島くん。みんなおいでよ。そしたらあたしたち、これから先も離れずにずっと一緒にいられるんだよ」
——時間が止まればいい。幸せな今のまま、ときが止まれば。
それが少女ふたりの願いだと聖夜は聞かされていた。気持ちは充分理解できる。
それでも時間は流れる。願ったところで、ときの流れを拒否できるものはどこにもいない。
住む場所が離れても気持ちは離れない。
一度別れた道でも、いつかまた重なるときがくる。そのときは手を取りあって歩いていく。ふたりの少年はそう信じていた。
その結果がこれだとは。
聖夜は弱々しく、顔を左右にふった。何度聞かれても、答えは同じだ。
「そう。だったら葉月のために、無理につれていくしかないか」
力なく壁にもたれている聖夜の前に、美奈子が屈みこんだ。果物ナイフの冷たい刃が、聖夜の首筋にふれる。
「うっ」
鋭い痛みが走った。刃が皮膚を切り裂き、聖夜の血が流れ出る。
美奈子の唇が傷口に近づく。わずかに開いた唇から、鋭く伸びた牙が見えた。
いやだ。吸血鬼になるのも、殺されるのも。
恐怖より強い拒絶。
高まる鼓動。体温の上昇。血の匂い。吸血鬼の鋭い牙。
未知の感覚が目覚めようとする。
聖夜の身体が熱くなった。体温が上昇するような感覚に襲われる。
傷に口づける寸前、急に美奈子が動きを止めた。目を大きく見開き、驚愕の表情を浮かべて聖夜を見る。
視線がぶつかった瞬間、それは恐怖に変化した。
美奈子の足が床を蹴り、弾かれるように聖夜から離れた。
「渡瀬さん。どうしたの。ドアを開けなさいっ」
騒ぎを聞きつけて、夜勤の看護師が扉を激しくたたいた。聖夜の意識が、美奈子からそれる。その一瞬をついて、美奈子は窓から身を投げた。
「美奈ちゃんっ」
普通の人間なら無事でいられない高さだが、吸血鬼にはなんでもないのだろう。
痛む身体をひきずりながら扉を開け、聖夜は力なく病室を出た。背後で看護師がなにか叫ぶ。その声を無視して病院の建物から出たとき、美奈子の姿はどこにも見当たらなかった。
* * *
月島は孝則の部屋にいた。学校を休んでいるので見舞いにきたと言うと、なんの疑問も持たずに迎え入れてくれた。
気怠そうにしている孝則をベッドに寝かせると、ものの五分で眠りについた。日が上っているうちは動くのがつらそうなところを見ると、今夜あたりが勝負だろう。
月島は孝則の首筋に牙の痕が残っていないか確認した。左の肩に近い位置に、ふたつの小さな傷がある。吸血鬼の刻印だ。今にも消えてしまいそうな、本当に小さな傷だ。
枕元に視線を移すと、見なれた小さな十字架がおかれている。聖夜が孝則に渡したものだ。
今の孝則には、聖水や十字架が苦痛になるかもしれない。
それでもまだ救うことは可能だ。牙の痕は吸血鬼の口づけを意味すると同時に、まだ人間でいることの証でもある。呪縛を解くには、彼を手にかけた吸血鬼を滅ぼすしかない。困難極まる方法だが、ほかに解決策はなかった。
枕元の十字架を身につけ、月島は窓の外に目を向けた。街はすでに夜の帳に覆われている。
魔物たちの
月島は胸元の十字架にそっとふれた。聖夜が物心つくころに持たせた流香の形見は、今の彼女にとってその身を傷つける刃となった。
今になって自分が身につけるのも妙な気がする。
それは二十年ほど前、流香が海外で生活すると聞き、プレゼントした物だった。アルバイトで稼いだお金で買った十字架のネックレスは、純銀製だ。
当時の月島はまだ大学生で、幼なじみの流香への気持ちを意識し始めたころだった。だが、ずっと思いを伝えられないまま、見送りに行った空港でプレゼントを渡すのが精一杯だった。
恋に悩み、傷つきながらも、輝ける未来を夢見ていた学生時代に思いを馳せる。
若者にとって未来は輝かしいものだ。いや、そうでなくてはならない。希望ある未来を、聖夜たちから奪うわけにはいかない。
「命にかえても……十七年前の決着はこの手でつける」
そのときだ。
部屋の窓が音もなく開いた。ふりむくまもなく突風が吹き込み、月島の体勢が崩れかける。
「くっ」
腕で額を覆いながら目をやると、窓際に美奈子が立っていた。
「来たか」
「今度は月島先生なのね。どうして先生たち親子はあたしの邪魔をするんですか? あたしはただ、孝則と一緒にいたいだけなのに」
「生きることも死ぬこともできず、未来永劫呪われ続ける。そんな不幸な存在になってもか?」
美奈子が眉をひそめる。
「ときの流れに乗ることもできず、太陽の下を歩くこともできない。そんな世界に恋人を引き込みたいのか?」
「そうよ!」
美奈子の叫びにあわせたかのように、窓が激しい音をたてて閉じた。強風が止み、部屋にはひとときの静けさが戻る。
「あたしは呪われてなんかいません。先生が解らないだけです。死ぬことも老いることもない、すばらしい世界なのに」
「すばらしいだと?」
「そう。そこに孝則をつれていくことの、なにが悪いんですか? 孝則が好き。好きだから一緒にいたい。離れたくない。幸せな時間を永遠のものにしたい……あたしはただ——それだけを願ったのに」
——いつまでも一緒にいたい。
そんな思いを美奈子は胸の奥で叫んでいたのだろうか。
「でも、言えなかった。言ってはいけないと思った。それはわがままだって解ってたから。一方的にぶつけるだけの思いだから」
美奈子の大きな瞳から一粒のしずくがこぼれ、すうと頬を伝う。
目の前にいるのは、恋を失うことを恐れ悲しみに暮れる、か弱い少女にすぎない。
「なのに孝則はあたしを拒否した。抱いて、愛して、なのにはねつける。だからあたしは……」
感情の高まりが、少女の姿を変える。犬歯は徐々に伸び、鋭い牙に変わる。黒い瞳は獣のように月の光を反射する。
美奈子は吸血鬼に変貌した。
「そんな理由で大切な人を縛るのか? 未来に向かって歩き続けるのを邪魔するのか?」
右手をポケットに忍ばせながら、月島は叫んだ。わずかに残った人間の部分に向けて。だが声は届かない。思いは伝わらない。心はすでに妖魔になっていた。
美奈子が牙を剥き、月島に飛びかかろうとする。
月島はポケットから小瓶を取り出し、美奈子の顔に投げつけた。瓶が割れて液体が頬を濡らしたとたん、
「ギャアー」
美奈子は悲鳴を上げて顔を押さえる。
中の液体は聖水だった。かかった部分から煙が上がる。頬に火傷を負った美奈子は、逆上して月島を抑え込もうとした。
月島は美奈子の目前に十字架をかざす。
「ぐっ」
神の手のかかった護符に、吸血鬼の動きが止まる。うめき声を上げて、じりじりとあとずさる。
「先生、やめてよ。お願いだから……」
弱々しい声は、追いつめられた人間のそれと同じだった。震えながら必死で命乞いをする。頬の火傷が痛々しい。
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