第十八話 誰そ彼ときは戦いのとき

 聖夜は病室の窓から沈む夕日をながめていた。

 冬の短い昼が終わり、街は黄昏れどきを迎える。雲は紫から灰色に染められ、夕日は街を赤く彩る。


 空には昼と夜の境目は存在しない。光から闇へと移りゆく。

 北風の冷たさをものとせずに外を走りまわる子供たちの声が、遥か遠くに聞こえる。その影は長く伸び、やがて夜に消えていく。一日が終わり、だれもがひと息つける時間だ。


 だが聖夜にはちがった。黄昏れどきは戦いの始まりを告げる合図だ。

 ひとたび太陽が沈めば、敵はいつ姿を現すか解らない。一瞬として気の抜けない時間がやってくる。


 聖夜は朝からずっと葉月のそばですごした。なにができるわけでもない。そして昼間、吸血鬼は襲撃してこない。そのことは充分解っている。

 でも葉月をひとりにすることはどうしてもできなかった。孝則と美奈子のてつは踏みたくなかった。


 病室に射し込む夕日で、葉月の頬が赤く染められた。青白い肌を、ほんのひととき太陽が隠してくれる。

 それを見て聖夜はあることを思い出し、バッグから小さな包みを取り出した。

 キュートなサンタクロースやスノーマンが描かれているラッピングペーパーに包まれ、赤と緑のリボンがかけられているそれは、葉月へのクリスマス・プレゼントだ。


 本当は三日後のクリスマス・イヴに渡すつもりだった。だが誕生日を一緒にすごす約束は守れないかもしれない。

 崩れ落ちていく平凡な日々。ささやかな幸せが、指のすきまからさらさらとこぼれ落ちる。


 つい最近までの聖夜は、こんな試練が自分に降りかかってくるなど、夢にも思わなかった。受験勉強が大変でも、友だちといさかいを起こしても、すべては明日につながる日常の出来事にすぎなかった。


 だが今聖夜が対峙しているものは、いとも簡単に穏やかな日々を打ち砕き、過去と未来を分断しようとしている。

 すべては自分のせいなのか。自問しても答えはでない。

 ひとつだけ解っていることは、自分の存在が吸血鬼を呼び寄せ、大切な友だちをまき込んでしまったということだ。

「ぼくはどうなってもいい。孝則が、葉月が無事でいてくれるなら」


 吸血鬼になってしまった美奈子のことを思うと、胸がはりさけそうになる。もっと早くこのことに気づいていたら、救うこともできたかもしれない。

 聖夜はベッドのそばの椅子に座り、眠り続ける葉月の手をにぎりしめた。暖かい病室にいてなお、真冬の空気にさらされたように冷たい。


 明るく優しい日だまりのような暖かい葉月。いつだってその笑顔は、聖夜だけでなくまわりの者たちに優しい温もりを与えてくれる。

 なのに今は、その輝きは感じられない。命の灯火は弱々しく、今にも消えようとしている。葉月の手をにぎりしめる聖夜の手には、いつしか力が込められていた。


 ふと自分の手の中で、葉月の手が動いたような気がした。ハッとして顔を見ると、閉じたまぶたがわずかに動き、やがて葉月はゆっくりと目を開けた。

「葉月」

「え? 聖夜……? あれ、ここは?」

 呼ばれた当の本人は、自分のおかれた状況を把握できず、とまどいの表情を浮かべながら病室を見まわしている。聖夜はいぶかしがる葉月に、事情を説明した。


「そう。みんなに迷惑をかけちゃったんだ。人騒がせね、あたしって。ごめんね」

「謝ることないよ。葉月が悪いわけじゃないんだ。それにぼくはだれに頼まれたわけでもない、自分がいたかったからここにいるんだ」

 聖夜の言葉に葉月は微笑んだ。だが元気な口調とは裏腹に、それは弱々しい笑みだった。


「昨日、ぼくの家を出たあと、なにかあった?」

「孝則くん家に行ったけど。え、そこで? 別になにもなかった——いや、ちょっとひっかかることがあったかな」

「ひっかかることって?」


「孝則くんと紅茶を飲みながらCD聴いて話をしてたのよ。好きなアーティストだったからじっくり聴いてたつもりだったのに、途中をよく覚えてないの。

 あれ、そう言えば淹れたばかりのお茶だったはずなのに、二口目を飲んだときはすっかり冷めてた。なぜそのときに気がつかなかったのかな」


 葉月の記憶に空白部分がある。完全に欠落しているようだ。

 吸血鬼に襲われたときのことは、記憶から消されているのだろう。その吸血鬼は、美奈子だろうか。あるいはすでに孝則も向こう側に行ってしまったのだろうか。

 葉月を救い出すには、闇に引きずり込まれる前に、手を下した吸血鬼の息の根を止めるしかない。だがふたりはとても大切な友だちだ。葉月を守るためとはいえ、ためらうことなく倒せるだろうか。


「……夜、聖夜ってば」

 険しい表情をしている聖夜に、葉月が恐る恐る声をかけた。

「あ、ごめん。なに?」

「ねえ、あれなあに?」

 葉月が指さしたのは、おいたばかりのプレゼントだ。

「ちょっと早いクリスマス・プレゼント兼お見舞いだよ」

 葉月の反応を想像しながら、聖夜はそれを渡した。包みを開けて中を見た葉月は、目を丸くして聖夜の顔を見上げた。


「聖夜、どんな顔して買ってきたの?」

「そ、そんなこと聞くもんじゃないよ」

 なかばぶっきらぼうに、そしてなかば照れながら聖夜は答える。葉月はくすくすと笑いながら聖夜をじっと見つめている。

 その手の中には、ローズ系の口紅があった。デパートのコスメ売り場で、葉月の写真を店員さんに見せて選んでもらったものだ。


 葉月は気怠そうに起き上がり、手元の鏡を見ながらたどたどしい手つきで紅を引いた。口紅は、葉月のもつ少女らしい美しさに、より彩りをそえる。

「やっぱり女の子だ。口紅ひとつで変わるなんてさ」

「なにがやっぱり、よ。自分で選んでおいて、それはないんじゃない?」


 葉月はふざけて聖夜を軽くたたこうとしたが、力が残っていなかった。そっとにぎられた拳は、聖夜の胸に力なく触れるだけだ。口調がしっかりしているだけに、聖夜はそれがつらかった。

「そうだ。目を覚ましたってみんなに連絡してくるよ。葉月は横になって待ってて」


 そう言って椅子から立ち上がったときだ。

 聖夜の感覚は、空気のわずかな変化をかぎとった。


「聖夜……?」

「しっ、静かに」

 人差し指を葉月の唇にあててだまらせる。

 聖夜は目を閉じ、神経を張り巡らせた。鋭敏な感覚が、微量の邪気を察知する。


 来たか。


 気づいたとき、外はすっかり日が落ち、世界は魔物たちの支配する夜の時間に変わっていた。

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