第十四話 父の哀しい決意
聖夜は昨夜と同じ公園に立っていた。女性がひとり、足早に通り抜けようとしているのが見える。少しずつ、聖夜との距離が縮まる。
彼女は青白い月の光を受け、どこか幻想的な姿をかもしだしている。白いうなじが聖夜の視線をとらえた。
すれちがいざまに、彼女が聖夜の顔をちらと見た。ほんの一瞬、たがいの視線が絡まる。
突然彼女の表情が変化した。すべての女性が見せた誘うようなまなざしで、聖夜を見つめる。
瞳には欲望の火が灯されていた。歩みをとめて、じっと聖夜の顔を見つめる。
——お願いだ。そんな目でぼくを見ないで。でないと、あなたを傷つけてしまうかもしれない。
思考は言葉にならない。
思いとは裏腹に、聖夜は少しずつその女性に歩み寄った。
自分の持てるすべての精神力で、彼女に近づくまいとした。だが身体は一切コントロールできない。
他人の頭の中に入り込んでいるかのように、指ひとつ自分の意志で動かせない。一歩、また一歩。ゆっくりと女性に近づく。
まぶたの裏に、何度も見た悪夢が再現されようとしていた。血で染められた甘美な世界に、胸の鼓動が少しずつ高まっていく。
聖夜はこの感覚をずっと待っていた自分に気づいた。
麻薬中毒者が薬を求めるように、聖夜は悪夢を求めている。
昨夜の行動も、禁断症状の現れだったのかもしれない。悪夢の中にひそむ快楽に、聖夜はいつしか虜になっていた。
逃れられない甘美な世界。全身を覆う痺れるような感覚。赤い血の誘惑は、聖夜を放さない。
——だめだ、あなたに触れたら、ぼくは引き返せなくなる。
誘惑に燃えた瞳が、聖夜に残された理性を打ち砕こうとしている。堕ちてしまうとわかっていても、手を伸ばしそうになる。
——だれか、ぼくを救いだして。血に浸る前に……この身体を引き上げて。自分ではどうすることもできない甘美な世界から……断ち切ることのできない麻薬から……。
聖夜は誘惑の魔の手と必死で戦った。声にならない叫びを胸に、力の限り抵抗した。
『聖夜』
不意にだれかに引き止められる。
『大丈夫か? しっかりしろ、聖夜』
強くてたよりがいのあるその声が、堕ちていきそうな自分を助けてくれる。心に理性と強い意志がよみがえる。
赤い欲望の支配する世界で、聖夜は出口を見つけたような気がした。
* * *
明りの消えた部屋に月光が射し込み、夜の世界に彩りをそえる。優しく降りそそぐ淡い光は、古い写真に写る人物を幻の国の住人のように見せた。
机におかれた写真立てには、幸福だったひとときが残されている。
家族三人が互いによりそって写したたった一枚の写真を、月島は月明りの中で今一度見つめた。
そばには古びた表紙の日記帳が二冊おかれている。一冊は月島が十七年前に書いたものだ。もうひとつは流香が結婚する前につづった日記だった。
「流香、おれは決心したよ。これ以上の惨事を引き起こさないためにも、聖夜を救うためにもね。きみが命懸けで守ったものを、おれは守り切れなかった。本当にすまない。
だがこのまま放っておくことはできない。聖夜が苦しむ姿をおれは見たくないんだ」
妻の写真に話しかける月島の顔には、寂しげな笑顔が浮かんでいた。
「結局おれは、だれひとり幸せにできなかった。流香も、聖夜も……」
月島はまぶたを閉じた。
つぶやきを聞くものは、夜空にかかる月だけだ。苦悩を和らげるように、淡い光が頬を優しく包む。
月の柔らかい輝きは、人の心を慰める。だが一方でそれは、ときとして冷たく青白い光となって、人の心に狂気の火を灯す。いや、人間に限ったことではない。魔物にとってもそれは同じだ。
月の光にとらわれた魔物たちは、人間の皮を破り、獣の姿に戻る。彼らは犠牲者を求め、夜の街を彷徨い歩く。
口元に妖しく光る牙は、血の洗礼を受けるまで満足することはない。闇夜に輝く瞳は、血の赤だけを見つめる。長く爪の伸びた手は、血で赤く染められるときを待っている。
古来より魔性の者は人間社会にたくみに紛れこみ、月夜とともに正体を見せた。それに気づいた人間は、魔物を倒さねばならない。昼の世界の住人を、夜の魔の手から守るために。
「たとえそれが、かけがえのない愛する者たちであろうと」
月島は目を開いた。もう迷いはない。心の底にある深い哀しみの影には目を背けた。
書棚の前に立ち、鍵を外すと、月島はひきだしからふたつの物を取り出した。
ひとつは、小さな十字架のついたネックレス。もうひとつはサバイバルナイフだ。刃先を出し、布でていねいに研く。
鋭利な刃は月光を反射して、神々しく輝いた。さながら聖なる光を放つ短剣のようだ。
月島は十字架を身につけ、ナイフを手にした。身体の中から力強いものがわき上がる。
月島は聖夜の部屋の前に移動し、ノブを静かにまわして中に入った。
聖夜は安らかな寝息をたてている。侵入者の存在にも気づくことはない。カーテンの隙間から射し込む月光が、聖夜の額を照らしている。月島はその姿を見つめた。
「聖夜、許してくれ。悲しいことだが、ほかに道がないんだ。だが心配するな。おまえだけを逝かせはしない。おれもすぐ、あとを追う」
月島は両手でナイフをにぎりしめ、大きくふりかざした。刃先が月光にきらめく。
そのまま微動だにせず、月島は聖夜を見下ろす。流香の面影を残したその顔を。
「あと少しで十八歳の誕生日だ。ここでやらなくとも、なにごともなくその日を迎えられるかもしれない」
あれだけ強く決意したはずだった。だがいざ実行に移そうとすると、月島の決心が鈍る。
「今さらなにを迷っている? これ以上聖夜を苦しめないために決心したんじゃないか」
心の葛藤が月島にナイフを下ろさせない。ふたつの思いの狭間で、月島の腕は小刻みに震えた。
「……いやだ」
そのときだ。聖夜の口から、うめき声とともに言葉がもれた。
安らかな表情は消え、苦悩が浮かび、額に汗がふきだした。
「だれか……救いだして……この身体を引き上げて……自分では……断ち切ることのできない……」
聖夜は助けを求めていた。なんとかして逃れようと、必死で抵抗している。自分なりに懸命に運命と戦っている。
「なんてことだ。それに気づこうともしないで、おれは取り返しのつかないことをしようとしていたのか」
月島はサバイバルナイフをポケットにしまいこみ、聖夜の肩に手をおいた。
「どうしたんだ?」
身体を揺すって起こそうとするが、いくらやっても聖夜の目は開かれない。
「聖夜、大丈夫か? しっかりしろ、聖夜、聖夜っ」
思い余って月島は、聖夜の頬をたたいた。
「聖夜、目を覚ませ。たったひとりで苦しむんじゃない」
月島の叫びが静かな部屋に響く。
やがて、聖夜の瞳がゆっくりと開いた。うつろな目だ。生気のない瞳が、月島の顔を映した。
「どうした? やけにうなされていたぞ」
月島は優しく穏やかな声で息子に語りかけた。聖夜の目に輝きが戻る。
「あ……父さん」
ため息を吐くように聖夜は声を出した。
「いつかのように、怖い夢でも見たのか?」
月島はポケットからハンカチを取り出し、聖夜の額に浮かんだ汗をぬぐった。
「父さんだったんだね。あの声は。ぼくを助けてくれたのは」
聖夜の目から、大粒の涙がこぼれた。
「ゆうべも、今も……父さんのおかげでぼくは救われたんだね」
頬を伝うしずくが月光を反射する。そこに魔物はなく、忍びよる魔の手と戦おうとする勇敢な者がいた。
「悪夢が現実になって、ぼくに襲いかかるんだ。いやだと思っても、誘惑に勝てなかった。今も父さんがいなかったら、ぼくは……」
そのとき、なにかに閃いたように聖夜の目が輝いた。
「これが今までのように正夢だとしたら、もしかしたら」
弾かれるようにベッドから跳び起き、聖夜は急に着替えを始めた。
「事件が起きてる最中なら、犯人がそこにいるかもしれない」
「どうしたんだ、いきなり。どこに行くつもりなんだ?」
月島の問いかけに答えもしないで、聖夜はコートをはおって家を飛び出した。月島は慌ててあとを追いかけた。
「犯人? 事件が起きてる最中? まさか……ヴァンパイアは聖夜ではないのか」
このときになって月島は、もうひとりの人物に気がついた。
「なんてことだ。それに気づきもしないで、おれは聖夜を
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