第十三話 覚醒と宿命

 ドアが開き、だれかが部屋に入る気配がして、聖夜は目を覚した。

「あ、すまない。起こしてしまったな」

 コート姿の月島が扉の付近に立ち、こちらのようすをうかがっている。帰宅するなり、すぐに聖夜の部屋に来たらしい。


「お帰りなさい」

 聖夜は寝ぼけ眼で声をかけた。自覚している以上に身体は疲労していたらしく、朝食をとったあとベッドに入ったら、また熟睡していた。

「渡瀬さんが見舞いに来てくれてるぞ。下で待ってもらってるが、会えるか?」

「葉月が?」


 聖夜は弾かれるように身体を起こした。月島は苦笑しながら、

「そのようすじゃ、返事を聞くまでもないな」

 と言い残して階段を下りた。

 入れ替わりに葉月が姿を見せた。温かい部屋に入ったせいか、頬が少し紅潮している。


「わざわざ来てくれたんだね。ありがとう」

「月島先生に聞いたら、風邪で寝込んでるっていうから心配したのよ。でも思ったより元気そうなので安心したな」

 コートを脱ぎながら、葉月は聖夜に笑顔を見せ、ベッドのそばに座った。

「ごめん。心配かけたね」


 葉月はなにも言わずに口元に小さな笑みを浮かべる。

 ひどくまぶしい笑顔だった。

 胸の中にくすぶっていた黒いものが消えていく。葉月はどんなときでも聖夜をなごませ、いやしてくれる。

 この胸を支配する不安が現実となったとき、それでも葉月は変わらぬ微笑みをくれるだろうか。


「葉月はぼくのこと、信じてくれる?」

「な、なあに。急にどうしたの?」

「この先なにがあっても……ぼくがどんな人間でも。変わらずにそばにいてくれる?」


 なにを言っているのだろう。急にこんなことを質問しても葉月を混乱させるだけだ。頭の片隅にそのような考えが浮かぶ。だが一度口から出た言葉は消せない。

 言った自分がとまどっている以上に、葉月は返事に困ったように聖夜を見返す。が、やがていつもの笑顔でまなざしを受け止めた。


「聖夜があたしを必要なら、ずっとそばにいる。聖夜になにがあってもついていく。世界中が聖夜の敵になったとしても、あたしは信じるからね」


 葉月の言葉が、疲れた聖夜の心をいやす。まっすぐな瞳を見ているだけで、胸の奥に広がる黒い雲は消えていく。

 すべての罪を、血で染められたかもしれないこの両手を、春の日だまりのような笑顔と迷いのない瞳で浄めてくれる。自分を信じ、受け入れてくれる葉月を、聖夜は心の底から愛おしく感じた。


「聖夜?」

 葉月が心配そうな面持ちで聖夜の目を覗き込む。聖夜はその顔を両手で包み、しなやかな指で細い首筋をそっとなでた。


「あっ」

 葉月は瞳を軽く閉じ、小さく喘ぎ声を出した。

 聖夜の中で欲望が目を覚ます。

 指先に熱い血潮を感じる。葉月の鼓動が徐々に高鳴る。その躍動感に、聖夜の中で眠っていた未知の感覚が目を覚ました。


 みずみずしい生命力。エネルギーの源が目を惹きつけて放さない。葉月がたまらなくほしかった。

 聖夜は葉月に口づけた。それは今までとはちがい、欲望を呼び起こすような強いキスだ。


 激しさが葉月の心を強く揺さぶる。キスが理性をうち砕く。これまで見せたことのない荒々しさに、葉月の欲望が呼び覚まされた。聖夜の導きに応え、素直に身をゆだねている。腕が首にまわされた。


 胸のときめき。高鳴り。吐息。かすかな声。囁き。あえぎ。熱い唇。しなやかな指先——。


 葉月の反応で、聖夜の欲望がさらに燃え上がった。激しく、むさぼるように舌を絡ませる。ブラウスのボタンをひとつずつ外し、柔らかい胸に手をすべらせる。唇と指先で、葉月の中に沈んでいた感情を揺さぶる。

 欲望はエネルギーを濃くし、生命の源に刺激を与える。聖夜はそれを本能で知っていた。


 これこそが、ずっと求めていたもの——。


 聖夜は葉月の唇から自分のそれを離した。今度は耳元に唇を寄せる。熱い吐息とともに、恋人に甘く囁きかける。

「愛してる。葉月はぼくのものだ……」

 葉月は敏感に反応した。


「ああ……」

 わずかに開いた口元から、葉月の熱い息と喘ぎ声がもれる。

 聖夜は葉月の耳たぶに軽く歯をあてた。唇を少しずつ移動させ、あごのつけ根で動きを止める。


 エネルギーの息づく場所を見つけた。だれにも渡さない。葉月はぼくのもの。葉月のすべては——ぼくだけのもの。


 目を閉じて、聖夜は口を大きく開いた。

 おのれの牙で、白い首筋を切り裂く。


 ——ヤメロ! ヨセ! ヤメルンダ!


「……え?」


 欲望を満たそうとする直前で、聖夜の理性が警告する。

 一瞬のうちに我に返った。

 聖夜はわずかに震えながら、無意識のうちに口元に触れた。そこに牙がないことを確認すると、なぜかひどく安心した。


 今の行動は夢で見た吸血鬼と同じだ。

 欲望に負けて葉月を手にかける。かけがえのない恋人の命で、危険な欲望を満足させる。

 今自分がやろうとしたことに、聖夜は愕然とした。


 ちがう。ぼくは吸血鬼じゃない。絶対にそんなものにはならない。あれはただ夢だ。

 聖夜は自分の欲望をねじふせた。葉月の頬にそっと触れ、いつものように優しくて甘いキスをした。


「ごめん、こんなことして」

 葉月が着るブラウスのボタンをとめながら、聖夜は力なく謝った。

「いいのよ」

 葉月は聖夜の首にまわした腕をゆっくりと外す。

「いつかはこんなこと経験するってわかってる。無理に抑えなくてもいいの。でも焦ることもないよね。いつか、お互いの気持ちが呼びあったそのときに……」

 葉月は頬を真っ赤に染めてうつむいた。


「怒ってない?」

「ちっとも。だって聖夜がやめたのは、あたしを傷つけたくなかったからでしょ。あたしのこと、それだけ大切に思ってるからだよね」

 慈愛に満ちた笑顔が向けられ、暖かい日射しのように降りそそぐ。

 制服の乱れを直しながら、葉月が言った。


「もうすぐ誕生日ね。今年はクリスマス兼バースディ・ケーキ焼くね。孝則くんと美奈子も誘ってパーティーしましょ。半日くらい、受験勉強の息抜きしてもいいよね」

「そう……だね。楽しみにしてるよ」


 葉月は美奈子の身に起こったことを知らない。無事に帰ってくると信じている。

 本当のことはとても話せず、聖夜は作り笑顔でうなずくしかできなかった。

「じゃ、お大事に。あたしは今から孝則くんのようすを見てくるね。ひとり暮らしの上に美奈子もいないんじゃ、あたしが代わりに助けてあげなきゃ。それにしてもふたり仲良く風邪ひいて欠席なんて、まったく妬けるじゃないの」


 笑顔でそう言い残して、葉月は聖夜の家をあとにした。



   *   *   *



 時計の針が真夜中を過ぎたことを告げている。月島は書斎にある書棚の前に立っていた。

 聖夜はいつものように夕飯をすませ、早々と床についた。先ほどようすを見てきたが、特にうなされることもなければ発熱することもなく、穏やかな寝息をたてていた。


 月島は鍵のかかったひきだしを見つめながら、いろいろな可能性を考えている。

ひとつの考えが浮かぶたびに鍵を開けようとしたが、別の考えに押され、どうしてもそうすることができない。それを幾度となく繰り返し、最後になってようやく、棚に立てていた一冊の本を取り出した。


 古びた薄いグリーンの表紙をしたそれは、鍵つきの日記帳だ。日づけは今から十七年前。聖夜が生まれる直前から半年ほどを記録したものだ。

 机の前に座り、月島は日記帳を開いた。そして妻が死んだ日の前後に書かれている内容を読み返す。


 今となっては、すべてが夢に思える。

 だがそこに記されている内容は、まぎれもない事実だ。


 あのとき月島は、なにかに記録しなくてはならないと強迫観念に駆り立てられていた。怠ればすべての体験が、夢か幻の世界に消え去るような気がしていた。

 身体が覚えているうちに、記憶が鮮明なあいだに、知る限りのことを書き留めなくてはならない。そう思って克明に記録した。


「この日記を読み返さねばならない日がくるとは……」

 目を通しながら、月島は頭を抱え込む。我知らず肩が小刻みに震えた。

 自分はあのことを恐れている。あの苦しみに今また直面しなくてはならないのか。


「あと少しで十八歳なんだ。十七年間、無事にすぎた。残りわずかな期間、なにも起きないでくれ。無事に誕生日を迎えさせてくれ……」

 月島のつぶやきが、静かな書斎に響く。


 机におかれた写真立てには、家族三人で撮影した唯一の写真が入れられている。

 お宮参りの日に近くの写真館で写した思い出の一枚だ。

 流香は乳飲み子の聖夜を抱き、夫に寄り添っている。三人の穏やかな笑顔が、月島に幸福だった日々を思い出させる。


「流香、おれはこんな日が来ることを、ずっと恐れていた。きみがいなくなった日から十七年間、心のどこかで毎日おびえながら暮らしていたような気がするよ」

 聖夜の成長は月島の喜びだ。子供とともに泣き、笑い、逞しく日々を生き抜いてきた。


 だが笑いにつつまれた中にいてもなお、月島は心のどこかで、流香を失うきっかけになった事件を忘れることはできなかった。

 その日を迎えるかもしれないことになった今、月島の心は十七年前に戻っていた。


「流香、おれはきみの頼みを実行しなければいけないのかい?」

 写真の中の流香に問いかける。だが答えは返らない。やがて訪れる悲劇も知らないで、幸せそうに微笑んでいる。


 今の月島にも、あのときの流香と同じで、すぐ背後に不幸が迫っている。

 光に向かって立っているときには、その存在に気づかない。

 だがひとたび背を向ければいやでも目に入る。あの過酷な宿命は、決して逃れることのできない、自分自身の影法師のようだ。


 外は日が沈み、月が顔を出している。月島は椅子に座ったまま、窓越しに、夜空にかかる月を見上げた。

「これ以上、悲劇を繰り返させない。今度こそ、あのときの決着をつける」

 祈りにも似た月島の決意。それを聞いているのは、青白く冷たい光を降りそそぐ月のみだった。

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