第十二話 信頼と不安

 その影は、腕に女を抱いていた。光が閉ざされ、顔ははっきりと見えない。

 影が聖夜に呼びかけた。

「生命の源は、おまえのものだ。熱き血潮で喉の渇きをいやすがいい」


 聞き覚えのある声は、聖夜にそう囁きかける。身近な、とてもよく知っている声のような気がした。

 影が女を地面に横たえる。聖夜はかけより彼女を抱き起こした。

 女は歓喜の余韻を顔に残している。

 首筋には小さな牙の痕があった。吸血鬼の犠牲者だ。


「ひどい。なんてことをするんだ」

 聖夜は影に向かって叫んだ。

「ひどい? その女が望んだことだぞ」

「この人が?」

「そうだ。快楽と永遠の命のために。いつまでも年をとらず、若く美しいままでいたいと願った。そしてわたしの牙にかかることを選んだ」


 そんなことのために、未来永劫えいごう呪われた存在になりたいのか。聖夜には理解できない。

「おまえもその女に口づけるがいい。望みさえすれば、身体はすぐにでも変化する。その血で、長年の渇きをいやせ」

「断る。ぼくは吸血鬼じゃない。そんなものほしくない」

 影が笑う。あざけるように、高らかに響きわたる。


「おまえはまだ自分が解ってないのか。そろそろ気づいたと思っていたが。ただの頑固者か、あるいは愚か者なのか」

 腕の中の女性が、聖夜の首に腕をまわし、耳元で囁きかけた。

「お願い。あなたの世界につれていって……」


 熱い吐息が聖夜の耳にかかった。傷口から流れる二筋の血が、視線をとらえる。生命の源。命の糧。吸血鬼が生きるために必要なものだ。

「早く……」

 鼻にかかったかすれた声がせがむ。頭上で影が含み笑いをたてた。


「無理に自分を抑えるな。おまえが血をほしがっているのをわたしは知っている」

 女の身体を流れる血……息づくエネルギー。それらが本能を呼び起こそうとする。

「よせっ」

 聖夜は女を力ずくで引き離し、背後で見守っていた影に訊いた。


「きみはだれだ? なぜぼくを誘惑する。ぼくのなにを知ってるんだ」

 風が木の葉をざわめかせ、月にかかる雲を遠ざける。影の人物に、月光が射した。


「まさか、そんな」


 驚愕する聖夜に、影は勝ち誇ったように笑い声を上げた。

「わたしはおまえ自身の影。おまえはわたしだ」

 獣のように光る瞳、唇から覗く鋭い牙。そこにいたのは吸血鬼だった。


 だがその顔は、ほかのだれでもない。

 聖夜自身だった。



   *   *   *



 目覚めたとき、聖夜は自分のベッドの中だった。射し込む光は月のものではなく、生命力に満ちた太陽の光だ。

 冬の陽射しの温もりが、ガラス窓を通して聖夜に優しく降り注ぐ。暖かい日だまりに気持ちも和らぐ。


 聖夜は枕元の目覚まし時計を何気なく見た。デジタル盤は午前九時を表示している。

「……えっ。なんだって?」

 遅刻したと思った聖夜は、慌てて跳び起きようとした。が、

「いたっ」

 酷い頭痛が走って、ベッドに沈んでしまった。


 どうして父は起こしてくれなかったのだろう。疑問を抱きながらもう一度時刻を確認すると、時計の下におかれたメッセージに気がついた。



『今日は欠席だと稲葉先生に伝えておく。

 朝食は机の上に準備しておいたので、適当に食べるように。 ——父より』



 月島の残した伝言は無愛想で、必要なことしか書かれていない。

「これで気遣ってるつもりなのかな」

 聖夜は苦笑しながらメモを枕元におき、今度はゆっくりと起き上がった。見ると、なるほど机の上に朝食が用意されている。クロワッサン二個とミルク、ドレッシングのかかったトマトサラダ。冷めても食べられるものばかりだ。


 昨夜は孝則のところに行けなかった。気になって携帯にかけてみたが、留守番電話が対応するばかりだ。

 孝則は登校し、電源が切られているのだろうか。


 聖夜はふたたび横になった。目を閉じると、昨夜のことがまぶたの裏に浮かぶ。


 あのとき聖夜は、まるで吸血鬼のように、女性の喉元を狙おうとした。それまで何度となく見てきた悪夢を現実のものにしようとしていた。そして夢の中に出てきた人たちは現実の中で惨殺されていた。


 喉の渇きを血でいやすため、身体をかけめぐる欲望を満たすために自分がやったのか。

「まさか」

 頭の中で紡がれる考えを、声に出して否定する。仮にそれが予知夢だったとしても、夢は夢にすぎない。自分が犯人であるわけがない。


「けどぼくはあのとき、夢が恋しかった」

 薬をほしがる麻薬中毒者のように、聖夜は夢で味わった快楽を求めていた。

「どうして血を飲まなきゃいけないんだ?」

 頭の中に浮かぶ疑問をひとつずつ整理する。


 事件は夢遊病になった自分が、無意識のうちに引き起こしているのだろうか。

 では、自分は吸血鬼なのか?

 生き血を求め、夜な夜な彷徨さまよい歩く闇の支配者。犠牲者の首筋にその鋭い牙を立て、生き血を飲み干す。夢の中で聖夜は、吸血鬼と同化していた。


「でもぼくは吸血鬼じゃない」

 部屋を満たす太陽の光にも、母の形見の十字架にも、苦痛を感じない。

「それにもしぼくが吸血鬼なら、美奈ちゃんがぼくを襲う必要なんてないはず」


 そこまで考えたとき、急におなかが鳴った。

「やめた。ばかばかしすぎる」

 空腹でいるとろくなことを考えない。


 ラジオのスイッチを入れると、軽快なクリスマス・ソングが流れてきた。十二月に入るとこれらの曲をよく耳にする。自分の誕生日が近いことを感じながら机の前に座り、父が準備してくれた朝食を食べ始めた。

 そのとき、聖夜はあることに気がついた。


「あのときぼくに声をかけたのは、父さんだった」


 月島に呼び止められたおかけで、聖夜は悪夢にとらわれることなく終わった。だが——。

「どうして父さんがいたんだ?」

 孝則の家に行くと告げて出たとき、父は普段と同じように送り出してくれた。なのにこっそりあとをつけてきたというのか?


 なぜ? なにが目的で?

「もしかして父さんは、なにか知ってるんじゃ……」

 聖夜の胸に期待感が広がる。

 たったひとりで抱えるには大きすぎる問題を、父はともに解決に導いてくれるかもしれない。


 身近にいる父が頼もしい仲間になるかもしれないのに、聖夜は一方で強い不安に襲われていた。

 それが、父に対する不信感だとは、そのときの聖夜にはわからなかった。



   *   *   *

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