第十一話 悪夢に翻弄されて
家を出たとき、外はすでに夜の
冷たい空気が頬を切る。季節が冬だということひとつとっても、聖夜には忌々しく思えてならない。よりによって一年でもっとも夜が長く、吸血鬼には格好の季節だ。
住宅街を抜けて大通りを横切ると、聖夜と孝則がすごした公園に出た。
広い敷地を
日は落ちているがまだ遅い時刻でないためか、ポツリポツリと人通りがある。
奥まったところで、敷地の一部が立入禁止になっている。殺人事件の現場だ。あの近くにあるベンチで聖夜たちはときをすごした。張り巡らされたテープを見て夢を思い出し、聖夜は吐き気を覚えた。
孝則のことが気になっているはずなのに、足が止まってしまう。なぜだろう。見えない糸に絡め取られるように自転車を降り、街灯の下でテープの向こうに目をこらす。
現場は事件の異常さを物語っていた。芝生のところどころに血痕が残っているのが、薄暗い街灯の下でも見てとれる。夢で見た場所と
偶然にしろ、惨殺事件に似た夢を見てしまった。その犯人はほかでもない、自分自身だ。
あんな夢を見なければ、事件は起きなかったかもしれない。そんな考えすら浮かび始める。
それにしてもこのむせ返るような血の臭いはなんだろう。捜査員たちはこの死臭が気にならないのか。
これ以上ここにいたくはなかった。そうでなくても孝則のことが心配だというのに。
聖夜は自転車に乗ろうとして正面をふりかえった。そのときすぐそばを、ひとりの女性が通りすぎた。
大学生くらいだろうか。軽いウェーブのかかった長い髪をポニーテールに結び、厚手のコートを着て、白い息を吐きながら足早に歩いている。事件のあったこの公園を、早くすごそうとしているのだろう。
自転車のペダルに足をかけながら、聖夜は何気なく彼女のうしろ姿を見る。街灯が白いうなじをほんのりと照らした。一陣の風が吹き、事件現場から血の匂いを運ぶ。
視線がとらえられた。
ふと、胸の鼓動が高まる。
だれかが耳元で囁いた。
——生命の源を、おまえのものに。熱き血潮で喉の渇きをいやすがいい。
白くて無垢なものを破壊し、血で赤く染める。それを熱い胸の高鳴りとともに見つめる。赤い血の支配する魅惑的な世界が誘いかける。
こんな感情をどこかで抱いたことがあった。
「あの夢の中だ」
吸血鬼になった、あの悪夢。
夢と現実——ふたつの世界を隔てる壁が、音もなく崩れ落ちる。
——生命の源を……おまえのものに。
また、だれかの声が囁いた。
それは聖夜の心を強い力でとらえた。
逆らえない。声に支配される。もうなにも考えられない。自分がここにいる理由、やらなくてはならないこと、すべてがどうでもよくなる。
見えない糸に曳かれるように、聖夜は女性のあとをついていった。
足元に緑の芝生が広がる。夜空を照らす月の輝きが彼女を淡い光で包み込む。
細い首筋に息づく生命の源。あふれるエネルギー。若さにあふれた生命力。
喉が渇く。
胸が高鳴る。
手を伸ばして、触れたい。
首筋に口づけたい。
流れる熱き血潮を、自分のものにしたい。
上質のワインを口にしたときに似た香りを、聖夜は思い出した。身体のすみずみまで行き渡る温もりが脳裏を横切る。
もう一度あの感覚を体験したい。
今の聖夜にとって悪夢は悪夢ではなく、禁断の果実となっていた。一度覚えたら忘れることはできない。口にしたが最後、二度と引き返せないだろう。それが解っていてなお、聖夜は夢で体験した感覚を求めていた。
胸の高鳴りが理性を麻痺させ、欲望を呼び起こす。同時に孝則からのSOSは、意識から消滅した。
血の味と赤く染まる世界が支配する。
聖夜はふらふらと歩き、女性との距離を少しずつ詰める。
彼女の身体を流れる血の音が聖夜の耳に届き、妖しく誘いかける。
熱い血が、生命の源がほしい。
欲望の赴くまま、聖夜はゆっくりと右手を伸ばした。あと一歩。もう少しで女性の白いうなじに手が届く。息づくエネルギーを自分の中に取り入れ、生命をつなぐ糧とする。
白く純粋なものをこの手で壊し、赤く染める。
——聖夜。
自分を呼ぶ声に、聖夜の動きが止まった。
——聖夜。
声がもう一度呼びかける。優しい温もりが、堕ちていきそうになる聖夜を引き止める。
「うっ」
頭に激痛が走った。額を押さえ、聖夜はその場にひざまずく。
ポニーテールの女性は聖夜に気づかないまま歩き続け、やがて見えなくなった。
「今の声は……?」
欲望は徐々におさまり、理性が目を覚ます。
「ぼくは、なにをしようとしてたんだ?」
霞のかかった意識の中で、聖夜は自分を支配していた欲望を思い出す。それに操られて、なにをしようとしていたのか。想像することさえ恐ろしくてできない。
全身は冷汗でおおわれ、いいようのない虚脱感が聖夜を襲った。背中に冷水をかけられたような悪寒が走る。身体が震えて止まらない。
寒さに耐え切れず、聖夜はひざまずいたまま、両腕で自分の肩を抱いた。
「聖夜」
声とともに肩に手が触れた。そこから優しい温もりが伝わってくる。聖夜の胸に少しずつ温かいものが広がる。
「どうした? なにがあった?」
聖夜はゆっくりとふりむき、声の主を見上げた。
「父さん……」
そこにいたのは月島だった。
聖夜を呼び止めた声は父のものだった。それを理解したとたん緊張の糸が切れ、聖夜は身体がぐらつくのを感じた。
「大丈夫か、聖夜」
遠ざかる意識の中で聖夜は、自分を心配とも不安ともしれない表情で見つめる父の顔を見た。そして、崩れ落ちる身体を支えてくれる、力強い腕を感じていた。
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