第十話 予知夢
月光が芝生を照らすとき、彼の中の魔性が目を覚ます。獲物を求め、夜の街をさまよい歩く。
魔界の者が持つ危険な香りは、獲物にとっての媚薬だ。
女は瞳にとらえられ、引き寄せられる。身体を支配する高まりを抑えるには、それ以外に方法はなかった。
彼は女を抱き寄せ、柔らかい唇にキスをした。互いに激しくむさぼるように求めあう。
魔性の与える快楽は、女の欲望をさらに高める。
彼はキスをやめ、舌をあごから喉元まではわせ、生命の源を探りあてる。
「お願い、早く……」
女が嘆願する。
彼は天を仰ぎ、口を大きく開いた。濡れた鋭い牙が月光をあび、妖しく輝く。それは勢いよく女の白いうなじを切り裂いた。
「あ……ああ!」
女のうめき声が夜に響きわたった。だが顔が痛みにゆがむことはない。目は軽く閉じられ、唇からはあえぎがもれた。白くしなやかな彼の指が、豊満な乳房に触れる。吐息が荒々しくなった。
「あ、うう……」
口づけを終えた彼は、女の肩から離れた。傷口から流れる血がブラウスに赤い染みを広げる。
女は腕を彼の首にまわし、胸に軽くもたれかかった。
「つれていって。あなたの世界に」
女は
「……ぐふっ!」
突然、女の吐息がとぎれた。首にまわされた腕が力なくほどけ、ゆっくりと地面に崩れる。背中に立てられたナイフが、月光を受けてきらめく。
「な……なぜ?」
事切れる寸前に女が訊いた。
「おまえはわたしの中の魔物を満たす、それだけの存在だ」
彼は冷たく言い放つと、うつぶせに倒れた女を一瞥した。地面に血の海が広がっていく。
「死ぬまぎわの一度限りの快楽。スレーブにも値しない」
女は断末魔の表情を浮かべ、身動きしなくなった。
「もう聞こえてないか」
どこからか姿を現した亡者たちが、女の
ヴァンパイアの残したおこぼれにありつこうとするグールたち。知性のかけらもない物たちだが、こちらの邪魔をしない限り好きにさせてもいいだろう。
彼は自分の手を口元に近づけ、指にかかった血の飛沫をなめた。そしてグールたちが屍肉をむさぼる音を背中に聞きながら、闇に溶け込むように姿を消した。
* * *
聖夜は孝則と一緒に公園のベンチに座っていた。厚手のセーターを着ていたおかげで、なんとか凍えずにいる。だが寒さで身体はすっかり冷え切っていた。
家を飛び出してすぐ、聖夜は孝則をつれて繁華街に逃げ込んだ。人混みの中にいれば、簡単に見つかることはないだろうと考えたのだ。
だがとる物もとりあえずでてきたため、二十四時間営業の店に入ることもできず、やがて行き場をなくしてしまった。最後に家の近くにある公園に場所を移動した。
聖夜は腕時計で時間を確認した。真夜中すぎだ。緊張がほぐれたせいか、ほんの数分まどろんでいたようで、最後に見たときから比べて針が予想以上に進んでいる。
隣に座る孝則はずっと目を閉じたままだ。衰弱しているので起こすのをやめて、聖夜は軽くため息をついた。
美奈子の事件が影響したのだろうか。また吸血鬼の夢を見てしまった。
美奈子のことも夢だったらよかった。だがあれは疑いようもない現実だ。
一瞬ひるんだ吸血鬼。逃げるときは夢中で、理由が解らなかった。だが今なら解る。胸元を飾る十字架のせいだろう。
聖夜はそれをにぎりしめ、記憶にない母に感謝した。
それにしても、よく逃げ出せた。
美奈子はあれ以上追ってこなかった。小さな十字架でも効果があるのだろうか。映画や小説の中で吸血鬼が恐れる物は、現実でも同じなのかもしれない。
いつまでもここにいたかったが、凍えてしまっては意味がない。一時間ほど過ごしたのち、聖夜は横で仮眠している孝則を起こし、家にもどった。
食べかけの食事と、荒れたままのリビング。吸血鬼がいた証にはなりそうにない。
聖夜は孝則の部屋にはいり、カーテンを閉めた。
「気分はどう?」
「いいわけじゃないけど……少しはましになったかな。美奈子に血を吸われてないからかもしれないな……」
ベッドに横たわったまま、孝則は消えそうな声で答えた。
「吸血鬼の話、本当だったんだね。まだ信じられないけど」
聖夜の言葉に、孝則は弱々しくうなずいた。わずかだが表情が明るくなっている。
しかし、完全に解放されたわけではない。人間に恋した吸血鬼は、相手を引き込むまで何度でもやってくるだろう。
だがさっきの経験から、身を守るためにできることがひとつ解った。
聖夜は胸元の十字架を外し、孝則に渡す。
「吸血鬼よけだよ。死んだ母さんの形見なんだ。さっきはこれのおかげで助かったみたいだ」
「いいのか? そんな大切なもの、おれにあずけて」
「大切なものだから渡すんだよ。RPGじゃないけど、攻撃力のアップにはならなくても、防御値は上がるよ、きっと」
聖夜は柔らかい微笑みを浮かべ、冗談まじりに話しながら、恐縮する孝則の手ににぎらせた。
* * *
目覚めたときは夕方だった。
あのあと聖夜は孝則の部屋で寝ずの番をし、夜明けの訪れを見届けて帰宅した。そして朝食もとらないまま倒れるようにベッドに入った。
自覚している以上に身体が疲れていたのだろう。仮眠ですませるつもりが、数時間も熟睡してしまった。
憂鬱な気持ちを胸にやどしたままリビングに入ると、月島がコーヒー片手にソファーに座って読書をしていた。聖夜に気づくと本を閉じて顔を上げる。
「食事なら用意できるぞ。といっても、トーストくらいしかないがな。もうじき夕飯だが、どうする?」
「いいよ、あまり食べたくない」
と返事して父の隣に座り、聖夜はリモコンでテレビのスイッチをいれた。
「ゆうべは徹夜だったのか?」
「あ? うん。そう、そうだよ。なんか調子にのってさ。でも昼間寝たんじゃ意味なかったね」
聖夜は不安感を悟られないように作り笑顔で答えた。
父に本当のことは言えない。孝則が告白をためらった気持ちがよく解る。
「孝則くん、体調よくなったのか?」
軽くうなずき、ポロシャツのボタンをひとつはずした。暖房が意外に効いているようだ。それを見た月島は、
「すまない。ちょっと暑かったか」
手元のリモコンでエアコンを調整した。そのあとでなにかに気づいたようにいぶかしげな表情を浮かべた。
「聖夜、母さんの十字架は?」
「あ、ちょっと……でも、なくしてなんかないから。心配しないでよ」
詳しい説明をせまられたらと不安になったが、月島はわずかに眉をひそめただけで、それ以上なにも
会話が途切れ、テレビの音だけがリビングに響く。夕方のニュースが、殺伐とした事件を報道している。
そこに映し出された場所に気づいたとたん、聖夜は目を見開き、息を飲んだ。
「まさか……」
「ん?」
月島もつられてテレビの画面を見る。
近所の公園——聖夜と孝則が美奈子をやりすごした場所——が映されている。
ニュースは、そこで惨殺死体が発見されたことを報道していた。画面に映った被害者は、昨夜、吸血鬼となった夢の中に出てきた女性の顔と似ていた。
悪夢が現実となった。一度ならず二度までも。
もはや、単なる偶然と一笑にできない。
犯人は美奈子、それとも母に似たあの少女だろうか。いやちがう。あれが正夢なら、犯人は男だろう。ではほかにも吸血鬼が存在するのか。
そのとき携帯電話が鳴り、聖夜の考えを中断させた。孝則からのメールだ。
胸騒ぎを感じる。父に悟られないよう、顔に出さないで、聖夜は震える指でメールを開いた。
『みなこがきた』
ひらがなだけで書かれた短い文章が、孝則の窮地を雄弁に物語っていた。
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