第九話 実在した吸血鬼

 パステル調のテーブルクロスの上には、上品なデザインの食器に盛りつけられた料理が、ところ狭しと並んでいる。キッチンはおいしそうな匂いで満たされていた。

「酒まで準備してるとはねぇ。もしかして聖夜、いつも家で飲んでんのか?」

「教師の目を盗んでこっそりとね。実は父さんのストックしてるテーブルワインを、だまってもらってきたんだよ」


 肩をすくめてウインクしながら、聖夜は答えた。

 そしてテーブルについたところで、慣れた手つきで栓を抜く。ワイングラスがなかったので代わりにビアグラスにつぎ、ふたりは乾杯した。


「こんなふうに、だれかの家に集まってパーティーなんて、したことなかったな」

 一口飲んだあとでグラスをテーブルにおき、うつむき加減で孝則がポツリとつぶやいた。

「これからだよ、こんなことができるのは。大学に行っても夏休みや冬休みには帰るだろ。そのときみんなでやろうよ」

 聖夜は食事の手を止め、孝則を励ますように笑顔を浮かべた。


「そう、だな」

「バラバラになるって言っても距離だけだよ。ネット使えば顔見ながらチャットだってできる。その気になればいつでも集まれるんだ。ぼくらはいつだって一緒にいるようなものさ」

「なのに……美奈子はそれが解らなかった」

 孝則は手にしたフォークをにぎりしめた。絞り出すような声だった。


 その直後。孝則が急に目を見開いた。

 頬がわずかに紅潮し、口元は自然に浮かぶ笑みを無理矢理消そうとしている。隠し切れない喜びを浮かべる一方で、にぎられた拳は微妙に震えている。

 期待と不安が交差する姿に、聖夜の胸がざわめいた。


「感じる……美奈子がきた」

 孝則は叫ぶと同時に勢いよく立ち上がり、隣のリビングに駆け込む。聖夜も孝則を追いかけようと席立った瞬間。


 一瞬のうちにあたりの空気が変わる。真冬の寒さとは異なる異常な冷気だ。あの夜、美奈子の病室で感じたのと同じものだった。

 ドアの向こうから伝わる妖気に、聖夜は頭痛と吐き気を覚えた。椅子にしがみついて呼吸を整える。そして気力だけを頼りにしてリビングの扉を開けた。


 ソファーには胸をはだけた孝則が横たわっていた。皮膚を数箇所切り裂かれ、血を流している。そして傷口に覆いかぶさるようにしている少女がいた。

 新たな人物の出現に、少女が顔を上げる。

「そんな、まさか」

 それは行方不明になった美奈子だった。目は獣のように光り、口元は血で染められている。唇からわずかに見える犬歯は肉食動物を思わせるほどに伸びていた。


 その姿は吸血鬼そのものだ。


 新たな獲物の出現を喜ぶように、美奈子が聖夜に微笑みかけた。

「へえ。月島くんも一緒だったんだ」

 美奈子は聖夜の血の味を想像するように、唇をなめた。

 孝則の話は幻覚ではなく、事実だった。ではあの夜、病室で体験したことは夢ではなかったのか。


 孝則から離れ、美奈子は聖夜に近づく。逃げようにも妖気に当てられて動けない。

 聖夜は美奈子の歩みを、スローモーション・フィルムを見るような思いでながめていた。

 光を反射して輝く瞳に意識を吸いこまれそうだ。


 その刹那せつな

 なにかに共鳴するように聖夜の動悸が激しくなった。身体を駆け巡る血がざわめき、熱を帯びる。


 美奈子の肩越しに、横たわったまま動かない孝則が見えた。遠目には首筋に新しい牙の痕が見られない。

 今ならまだまにあうだろう。孝則が吸血鬼になる前に手を打てば、人間のままでいられるはずだ。フィクションの世界を信じるならば。


 だが、まばたきすらできない今の聖夜に、なにができる? 相手は闇の帝王、吸血鬼だ。

 無力な人間にすぎない聖夜たちは、傷つけられ、仲間にされるか殺されるか、ふたつにひとつの道しか残っていない。


 ——いやだ。

 心の中で叫んだ。

 心臓の鼓動が耳につく。

 ——殺されるのも……吸血鬼になるのも。


 鼓動が早くなり、激しさをます。

 身体中の血が熱くたぎる。

 極度の緊張で体温が上昇する。


「月島くんの血はどんな味がするんだろ」

 好物のスイーツを目の前にしたときように、美奈子の口調は無邪気だ。

 伸ばされた手が聖夜に触れた。冷たさに体温が奪われ、背筋がぞくっとした。半開きになった唇から牙が姿を見せ、聖夜の首筋に近づく。

 そのうしろでは、孝則が額を押さえながら、なんとか立ち上がっていた。だが聖夜を救うような余裕は残っていない。


 科学的な解釈などせず、孝則の話を素直に信じればよかった。そうすればなにか別の方法を見つけられただろう。だが今となってはすべてが遅すぎる。

 聖夜はくやしさのあまり、唇を噛み切ってしまった。わずかに出血し、口の中に血の味が広がる。

 それに気づいた美奈子は、聖夜の唇にキスをして血を飲もうと、顔を近づけてきた。


 そのとき。突然、美奈子の口元から笑みが消えた。

「まさか、そんな——」

 美奈子が目を見開き、聖夜をじっと見た。唇がわずかに震えている。

 ふっと妖気が和らぎ、聖夜にかけられた呪縛が解け、身体が軽くなった。

 美奈子に一瞬の隙が生じる。


 今だ。このタイミングを逃してはならない。

 身を沈めて美奈子の腕をかわし、聖夜は孝則に駆け寄った。動きの鈍い孝則の腕を引っぱる。

「待ちなさいっ」

 聖夜は孝則をつれて家の外に飛び出した。


 美奈子はふたりを追って出てきた。だが聖夜たちに近寄らない。距離を保とうとしているのは美奈子の方だ。

 ふりかえった聖夜と視線がぶつかる。そのとたん、美奈子の顔が驚きから別のものに変化した。

 そこにいたのは、恐れを抱き、近づくことを拒否する吸血鬼だ。


 見まちがいだろうか。だが美奈子の眼力は完全に失われて、今度はルビーの瞳に動きを奪われることはなかった。

 聖夜は孝則の腕をひき、やみくもに走った。


 凍りつくような空気の中、聖夜の胸元で月光が反射する。

 そこにあったのは母、流香の形見の十字架だった。



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