第十五話 氷の瞳と炎の瞳

 聖夜は昨夜の公園に来ていた。周囲を見まわし、夢に出てきた場所を捜す。まず右手に向かおうとした。そのとき冷たい風が頬をなで、聖夜の栗色の髪をなびかせた。

「これは……?」


 痺れるような感覚が全身を駆け巡る。風に乗って香しい匂いが運ばれ、聖夜を誘惑する。甘美な香りに目を閉じて、身を委ねようとした。


「聖夜。どこだ?」

 父の声で聖夜は我に返った。そのとたん甘美だと感じた匂いに、死臭を想像させられて嫌悪感を覚える。

 それは、血の臭いだった。


 聖夜は迷うことなく、風上に向かって走り始めた。

 近づくにつれて、血の臭いは確実に濃くなる。

 このとき聖夜は、心の中にふたりの自分を感じた。


 ひとりは人間としての理性を持っている聖夜だ。血の臭いを死臭と感じている。そしてもうひとりは、夢の中で赤い血をすすっていた聖夜だった。血の匂いに敏感に反応し、酔いしれる。

 相反するふたつの感情を抱いたまま、聖夜は走った。


 血の臭いに引き寄せられるようにたどり着いた場所は、公園の中にあるグラウンドだった。

 一歩踏み入れた聖夜は、フェンスのそばに倒れている人影と、そこを中心に広がった血だまりを見つけた。仰むけに倒れているのは夢で見た女性で、胸元に白木の杭が刺さっている。さながら退治された吸血鬼だ。

 遺体には、首筋に小さな二つの傷がある。血を吸われた犠牲者が、吸血鬼となって復活するのを阻止しているように見える。


「ようやく会えたな」


 不意に張りのある、よく通る声がかけられる。それを頼りに聖夜はゆっくりとふりかえった。

 グラウンドのすみにおかれたベンチに人影が見える。街灯もそこまでは届かず、顔は判別できない。


「だれ?」

 月を覆っていた雲が風に流され、あたりは冷たい月光に照らされた。


 そこにいたのはひとりの青年だった。

 年のころは二十歳前後。聖夜とあまり差がなさそうだ。

 銀色の髪、透けるように白い肌で、やや面長の顔と細くしなやかな指先が、繊細な印象を与える。切れ長の瞳はエメラルドの輝きを思わせ、唇は真紅の薔薇のように赤い。

 高貴な血筋を思わせる容姿だ。


 月光が見せる幻のような青年だ。温もりを感じさせない、幻想的な美を聖夜は連想した。

 だが彼は、美しき魔性だ。

 緑の瞳は月光をうけ、獣のように光っている。赤い唇からは一筋の鮮血が流れている。身にまとうシャツは返り血で赤く染められ、指先からは血がしたたり落ちていた。

 赤い世界に君臨する魔性の青年は、氷のような透明感とともに冷たさを感じさせる。


 彼は吸血鬼だ。聖夜はそう確信した。


 青年はゆっくりと立ち上がり、獲物を見つめる狼の目で聖夜をねめつけた。

「おまえが月島聖夜か。なるほど。ここまで似ているとはな。まるで生き写しだ」

「似ている? だれに?」

 青年は口元をゆがめただけでなにも答えない。


 そのとき彼の背後からひとりの人物が姿を現した。その顔に聖夜は、全身に電気が流れたようなショックを受けた。

 美奈子の病室にいた、流香と同じ顔をした少女だった。


「やっぱりあれは、夢じゃなかった」

 青年は少女の肩に腕をまわし、胸元に抱き寄せた。少女は無表情な瞳で聖夜を見る。病院で会ったことも忘れているようだ。


「夢で口にした血の味はどうだ? 赤く染められた世界をどう感じた?」

 だれにも話したことのないあの悪夢を、青年は知っている。聖夜は当惑して、なにも答えられない。

 青年の口元が妖しくゆがんだ。少女は愛しい人にするように青年の首に腕をまわす。


「おまえは血を甘く感じた。赤い世界を魅力ある物と思った。どうだ」

 否定できなかった。だが認めることは絶対にできない。聖夜は背徳の世界に足を踏み入れたくはなかった。

「まあいい。答えは聞かずとも解る」

 青年はそうつぶやくと、少女の髪をかきあげ、白いうなじをあらわにした。聖夜の胸に鋭い痛みが走る。


「やめろっ。その人を傷つけるのは」

 聖夜が動揺のあまり唇をゆがめるのを見て、青年は満足そうににやりと笑った。口元に二本の鋭い牙が見えた。

 少女を助けようと一歩踏みだすと、青年が聖夜に向けて腕を伸ばす。エメラルドの瞳に射抜かれたとたん全身が硬直し、すさまじい力場にとらえられたように身動きできなくなった。


 夢で見た惨劇が目の前で行われようとしている。なのになにもできない。青年が大きく口を開くと、月光をあびて、濡れた牙がきらめく。

「よせっ」

 少女の首筋に鋭い牙が立てられた。聖夜は顔をそむけることも目を閉じることもできず、その光景を見つめていた。


「ああ……う……」

 少女が身体を弓なりにそらせ、小さくうめいた。恍惚とした表情を浮かべ、吸血鬼を受け入れている。

 聖夜は唇をかみしめた。助けられなかった。母の面影を持った少女をみすみす犠牲にした。自分の非力さが情けなかった。


「聖夜っ」

 背後で月島の叫び声がし、聖夜の呪縛がふっと解けた。全身に痺れが残り、足元がぐらつく。倒れる寸前に月島が駆け寄り、身体をささえてくれた。

 新たに出現した人物に気づき、吸血鬼が少女の首筋から唇を離した。


 青年と父が対峙する。

 氷の瞳と炎の瞳がぶつかった。


「月島か。ここでおまえに会えるとはな」

「ドルー。久しぶりだな」

 ――ドルー。

 それが吸血鬼の名前だった。


 月島は吸血鬼に話しかける。声は落ち着き、事実を冷静に受け止めている。

 ふたりは面識があるのか? 聖夜には信じがたい事実だ。


「月島よ、おまえは十七年前の約束をまだ覚えているか?」

「ああ、覚えている。一日たりとも忘れたことはなかった」

 その言葉を聞いて、ドルーは歓喜の表情を浮かべた。

「そうか。おまえは十七年間ずっと苦しみを抱いてきたのか」

 人気のない公園に、悪魔の笑い声が冷たく響く。


 首にまわされた少女の腕をはずし、ドルーは耳元でなにか囁いた。長く伸びた髪をふわりと揺らし、少女がゆっくりとふりかえった。

「まさか。流香なのか?」

 冷静だった月島の姿は失われ、目を見開き微動だにせず、少女の姿をじっと見つめている。少女は月島に微笑みかけた。ドルーと同じ、魔性の者が浮かべる、邪悪な微笑みだった。


「流香は自らの意志で夜の世界にきた。だれに強制されたわけでもない。我らとともに永遠のときを生きる道を選んだのだ」

「うそだ。そんな話にだまされると思うのか?」

「信じる信じないは好きにすればよい。だが、目の前の姿こそが真実だ」

 雲が風に流されて月を覆い隠し、あたりは闇に包まれた。


「聖夜よ、わたしは今日のこの日が来るのをずっと待っていた」

 闇の中で、ドルーの声が響く。

「長いようで短い年月だった。あとはおまえの覚醒を待つのみ。目覚めよ、我らの血を引く者よ……」

 歓喜に満ちた吸血鬼の笑い声は、闇夜にとけるように徐々に遠ざかっていった。


 やがてドルーたちの気配が消えあたりに静けさがもどったころ、月が顔を出して闇を追い払った。

 ドルーと流香、そして犠牲となった女性の姿はどこにも見あたらない。残された血だまりだけが、今のできごとが現実であったと無言で物語っている。

 静かな公園に繰り広げられた悪夢と牙が残した傷をあとにして、聖夜と月島は互いをささえるようにして家路についた。

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