第六話 帰ってきた美奈子
陽が沈んだのはいつだろう。
気づいたときには夜が訪れ、部屋は暗くなっていた。だが明りを灯すのも
このまま闇に包まれていたい。
孝則は胸に痛みを抱きながら部屋のベッドに横たわり、じっと天井を見つめていた。
美奈子がいなくなってから今日で三日だ。警察は事件の犯人が連れ出したと見て、失踪当夜、不審人物が出入りしなかったかを調べている。
すぐそばにいながら朝になるまで気がつかなかった自分がふがいなく、孝則の頭の中は後悔でいっぱいだ。
いつもなら些細な物音でも起きるのに、その夜に限って一度も目覚めることなく朝を迎えてしまった。不自然なくらいに熟睡していた。
人の出入りがあったら、絶対に目を覚ます自信がある。それなのになぜ気づけなかったのだろう。頭の中で何度もあの夜のことを思い出すが、いくらやっても答えは見つからない。
後悔といらだちと無念さで、孝則はおかしくなってしまいそうだ。
当然のごとく美奈子の両親からは責められた。辛いことだがそれを甘んじて受け入れるしかない。
昨日、事件を知った孝則の母親が父親の赴任先から電話をしてきた。すぐに帰宅すると言ったが、心配ないからと説得し、断った。
二年前、孝則の父は九州に転勤になった。家事一切が苦手な父親のもとに母親を行かせたのは、今年の夏のことだ。
自由気ままで気楽だったひとり暮らしが、今の孝則にはたまらなくつらいものへと姿を変えた。
だからといって母が身近にいたら、怒りの
テレビもラジオもつけていない部屋は、通りを走る車の音がときおり響くだけだ。孝則は静けさに耐え切れず、ステレオのスイッチを入れて音楽をかけた。イコライザーのインジケーターが、真っ暗な部屋でキラキラと光る。
孝則は音楽に耳を傾けながら、パネルをぼんやりと見ていた。
不意に、コツンと、なにかが窓に当たる音がしたような気がした。無視して音楽を聴き続ける。
流れているのは、美奈子の好きな洋楽のナンバーだ。
しっとりとしたバラードが流れるこの部屋で、孝則は美奈子を抱いた。白く柔らかい肌の感触が、今でも全身に残っている。
また窓のあたりで音がした。気のせいではなかったと思ったものの、それ以上追求する気にもなれない。
音楽にあわせて伸び縮みをするインジケーターに、美奈子の横顔が重なる。
部屋におかれているステレオは、オーディオに詳しい彼女が、孝則の好きなジャンルにあわせて選んだものだ。
スピーカーの上にはクラシックカーをかたどった貯金箱がある。美奈子からのバースディ・プレゼントだ。ベッドに乗せられたペアのクッションはふたりで選んだ。壁のポスターは、ふたりでロック・コンサートにいったときに買ったものだ。
スピーカーから流れる曲にあわせて歌う姿、宿題だった化学の問題集を手に眉をひそめるところ、おどける孝則を見て楽しそうに笑う顔。
部屋のいたるところに美奈子と過ごした思い出があふれている。
また窓になにかが当たる。
何度めかの音を耳にしたとき、孝則は音の正体を確認するために、ベッドから起き上がって窓を開けた。
通りの向こうに、こちらを見上げたまま立っている人影が見える。その影を見下ろした孝則は、わが目を疑った。
「まさか……」
シルエットは、孝則がずっと待ち続けていた人物に似ている。
「美奈子っ」
孝則は転げるように階段を下り、玄関先に飛び出した。
人影がいた場所にはだれもいない。会いたいという気持ちが見せた幻だったのか。孝則はわずかな可能性を信じて人影を探す。美奈子なのか関係ない別の人なのか、それだけでも確かめたかった。
女性の足ならそう遠くには行っていないはずだ。孝則は美奈子らしき人物を探して、家の近所を走りまわった。十分ほどあたりをさまよったが、思った成果を得られなかった。
希望が見えただけに落胆も激しい。孝則は重い足取りで階段を上り、自分の部屋の前に立った。
「あれ?」
ドアが閉まっている。慌てて飛び出したから、扉を閉めた記憶がない。孝則は訝しげに思いながらゆっくりと開けた。
「あっ」
足を組み両手をひざの上に重ねて、机の上に座っている人影がみえる。
「……だれだ?」
明りの消えた部屋の中、ステレオの表示盤に灯る光が影の人物にわずかに照らす。暗くて顔は解らない。だが親近感のあるシルエットは……。
「まさか——」
影は机から身軽に降りて、孝則に近づいた。カーテンの隙間からわずかに射し込む月明かりに、人影が足を踏み入れた。
「美奈子!」
そこにいたのは、失踪中の美奈子だった。孝則が近所を探しまわっているあいだに部屋に入ったのだろう。
「よかった。帰ってきたんだな」
美奈子は、胸元が大きく開き、身体の線を強調するような赤と黒で彩られた衣服を身にまとっていた。それまで選んだことのない、成熟した身体を誇示するような衣装だ。
「今までどこにいたんだ? おれ、ずっと心配して……」
孝則の言葉が途切れる。
漂うように美奈子が近づく。それまで見せたことのない妖しさに、孝則は目を奪われた。
艶のある唇が妖しい笑みを浮かべる。赤い口紅で飾っても、ここまであざやかな色は出せないだろう。
少年のような魅力の少女は、娼婦の色香を持つ女性に変わっていた。
白い花が血を吸って赤く染められたようだ。
美奈子の持つ毒々しさに、孝則は棘を持つ真紅の薔薇を連想した。
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