第五話 伝わらない気持ちと理解したい気持ち
「聖夜、いつまで寝てるの? 朝だよ。いい天気だよ」
とびきり明るい声と、窓からの陽射しに刺激されて、聖夜は目を覚ました。
「え、あれ?」
視界に飛び込んできたのは葉月の顔だ。その距離十センチという近さだ。
聖夜は部屋をぐるりと見まわし、状況を把握する。
どうやらベッドの横におかれた椅子に座り、そのまま眠ったようだ。だがいつ眠りについたのか覚えていない。
どこまでが現実で、どこからが夢なのか。昨夜のことを思い出そうとしても、頭に霧がかかったようではっきりしない。
額に手を当てて考えていると、葉月が聖夜の目をじっと覗き込んできた。
「ずいぶんすてきな夢を見てたようね」
にらむような視線に加えて、なぜか口調が厳しい。理由が思い当たらない聖夜は、どういう反応をしたらよいのか解らないまま、葉月を見返す。
「ルカってだあれ? 女の人じゃないの?」
葉月は両手を腰にあてて、わずかに口を尖らせている。やきもちを焼いているのが解ったとたん、聖夜はつい吹き出してしまった。
「ねえってば。笑ってないで答えてよ」
「ごめん。流香は母さんの名前だよ」
頬を少しふくらませた葉月に、聖夜は微笑みながら答えた。
「お母さんって、たしか、聖夜が小さいころに死んだっていう?」
うなずく聖夜を見て葉月は顔をくもらせ、申し訳なさそうに窓のそばに移動する。
「ごめんなさい……」
「謝ることないよ。気にしないで」
聖夜にしてみれば、軽いジェラシーを感じてもらえたことが嬉しかった。
朝日を背にして窓際に立つ葉月を、聖夜は目を細めて見つめた。いつもはポニーテールに束ねた髪がほどかれて、葉月の細い肩にかかっている。
「夕べは遅い時間までおしゃべりにつきあわせてごめんね。すっかり勉強の邪魔しちゃった」
「おしゃべり?」
聖夜の記憶には残っていない。昨夜はなにをしていたのだろう。
テーブルに目をやると、持ってきたサンドイッチを食べた跡が残っている。いつ一緒に食事をしたのだろう。あの夢の前か?
あいまいなことだらけで、なにがどうなっているのか解らない。
あごに手を当てて考えこんでいると、葉月はまた不機嫌そうに聖夜をにらむ。
「忘れたの? 受験終わったら、美奈子たちも誘って卒業旅行しようって約束したじゃない」
「いや、覚えてる。覚えてるよ」
聖夜は慌てて葉月に会話をあわせた。だが、そのような約束をした覚えがない。
酒を飲みすぎると記憶が欠落するというが、今がその状態に近いのだろう。だが酔うどころかアルコール一滴すら口にしていない。
狐につままれた気がする。
不規則な生活が原因だろうか。休養が必要なのは自分の方かもしれない。
腕組みして考えている聖夜の横で、葉月は三つ編みを始めた。ポニーテールと違って、少し幼げに見える。
手を動かしながら、葉月はつぶやくように言った。
「早く良くなればいいのに。美奈子のいない卒業旅行なんてつまらない」
ここ一年は、なにをするのも四人が一緒だった。卒業旅行は、そんな仲間とともにすごす最後のチャンスかもしれない。
それぞれの夢を選んで進む四人の道は、今後も重なることがあるだろうか。
「孝則くんと交替したら、どこかでモーニング食べてかない? でね、少しショッピングにつきあってもらえたらうれしいんだけどな」
「いいよ。午前中だけになるけど、葉月のために時間をあけるよ」
「本当? うれしい」
無邪気に微笑む葉月は、いつもよりずっとかわいく見えた。思わず抱き寄せてすばやくキスをすると、葉月は聖夜の肩に腕をまわし、身体を密着してくる。
予想もしなかった行動に驚いた瞬間、ドアをノックする音がした。閉じた目を開き横目で見ると、孝則が頬を赤くし、扉に寄りかかるようにして立っていた。
「すまない。覗き見するつもりはなかったんだけど、ドアが開いてたから……」
ふたりは反発する磁石のように勢いよく身体を離した。
「あ、あたし、売店に行ってくる」
葉月は真っ赤になり、孝則の顔も見ないで病室を飛び出した。
「ごめん、ここでやることじゃなかったね」
「なあに、そんなこと気にすんなって」
バツの悪そうに謝る聖夜の肩に腕をまわし、孝則は耳元で問いかけた。
「それより聖夜、ゆうべ葉月と寝たのか?」
とっさになんのことか理解できなかったが、言わんとすることが解ったとたん、
「な……」
今度は聖夜が真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと。葉月とはまだ、キスだけ、だよ」
「じゃあ、首筋のキスマークは? 動かぬ証拠に見えっけどさ」
孝則は聖夜を鏡の前に立たせた。
「あっ」
聖夜の首筋に、赤い
キスマークと言われても反論できない。
夢の一部がおぼろげによみがえる。
母に似た少女が出てきて、聖夜の首筋に触れた。赤い痣はちょうどそのあたりに残っている。
「あれは夢じゃなかったってこと?」
聖夜がだれに言うでもなくつぶやくと、
「夢? ああ、そうかい。夢みたいによかったってことか」
ヒューと口笛を吹き、孝則がからかう。
「ち、違うって。誤解だよ」
「照れんなって。クラスでも公認のカップルなのに、今さら無理して隠すことねえだろ」
と言うと孝則は言葉を切り、廊下に目をやった。外にだれもいないことを確認すると、聖夜の耳元に口を近づけ、小声で告げる。
「実はおれと美奈子も……」
「ええっ? いつのまに?」
病室から響く聖夜の大声に、通りすがりの看護婦が怪訝そうに中を覗いた。孝則は慌てて聖夜の口をふさぐ。
「ごめん。つい」
謝る聖夜を横に、孝則はベッドに横たわる美奈子を見つめた。伏せられた瞳からは、笑みが消えている。
「事件の前の日だよ。卒業後のことを話していたら、急に黙っちまって、とうとう泣きだしたんだ」
美奈子は涙の理由を語ろうとしなかった。でも孝則には解っていた。
「不安を消して、思いを伝えたかった。だからおれは……」
孝則は眠っている美奈子の頬にそっと触れる。
「でも美奈子の不安は消えなかった。今が幸せだから、今のままでいたいって言うんだ」
——今が幸せだから……。
孝則たちだけの問題ではなかった。
高校を卒業したら聖夜も葉月とは離れなければならない。ふたりの少女は、そのことで互いをなぐさめあっていたのだろう。
「それが元で
孝則はひざまずき、美奈子の頬に顔を寄せた。
「初めての相手だぞ。好きでもない女を抱けるわけがないだろ。だけど美奈子には、解ってもらえなかったんだ」
孝則の肩が小刻みに震える。聖夜よりも体格がいいのに、ずっと小さく見えた。
「気持ちがつながっていれば、距離なんて関係ない。でも美奈子にはおれの思いが伝わってないんだ。もしこのまま目覚めなかったら、どうすればいいんだ?」
「美奈ちゃんは解ってるよ。孝則の本当の気持ちが」
聖夜は軽く孝則の肩をたたいた。今はなにを言ってもなぐさめにならないだろう。それでも聖夜は、言葉をかけずにはいられなかった。
病室を出て待合室に行くと、葉月がいすに座ってテレビを見ていた。手元には缶コーヒーが三本ある。近づく聖夜に気づき、顔を上げた。
「孝則くん、大丈夫?」
「うん、多分ね」
葉月の隣に座りながら、聖夜は続けた。
「美奈ちゃん、早く目を覚ますといいね。そしたら孝則も元気になって、また前のようになにもかもうまくいくだろうな」
「そうね」
葉月は聖夜から視線をはずし、弱々しくうなずいた。聖夜の胸を、鈍い痛みが走り抜ける。
「葉月はぼくと離れてしまうのが、つらくない?」
葉月は一度聖夜の目を見てなにかを言いかけたが、視線を足元に落とし、口をつぐんだ。
テレビのワイドショーが、「ヴァンパイア殺人事件」と名づけた猟奇事件の続報を伝える。
一週間たった今も新たな情報が見つからないこと。唯一の目撃者は意識不明であること。世間の関心が高いわりには、捜査が進んでいないこと。それらの苛立ちをなにかにぶつけるように報道していた。
「美奈子は……」
つぶやくような声だった。
「孝則くんの気持ちが離れるんじゃないかって不安がってた。本当に彼が好きだから」
「葉月はどうなの?」
「あたしはね……」
葉月は窓の外に視線を向ける。
「美奈子の気持ちは痛いほど解る。でもね、あたしは物理的な距離が、心の距離になるとは思ってないの」
視線を聖夜に戻し、葉月はにっこりと微笑んだ。
「大昔じゃないのよ。声が聞きたければ電話がある。会いたくなったら、新幹線でも飛行機でも使えばすぐにでも会える。ネットを使えばみんなとチャットできるし、顔を見ながらだって話せるのよ。
今どき遠距離恋愛くらい、なんてことないんだから。そうでしょ?」
意外にも元気な姿に、聖夜は少し拍子抜けした。葉月は葉月で気持ちの整理をつけているようだ。ただ本音を言うと、もう少し寂しがってほしかった。
小さなため息を吐いたあとで、聖夜は窓の外を見る。
冬の空が広がっている。灰色の雲が立ちこめ、青空は途切れ途切れにしか見えない。
今年ももうじき終わる。時間の流れを拒否することはできない。流れる季節はすべてのものに等しく訪れる。
そして春が来たとき、四人は離ればなれに歩き始める。それぞれの未来に向かって。
解って選んだ道だったが、今だけは感傷的になるのを抑えられそうにない。
聖夜とて幸せな時間を手放したくなかった。
でも、いつまでもここにはいられない。雛が巣立ちのときを迎えるように、自分の翼で羽ばたかなくてはならない。そのときはもう目の前に迫っている。
テレビの画面がクリスマスにちなんだCMを流していた。その日聖夜は十八歳になる。
時間の流れを拒否できないのは、聖夜も同じだった。
* * *
時間が止まればいい。幸せな今のまま、ときが止まればいい。
それが願いだった。それが望みだった。ときの流れを拒否できないと解っていても、祈らずにはいられなかった。
そんな少女に、彼は
——夜の世界に来るがいい……。
そこでは時間は流れない。
人々はいつまでも今を保ち続けている。幸せだったときのままで。
——もしも望むなら、おまえを夜の住人にしよう。そして、永遠の命と若さを約束しよう。その赤き血と引き替えに……。
耳元でだれかの囁きが聞こえた。それに刺激された美奈子は、真夜中過ぎに目を覚ました。
病室の灯りは消えている。隣のベッドに目をやると、孝則が静かな寝息をたてて眠っている。
美奈子は無表情のままで、ゆっくりと起き上がり、静かにベッドから出た。
冬の凍えた空気が、薄いネグリジェだけをまとう身体を刺す。それでも行かなければならない。
——夜の世界に来るがいい……。
頭の中で声が響いた。闇が美奈子を招待する。
——早く来るがいい。迷うことなどないのだから。
美奈子は扉を開けて廊下に出た。
病院は寝静まっている。非常灯やナースステーションの灯りすら消えて、すべてが闇に包まれていた。
真っ暗な廊下を、美奈子は進んだ。
声に導かれるように。
闇の中から響いてくる、甘く囁く声に——。
美奈子は夜の中に姿を消した。
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