第一話 悪夢と穏やかな現実
「あ……」
目を開けたとたん、見慣れた風景が視界に飛び込んできた。ここは自分の部屋で、ベッドの中だ。外はまだ暗い。夜明けまで時間がありそうだ。
「今のは夢だったんだ」
それでも胸の鼓動は恐怖で高まったままで、全身に冷汗が流れている。それほど現実感があった。
だがひとたび目を覚ませば夢は幻となり、実際に降りかかることはない。
「どうした? なにかあったのか?」
ドアが開き部屋の明りが灯され、聖夜の父、
縁なし眼鏡の奥の誠実な瞳が、心配そうに息子を見つめている。
「うん、なんでもないよ。ちょっと変な夢見てさ」
ベッドから上半身を起こし、聖夜はきまりの悪そうな表情で答えた。
背中まで伸びた栗色の髪が細い肩にかかる。シャープなあごとやや狭い肩幅が、線の細さを印象づける。
「夢のせいで悲鳴とはね。怖い夢でも見たのか?」
月島は腕を組み、あきれたように小さく息を吐いた。聖夜は人差し指で頬をかきながら、照れくさそうにうなずく。
「まるで幼稚園児だな。まあ、夜泣きしなかっただけでもよしとするか」
「ひどいなあ。それが親の言うこと?」
「親だから言うんだ。悔しかったら、おまえも早く親になるんだな」
「っと、それって聞き方次第で変な意味に取れるよ。これが教師の言葉かと思うと、生徒としては先生を尊敬できなくなるじゃないか」
「なにばかなこと言ってるんだ。さっさと寝直さないと授業中に居眠りするぞ」
文句を言う聖夜を横目に、月島は部屋を出ようとした。その姿がパジャマでないことに気づき、聖夜は枕元の目覚まし時計を見た。デジタルの文字盤は午前四時を表示している。
「父さん、ひょっとして徹夜?」
「ん? ああ。期末テストの採点があったからな」
おやすみ、と言ったあとで明りを消し、月島は部屋を出ていった。
月の光がカーテンのすきまから細く射し込み、枕元の本と写真立てを照らす。何気なく表紙に視線を移したとたん、夢が鮮明によみがえり、聖夜は気分が悪くなった。
あれではドラキュラそのものだ。
寝る前に読んだ自分が悪かったと後悔しながら、枕元の本を手に取る。分厚い文庫本はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』で、レンタルショップで借りた映画の原作だ。
たまたま目についたコッポラ監督の『ドラキュラ』を恋人の
意外な感じがして原作に手を出してみたが、こちらは一応ホラー小説のようだ。とはいうものの、ハリウッド映画のような派手な作品に慣れた目には怖い小説とは思えず、ドラキュラを追いつめるシーンはホラーというよりアクション映画を連想した。
あの夢は映画と小説の影響に違いない。
夢の中で聖夜はドラキュラの役を演じていた。少女の首筋に牙を立てたときの快楽と、口の中に広がった血の味が、記憶にはっきりと残っている。それは甘い香りと、今まで味わったことのない魅惑的な口あたりだった。
「甘い? 魅惑的? 冗談じゃない」
無意識のうちに感覚を再現し記憶にとどめようとしている自分に気づき、聖夜は慌てて両手で頬を二、三度叩いた。
生まれてこの方、ホラー小説からスプラッタームービーまで、恐怖物を避けてきた。自分からわざわざ怖い体験をしようとする人の気持ちが解らない。
映画一本と小説一作であのような夢を見てしまうとは、自分には恐怖物への免疫がないとつくづく思う。
枕元に本を戻すとき、そばの写真立てに目を惹かれた。
写っているのは聖夜の母、
枕元の写真は出産直後のものだ。乳飲み子の聖夜をだき、優しい笑顔を浮かべている。長い髪を三つ編みにしたあどけない姿が、まだ幼さを残していた。
半年後に訪れる死の影はどこにもない。
聖夜にとって、実感のともなわない母親像だ。父は母のビデオをひとつも撮影していない。残された数枚の写真が母親の記憶すべてだ。夢にすら見たことがない。
生きていれば三十六歳。高校生の息子がいるにしては若い母親だ。
だが流香の時間は十八歳でとまった。死者のまわりは時間が流れない。すぎゆく季節は流香をすりぬける。写真の中の母はいつまでも十八歳のままだ。
今年の誕生日で聖夜も十八歳になる。あと
高校三年生の聖夜には、子供を持つことはおろか結婚すら実感がわかない。
流香は今の自分の年齢に家庭を持ち、子供を育てていた。十八歳という若さにもかかわらず、将来をしっかりと
それにひきかえ聖夜は同じ歳だというのに、あまり真剣に考えていなかった。
大学進学にむけて受験勉強に専念しているが、教師になりたいという目標もなにか特別な思いがあってのことではない。父親を見てその職業をなんとなく身近に感じ、選んだ程度のような気がする。
内部進学できる大学ではなく外部を選んだのは、そこに不満があったからではない。親元から離れてひとり暮らしを経験するための手段にすぎなかった。
春になって家をでるとなると、気にかかることがひとつある。
「母さん、ごめんなさい。例のこと、今日こそ父さんに話すよ。ぼくだっていつまでもここにいられないから」
こういうとき母ならどんなふうに答えるだろう。いくら考えても、記憶のない聖夜には見当がつかない。
ベッドから抜けだし窓を開けると、星座を横切る流れ星が偶然目についた。冬の冷たく澄んだ空気が汗ばんだ肌を凍えさせる。
聖夜は窓を閉め部屋の明りを灯し、机にむかった。もう寝られそうになかったので、受験勉強にあてたかった。共通試験まであと何日もない。
写真立ての流香は、優しく微笑みをかえしている。それは母親が子供にむける、慈愛に満ちた笑顔だった。
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