第二話 突然の告白

 東の空が白むころ、聖夜の頭から悪夢はすっかり消え去り、代わりに英語が詰まっていた。

 ミュージックプレイヤーから流れる英単語を復唱しながら、朝食を準備する。父ひとり子ひとりの男所帯で、食事の準備はいつのころからか子供の役割となっていた。


 コーヒーの香りがキッチンを満たすころ、月島が新聞片手に入ってくる。徹夜明けのせいか、どことなく気怠けだるそうだ。

 毎朝こんな具合にぼうっとしている顔が、教壇に立つと引き締まる。それが聖夜には不思議でならない。


 月島は、熱心な教育とユーモアあふれる授業で、生徒たちに人気がある。

 特に女生徒のファンが多いのは、妻を亡くして独身だから、というだけではなさそうだ。


 父のいる中高一貫校に入学したその日に、いきなり上級生の女子から「あたしのことをお母さんと呼んでね」と言われたのを筆頭に、手作りのプレゼントやラブレターを渡すように頼まれたことは数え切れない。


 いやと言えない新入生はすべてを父に届けたが、ことごとく受け取りを拒否された。

 宙に浮いた手紙や贈り物の処分に困った聖夜は、宅配業務をすぐに廃業した。にもかかわらず、今でもことづけを依頼され、断るのに苦労する。


 目の前にいる父の姿を彼女たちに見せたら、ファンの数も減って自分の負担が軽くなるかもしれない。

 などと少し意地悪なことを考えながら、聖夜は食器棚からコーヒーカップを出した。


「あのあと、夢にうなされて夜泣きなんてしなかったか?」

「期待に応えられなくて悪いけど、目が冴えたから朝まで勉強してたんだ。夢なんて見る暇なかったよ」

 からかうような口調で話しかける父に、聖夜はコーヒーを淹れながら平然と答える。


「さすがは受験生だ。父親ながら感心する」

「感心もいいけど、早く食べてくれない? 後片づけする時間がなくなるんだ。台所に立ってて遅刻しましたって言い訳を、学校が認めてくれるなら別だけどね」

「そうだな。おまえが遅刻したら、わたしが生活指導の先生に説教されるからなあ」


 月島はうなずき、新聞を広げながら朝ご飯を食べ始めた。聖夜もテーブルにつき、トーストをほおばる。

 時計代わりにつけているFMラジオから朝にふさわしい音楽が流れ、食器の触れる音がときおり響く。穏やかないつもの朝の風景だ。


 今なら言えるかもしれない。


「ねえ、父さん」

「ん?」

 月島は視線を新聞に向けたまま、軽く返事をする。


「ぼくが大学に合格して、お互いにひとり暮らしを始めたら、食事の支度とかどうするつもり?」

 月島の視線が新聞から離れた。聖夜の顔を見てわずかに眉をひそめる。

 軽く首を傾げながら新聞を閉じ、マグカップを手にした。


「こう見えても料理の腕はたしかだぞ。親父とお袋が死んでからは、しばらくひとりで生活してたからな」

「そうじゃなくて、ぼくが言いたいのは……」


 聖夜は口ごもってしまった。やはり切り出しにくい。

「はっきり言ったらどうだ。わたしをじらしてどうする」

 聖夜は父から視線をはずし、手元のマグカップを見る。


「あのね、父さんもそろそろ……再婚を真剣に考えたらどうかな」

「さ、再婚?」

 月島はコーヒーを喉につまらせたらしく、咳き込みながら、それでも言葉を返そうとする。


「どうした、急に」

「若い身空で妻を亡くして、あとは残された子供のために費やした。気がついたら人生も峠を過ぎて再婚どころじゃない。それもこれも『聖夜、すべておまえが悪い』なんて言われるのはいやだからね」

 父はあきれて口を半開きにしている。それを見ながら聖夜は続けた。


「今まではぼくがいたから、簡単に再婚ってわけにもいかなかったよね。でもそろそろ真剣に考えてもいいころだよ。だれかいい人いないの? あ、生徒だけは勘弁してよね。同級生や下級生を『お母さん』って呼びたくないから」

 月島は困ったような表情で、スクランブルエッグを口に運ぶ。


 父の態度は予想通りだった。素直に承知しないだろうと思ってはいたが、少しくらいは喜んでほしかった。

 まだ若いのだから無理して独身を通すことはない。いつまでも再婚しないし、彼女らしき人物を作らないのは、今でも母だけを愛しているというあかしなのだろうか。


 無理して平然をよそおっている父を上目遣いで見ながら、聖夜はコーヒーを飲み干した。




「父さん、早くしないと乗り遅れるよ」

 三メートルうしろを走る父をふりかえり、聖夜は白い息を吐きながら声をかけた。

 普段は体力の差を感じることはないが、こんなときはいやでも意識してしまう。聖夜は時間と父を気にしながら駅までの道のりを急いだ。


 先ほどの唐突な提案のせいで、朝食の時間が大幅に長びいた。そのため、家を出る時刻が普段より遅くなってしまった。


 駅の階段を駆け上がり、かろうじていつもの電車に飛び乗る。

 汗ばむ肌に車内の暖房は暑すぎた。聖夜はマフラーをはずして、何気なくあたりを見まわす。


 見慣れた制服の中に、長身でがっちりした体格の高校生をみつけた。佐倉さくら孝則たかのり、バスケット部の主将で聖夜とは中学時代からの親友だ。

 少し混み始めた車内を移動して孝則に近づき、聖夜はうしろから声をかけた。


「おはよう。めずらしく早い電車だね」

 元気な挨拶あいさつが返ると思った。

 が予想に反して、孝則はゆっくりとふりむき、軽く手を上げるだけだ。驚いたことに、顔には憔悴しょうすいの影が見られる。


「どうかした? 見るからに疲れてますって感じだよ」

「いや、実は……」

 と孝則がそこまで言ったとき電車が次の駅に着いて、人がたくさん乗ってきた。


「聖夜。おはよう」


 明るくはずむような声が耳に届いたかと思うと、笑顔の輝く少女が聖夜に手をふった。

 少女は近くにいた月島に朝の挨拶をして、聖夜たちに歩み寄った。ポニーテールが軽く揺れて、少女の細い肩を彩る。小柄ではないが、長身の聖夜たちと並ぶと肩のあたりまでしかない。

 渡瀬わたせ葉月はづき、聖夜の恋人だ。


「葉月、おは……」

「葉月、美奈子みなこは?」

 挨拶をしかけた聖夜をさえぎり、孝則が不安げに問いかける。

 唐突な態度に気づかなかったのか、葉月はいつもと変わらない態度で答えた。


「今朝は待ちあわせの場所にいなかったの。寝坊したんじゃないかな?」

 孝則の恋人である香川かがわ美奈子みなこが電車を一本遅らせるのは、そう珍しいことではない。気にとめるほどではないはずだ。


 しかし孝則は、

「そうか……」

 と肩を落とし、力なくつぶやいた。

「美奈ちゃんとケンカでもした?」


 心配して問いかける聖夜に、孝則はなにも答えない。吊革につかまったまま、視線を床に落として黙っている。

 聖夜は次の言葉をなくし、流れる景色を見るでもなく見ていた。葉月も聖夜の隣で、無言で外を見ている。


 人がたくさん乗っているわりに、車内の話し声は少ない。線路を走る電車の音がやけに響く。

 しばらくして孝則が、絞り出すように言葉を吐いた。


「美奈子、きのうおれと別れたあと、家に帰ってないんだ」




 昨日の放課後、孝則と美奈子はいつものように一緒に下校した。途中ファスト・フードにより、他愛のない会話をする。

 担任の愚痴、クラスメートの恋のうわさ話、テストの悩み、好きなテレビ番組。ごく普通の高校生の会話だ。


 が、話題が大学受験になったとき、ふたりのムードは険悪なものとなった。


 美奈子は内部進学できる大学に行くが、孝則は外部を受験する。それは都会の大学で、合格すればふたりは離ればなれになってしまう。

 美奈子はそれがずっと気にいらなかった。離れてしまう四年間のことを悲しく思い、なんとかならないかといつも悩んでいた。

 この日もそのいらだちを孝則はぶつけられてしまった。


「美奈子はおれが受験に失敗すればいいと思ってんのか?」

「そんなこと言ってない。あたしはただ——」

 孝則の激しい口調の前に、美奈子の言葉が途切れる。そのままうつむいて口をつぐみ、孝則がなにを言っても唇をんで返事すらしない。


 そんな態度に孝則は腹を立て、思わず大声を出してしまった。店内にいる客たちの視線が集中する。

 美奈子は一度だけ孝則に顔を向けた。潤んだ瞳がじっと見つめ、唇が小さく動き、なにか言葉を残そうとする。だが無言で席を立ち、美奈子はひとりで店を出た。


 テーブルに涙の粒を残して。




 美奈子が泣いていた。それ自体が聖夜には衝撃的だった。

 聖夜の知る美奈子は、笑顔の絶えない明るい女の子だ。ショートカットを好み、細身でスポーツ万能の、中性的な魅力にあふれている。大きな黒い瞳がよく動き、口元にはたえず笑みを浮かべ、嫌味のないジョークを言っては場を盛り上げる、そんな印象を抱いていた。

 その美奈子が涙を流すくらいだ。よほど思いつめていたのだろう。


「頭が冷えてからおれは美奈子に電話をかけたんだ。でも何度かけても留守電に切り替わる。本当に怒らせちまったと思って、なんとか話をしたくて家の電話にもかけた。でも何回かけても、帰ってない、の一点張りなんだ。

 居留守を使われたかと思ったから、謝るつもりで今朝は美奈子の乗る電車に合わせたけど……」

 孝則は眉をひそめ、不安げな視線を足元に落とした。


「香川さんも佐倉くんがいつも乗ってる電車に乗ろうとしてるかもしれないな。お互いが同じことを考えて、すれちがったんじゃないかな」

 暗い表情をしている三人に声をかけたのは、月島だった。

 教師の言葉は意外に説得力があったらしく、孝則はやや元気をとりもどしたかに見えた。


 だが月島の予想ははずれていた。

 孝則の不安が悲しい現実となるまでには、そう長い時間は必要なかった。



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