07.聖母

 ふっと目を覚ますと、心配そうなジアードの顔が目に入った。

 体がだるく、うまく手足を動かせない。

 窓からは光が入っていて、夜は過ぎたのだなと理解する。


「ロレッタ……」

「わた、し……?」


 ジアードが、眉を下げながら少し微笑んでくれる。


「少し疲れたんだろう。ゆっくり休むといい」

「あなた、お仕事は……」

「今日は休みを取った。明日から行くよ」


 少し疲れただけ……確かに、連日イリス教会に行ってたから疲れていたのかもしれない。

 けれども、こんなに全身がだるく、手足を動かせなくなるものだろうか。

 ふと、消毒液のような匂いがした。おそらく、もう医師が来たあとなのだろう。


「お医者さまは……なんて……」

「……ただの過労だよ」


 そっとそらされる瞳。

 嘘が下手な人だ。いつのも愛しているという言葉に比べて、あまりにもお粗末な演技。


「……そう」


 ジアードの嘘は、慣れている。きっと、彼の心の中は大喜びしていることだろう。

 これでようやく、好きでもない女と離婚もせずに別れられるのだと。


 私は、魔女だったのかしら……


 これはきっと、魔女の選別。過労なんかでは決してない。


 魔女だったのかもしれないわね。好きな人を、相手の意思とは関係なく結婚させてしまうくらいには。


「ん……どうした?」


 ふふと笑みを漏らしたロレッタに気づき、ジアードが優しく目を細めてくれる。


 愛しい人。

 そして好きでもない女と結婚させられた、可哀想な人。


 きっと、あと一ヶ月もしない間に彼を解放してあげられる。


「今まで、ごめんね……」

「……なにを謝っているんだ。なにも謝ることなんか」

「じゃあ、ありがとう」

「やめてくれ……」


 ジアードの顔が苦しみに歪む。こういう演技だけは、上手くなってしまったのだろう。


「大丈夫だ。ロレッタもローザも、すぐ元気になる」

「ええ……そうね」

「そうしたら、長期の休みをとるよ。どこかに旅行しよう」

「まぁ、すてきね……」

「じゃあゆっくり眠って休みなさい。愛しているよ」


 そういってジアードはロレッタに口づけた。男性はうつらないとされてはいるが、その不用心さに息が漏れる。


 いえ、逆かしら?

 用心深いから、愛しているという言葉が嘘だとバレないようにキスしたんだわ。


 もうとっくにバレているのにと思うと、おかしくって少し笑えた。



 ロレッタが倒れてから、二週間が過ぎた。

 体は変わらず思ったようには動かない。頭はしっかりしているのに、寝たきり状態が続いていた。

 普段の介護は、マリアたちがしてくれている。うつらないように口にはタオルをしっかり巻いて、終わった後にはちゃんと手洗いうがいをしているとのことだ。


「……あなたにうつらなければいいんだけど……」

「過労はうつりませんわ、奥様」

「ふふ、あなたのその重装備を見れば、自分が過労でないことくらいはわかるわよ」

「……」


 口の達者なはずのマリアは、それ以上なにも言い返すことはしなかった。


「ジアードは騙せていると思っているのよ。かわいい人よね……私はとっくに気づいているというのに」


 病気のことも、愛しているという嘘も……すべて。


「奥様を不安にさせたくないのですわ。ジアード様はお優しい方ですから……どうぞ奥様も、今まで通り気づかないふりをしてあげてくださいませ」


 ロレッタよりもジアードを思ったマリアの言葉に、思わず冷笑が漏れる。


「どうしたの、マリア。いつもはばれないように細心の注意を払っていた、あなたらしくもない」

「……奥様、なにを?」

「知っているのよ。マリアはジアードが好きだってことくらい」

「誤解ですわ、奥様」

「いいのよもう隠さなくて。邪魔な女が死んでくれると、心では喜んでいるのでしょう?」

「奥様、おやめくださいませっ」


 悲壮な声が上がった瞬間、彼女の目からぽろりと涙が溢れた。

 なぜマリアが泣いているのか理解できず、ロレッタは目を丸める。


「奥様……私は十六の時から十五年間、奥様にお仕えしているのですわ! 僭越ながら、奥様のことを誰よりも理解しているのは、私だと思っております! ジアード様よりもずっと長い時を、奥様とともにしているのです!」


 ぽろぽろぽろぽろ涙を流しながら怒るマリアの顔を見るのは初めてで。

 ロレッタはきょとんとベッドから彼女を見上げる。


「……ほ、本当をいうと……奥様のいう通り……ジアード様をお慕いしているのです、けれども!」


 一瞬だけもじもじとしたマリアは、すぐさま語尾を強めていった。


「ジアード様と同じくらい、奥様のことを大切に思っているのですわ! ですから奥様が嫌がることなど、絶対に致しませんことよ! 奥様が悲しければ私も悲しいですし! 奥様の喜ぶお顔は、私の至高なのです! だ、だれが……奥様がいなくなって喜ぶなどと……っ」


 ふえ、とマリアの顔が大きく崩れた。


「そ、そんなわけが、ひ、ひっく。私……、お、奥様がいなくなったら、と、ひっ、思うだけで……っ」


 うわぁあ、とマリアがベッドに泣き崩れる。

 こんなに感情をぶつけられたのは、十六年間で初めてだった。なんとか手を動かし、彼女の頭に触れる。


「マリア……」


 彼女がそんな風に思ってくれていただなんて、考えもしていなかった。

 隙あらばジアードをとるつもりではないかと、勘繰ってしまっていたから。大切な、友人であるというのに。


 私がそう、思い込んでいただけ……?


 泣きひしるマリアを見て、ロレッタの胸はズキズキと痛みを発する。


「ごめんなさい、マリア……私は、あなたを誤解していたのね……」

「お、奥様ぁ……」

「ふふ。私がいなくなった後、あなたがジアードと結ばれても、私はきっと恨まずにいられるわ……ありがとう」

「なにを、おっしゃって……」


 マリアが気持ちを話してくれていなかったら、おそらくは呪う勢いで恨んだだろう。マリアのことも、ジアードのことも。


「マリア、私はね……悔しかったのよ。ジアードの心を奪っている、あなたのことが」

「……はい?」

「私と結婚したのは、よくある貴族の政略と、ジアードの責任感からよ。私はジアードを愛しているけど、あの人は私なんかにこれっぽっちの愛情も抱いていないの」

「はぁ? なにをいってやがんですの!」


 カッと目を見開いたマリアは、地の声と素の顔を出す。

 滅多に見せない顔だが、こちらも十三年間で何度も見てきた彼女の本性だ。


「ジアード様が奥様に愛情を感じていないー!? んなわけがないでしょうに! 見てくださいよ、あの毎日とろけるような顔して奥様を見つめる瞳をー! それに気づけないようなら、奥様はにぶにぶ大魔神のうすらとんかち、掃いて拭いてゴミ箱いきですわー!」


 ぜーぜーと肩を三度揺らしたマリアは、ハッと我に返っている。

 相変わらずキレる彼女は面白いと、ロレッタはくすくす笑った。


「も、申し訳ございません、奥様……つい……」

「いえ、いいのよ」


 ジアードの気持ちもまた、ロレッタは誤解していたのだろうか。

 けれど好きでないのに結婚していたのは確実で。にわかに信じられることではなかった。

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