太陽はひとつ

終電

太陽はひとつ

 プールの水越しに見る太陽は、そうでない時と違って、霞んで、滲んで見える。



「……はぁっ」

 プールから上がると全身から雫が垂れる。身体中が水を纏うこの瞬間が俺は好きだ。

 ホースの蛇口を捻る。夏が近づくこの季節は虫が活発に活動を始める。と同時に、虫が比較的平気な部員は水泳部の虫追い出し隊として暗躍する。

 背後で小さく飛沫が上がった。

「速いねぇ。流石エース。さっきの何秒?」

 アキラが軽く息を切らしながら見上げてくる。無防備な姿に思わず腹が立った。

「知らねーよ」

 そう言いながら俺はホースの先を軽くつまんでアキラの方へ向ける。元々教える気なんてなかった。

「ちょと、酷いよ」

 アキラは水泳部のくせに濡れるのを嫌がる。水中に潜るのは平気だが、不均等に濡れている状態が嫌らしい。

「あぁもう濡れた。気持ち悪い……。タオル取って」

「はいよ」

 タオルを渡した後も、射抜くような視線を感じた。

「……何?」

 まさか水をかけたことを怒っているわけでもないだろう。

「なんでもない。お前はなんでそんなに泳ぐの速いのさ」

「小さい頃からやってるからな。それでも速いのは背泳ぎくらいだよ」

「背泳ぎが得意って珍しいよな。どうして?」

「そうか? 別に得意なのも理由があるわけじゃないけど……」

 幼稚園の時に行った、夏の水泳教室。水の上で寝ているような感覚が気持ち良くて、そのまま仰向けで沈んだ時に見える太陽が好きだった。全てを焦がしてしまうような膨大なエネルギーも、ここではほのかに揺らぐちっぽけな灯にすぎなかった。水の中では太陽すらも敵わない、俺は無敵だった。少なくとも、そう思える感覚が俺を魅了した。

「背泳ぎで沈んでる時の景色が好きなんだよ」

 アキラはポカンとして「天才の言うことはわかんねぇや」と呆れたように笑った。

「アホ」

 そう言って俺も笑った。笑ってみせた。


「練習終わりでーす!」

 今年入ったマネージャーは、元気で明るくて俺ら野郎の間で好感度が高い。

高梨たかなしちゃん、風邪引くよ」

 遠くで馬鹿みたいに緩んだ部員の声が聞こえる。高梨が明らかに困っているのにあの馬鹿どもは。

「おい! 行くぞ!」

 確かに夏が近いとはいえまだ夕方は冷える。下心がないなら高梨も素直に喜べるだろうに。いや、やっぱりそれでも迷惑だと思うのだろうか。ちらりとアキラを見たら目が合ってしまった。

「……なぁ、お前、あれ見てなんか思わねぇの?」

「はぁ? 何が?」

 アキラは心底わからないというように顔を歪めた。

「だってお前と高梨、付き合ってるんだろ?」

「ちげぇよ。高梨とはそんなんじゃないって。……何、お前高梨狙ってんの? あれは倍率高いぞ〜」

「そうじゃねぇよ」

 高梨はかわいくていいマネージャーだと思うが、それ以上の感情は一切ない。そもそも部活には色恋を持ち込まない主義なのだ。俺の強さはそこにあると、かつて監督や先輩にも言われたことがある。

「だよなぁ。ま、お前はさ、大会頑張ってくれよ。才能に恵まれた者としての宿命だよなぁ」

「……おう」

 こういう時の返しが未だにわからなくて困る。俺は俯いたまま、アキラの言葉を噛み締めた。


「先輩! お疲れ様です!」

 自転車置き場で待っていたのは高梨だった。でも彼女が待っていたのは俺じゃない。アキラだ。

「じゃあ、行こうか」

 アキラが差し出した右手を、高梨の左手は一切の躊躇なく受け止めた。俺はそのやりとりを横目に自転車のロックを外す。

「はいっ」

 やなぎ先輩、さようならと高梨が振り返り右手を振った。俺も自転車を押しながら手を振る。

「アキラ、また明日」

「おー」

 アキラの後ろ姿が光に縁取りされて、夕焼けに溶けていく。溶け切って見えなくなるまで、俺は目を逸らせなかった。



 翌朝も俺は自転車を漕いで学校へ向かった。朝練にはいつも通り一番乗りで、しばらく水に浮かんでぼーっとするのもいつも通りだ。

 朝の太陽はまだ涼しさがある。もちろん水越しに見る時のような優しさとは比べられないけど。

 不意に水音がした。薄い水を踏む足音だ。気になって起き上がると、プールサイドに見知った奴がいた。

「お前、来んの早くね?」

 Tシャツに半ズボンという身軽な格好で覗き込んでいる。制服を着替えてはいるが水着を着ているわけではないので、練習する気があるようには見えない。足はクロックスを履いていて、やはり身体を濡らすのが嫌なのだろうなと思った。

「……アキラこそ」

「いつもそうやって浮いてんの?」

「まぁな」

 いつも浮いている、というのも変な言い方だが。

「へぇ。神々の遊戯って感じだな」

「アキラは何しに来たんだよ」

「俺? 別に。気が向いたから」

 にっこり微笑むアキラはそのままどこかへ行ってしまった。俺が泳いでいる間も、時折プールサイドを気ままに歩き、髪を靡かせ、遠くを見つめていた。俺はずっと泳いでいた。


 ピンクのバインダーを胸に抱えて、高梨は大きく手を振った。反対側にいる俺にも聞こえる、よく通る声だ。

「柳先輩ー! そろそろ練習終わった方がいいかもですー!」

 もうそんな時間か。

「ありがとうー!」

 しかし返事をすると、高梨は俺の方に歩み寄ってきた。俺に思い当たる節はなく、戸惑う。

「柳先輩、今日の昼休み空いてますか?」

「……練習する予定だったんだけど」

「あぁ、そっか。そうですよね。じゃあ今でもいいんですけど、時間ないですよね?」

 確かに、今からは着替えて教室に向かうほどの時間しか残っていないが。

「それってなんか人に聞かれたくない感じ? 俺が着替えながらでもいいんなら、ドア越しに聞くけど」

「えーっと、そうですね。聞かれたくはないんですけど……」

 高梨は辺りを右左と見渡す。

「わたしたち以外いないですよね」

「ま、そうだな」

 アキラはいつのまにかどこかへ行ったらしい。どこまでもマイペースな奴だ。

 ふと、一つ気づいたことがある。高梨は決して不真面目なマネージャーというわけではない。しかし、アキラがいないのにこんな時間まで残っていたのは、つまり俺に話をするためなのだろう。

「じゃあ、ドア越しでいいので聞いてください!」

 俺は軽くシャワーをくぐり、タオルを片手に更衣室へ入る。

 高梨は、一枚の薄い壁を隔てて俺のそばに座った。


「……柳先輩は本当にすごいですね」

「何が?」

「水泳の才能が、です。わたしは柳先輩ほど才能に溢れた選手を知りません」

「それは、ありがとう」

 タオルで拭くと、髪がキシキシする。相当傷んでいるのはわかるが、特に問題は感じていないのでそのままにしている。

「で、何の話?」

 高梨が俺を褒めるためだけに引き留めたとは考えづらい。小さなため息が聞こえた。

「最近、アキラ先輩大丈夫ですか?」

 やっぱり。高梨と俺の共通の話題はアキラしかないと思っていた。

「アキラ? なんでそう思ったんだよ」

「どんどんタイムが落ちてます。それに出席率もなんだか悪くなってるように思います。監督にも注意を受けている姿をよく見かけます。それで……」

 なるほど。高梨が言いたいことがわかった。

「それで、アキラがそうなったのは俺のせいだと?」

「……ごめんなさい。お門違いなのはわかってるし、柳先輩とアキラ先輩が仲良いのもわかってるんですけど」

 後半については間違いだが、それを今訂正するのはややこしい。

「……柳先輩はもっと天才を自覚すべきです」

 高梨の絞り出したような声に嫌気が差して、俺は脱いだ水着を力一杯絞った。びしゃびしゃ水が垂れて、制服のの裾を濡らす。でもそんなことは構わない。

「アキラは大丈夫だよ」

 根拠のないどころか悪い方向へ進めるような、悪魔の言葉だ。俺は今、どんな顔をしているのだろうか。男子更衣室には鏡がないから確かめようがない。

 アキラを狂わせてる張本人が何言ってんだよ。

「……本当ですか?」

「ああ。どうせすぐ復活するよ。だから、それまではさ」

 俺は意識的に優しい声を作る。声に合わせてきっと表情も優しくなっているはずだ。襟を正して、ネクタイを締める。

「お前がアキラのこと見ててやってよ」

「はい」

 春風みたいな柔らかい声が返ってくる。

 ああ、よかったなアキラ。

 お前、どんどん惨めになっていくな。



 アキラと高梨がこんな関係になったのは一ヶ月ほど前からだ。その事情も経緯も詳しくは知らない。ただ、偶然聞いてしまった、あの日の二人の会話がずっと脳裏をちらついている。


「高梨……。俺もう無理だ」

「……先輩」

「なんであいつみたいな天才がいるんだろう。……俺、もう……」

 しゃがみ込むアキラを高梨が抱き締める。

「わかりますよ、その気持ち。ほんの少しかもしれないけど。……わたしだって、本当は選手になりたかった。でも、それが叶わなくなっても、水泳から離れることは考えられなかったんです」

 二人分の嗚咽が聞こえる。

 俺は呆然と立ち尽くしていた。



「おーお疲れさん、エース」

 教室に入るとスパンコールみたいなアキラの声が降ってきた。アキラの周りの奴らも「お疲れ」「毎朝大変だな」と手をひらひらさせる。

「アキラ、お前何してたんだよ」

「お前を見てたって言ったら?」

「キモい」

「うはははっ! そりゃそうだ。俺だって言ってて吐きそうだった」

 わざとらしくオーバーなリアクション。多分、本当に俺を見ていたんだろうなと察した。

 部活外でのアキラは、言葉通り太陽みたいな奴だ。ギラギラ輝いて、溢れんばかりのエネルギーで周りの人を巻き込んで、いつもクラスの中心にいる。一年の時もそうだったらしいが、クラスが違ったので俺は知らない。

 俺は未だに部活の中と外でのアキラのギャップに戸惑う。



 なんてことない日々が続く。

 朝起きて、学校に行って、泳いで、眠気を噛み殺して授業を受け、途中の休み時間に飯を食って、昼休みは泳いで、午後の授業はだいたい諦めて寝て、放課後になったらまた泳いで、自転車置き場でアキラと別れて、その後ろ姿を見送ってから家に帰り、風呂に入って、飯を食って寝る。

 馬鹿みたいに同じことを繰り返した。でも明らかに変わったことが二つ。

 一つ目はタイムが縮んだこと。この調子だと来週の大会で良い記録が出せそうだ。

 二つ目はアキラだ。部活には来てもほとんど泳がなくなった。教室では相変わらず太陽で、俺は憧憬と羨望の目でアキラを見ていた。しかし、部活の方では日に日に枯れていく花のように、仕草も表情も弱々しく見えた。

 そして今日、アキラは水泳部を辞めた。



「……お前がいてくれて良かったよ。お陰で俺は水泳を辞めることになった。本当にありがとう」

 もう何も感じていないような瞳で、俺にそう言い残して部を去った。

 同時に高梨も辞めた。どうせ理由はアキラだろう。



 翌週の大会で、俺は大会新記録を出した。

 泳ぎ終わって強く実感した。部活でアキラが輝いていなかったのではない。俺が水の中にいたから霞んで見えたのだと。



 大会の翌朝も俺は一番乗りにプールへ入り、空を見上げてしばらく浮いていた。アキラはもう来ない。

 俺はアキラのことを考えた。

 アキラは水泳において凡人で、その上努力もしない奴だった。水がかかるのが気になる程度にしか水の中にいなかったのだ。水泳を辞める時だって、「辞めることになった」とまるで自分の意志ではないように言った。あの言葉は、アキラとしては精一杯の皮肉だったのだろう。俺には皮肉られる要因もないが、それでも俺がそれを気に病んでしまうことを望んで言ったはずだ。

「……ふっ……ふふ」

 馬鹿だと思った。だって、そんなことをしなくたって、俺はアキラを愛しているのに!

「……ははっ、うはははは……っ!」

 俺の笑い声に響くように水面が揺れる。

 高梨と傷を舐め合って、どんどん低いところへ堕ちていった。馬鹿だなぁ。本当に。

 俺を気にして泳げなくなったことを高梨に言ったせいで、高梨はその俺にお前のことを話した。どんな気分だ? 惨めだろ。辛いだろ。死にたいとさえ思うだろ。そのことで頭はいっぱいになって、練習なんて手につかないよな。

 お前が俺に勝てるわけがないだろう? 凡人で努力もしないお前が、どうして努力する天才に勝てると思う? どうして自分が悩んでいる間に俺が一秒でも長く練習していないと思う? 馬鹿だなぁ。馬鹿だなぁ。

「……はーっ」

 一通り笑い終えて、俺は泳ぎ始める。

 明日へ繋がるひと掻きを。

 凡人を蹴散らす才能を。

 ゴーグルの中に雫が溜まって、太陽が滲む。

 部活内には色恋を持ち込まない。それが俺を強くする。憧憬も羨望も嫉妬も独占欲も、水の中では霞んでしまう。俺はそのことを誰よりも知っている。

 俺は止まらず泳ぎ続けた。

 もっと速く、もっと強く。

 頭上の太陽を掻き消すまで。

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