第2話
午前8時40分を過ぎた頃、教室の斜め左の廊下から教壇の横のドアに慌てた様子で向うスーツ姿の男が現れた。その男の姿が二年3組内の生徒の視界に入ると、騒がしかった室内が一気に静まり返り、身体は教壇を向いた。
「みんな、遅れてすまなかった。少し事情があってな」
頬から汗を流しながら教壇に立った男は室内に行き渡る声でそう告げた。すると教壇から見て教室の奥の席から手が上がった。
「なんだ、今村」
今村はにやけた顔で腕をまっすぐ上に上げていた。教壇の男はそれに苦虫をかみつぶしたような顔して対応した。
「林ハヤシ先生!事情ってなんなんですか!
俺らより大切なことがあるんですか!?」
今村は強気にそう言いながら、拳を握りさも怒りを感じているかのように自分の机に上から振り下ろし、ダンっと底音を立てた。その音に自然とクラスの視線が集まっている。
このクラスの担任教員、林ハヤシはそんな今村を見て呆れた表情をすると口を開いた。
「あのなぁ〜、今村。
いいか、断言するぞ!俺にとってお前らより大事なものなんか、、、
な、、、、」
林はそう言いかけて止まった。顎を引いて息をためている様子だ。
そんな林先生に注目は向いていた。
数秒の時が流れた、、そしてふと、顎を上げ、正面を向いた林は
「な、、なんぼでもあるわい!!!!!!」
そう今村に負けず劣らずの強気で言い放った。また続けて
「お前な、お前らに教育するのは俺の仕事だ!仕事はもちろん大切だよ、でも仕事は俺にとっちゃ大切なものランキングで、、そうだな、、top9位くらいだな。ということはあと八つ俺にはそれ以上に大切なものがあるということだ。その八つは嫁だったり腹にいる子供だったりするわけだが、、、
とにかくお前らは今の俺とっちゃぁ二の次ということだ。悔しかったら自分で勉強していい大学に入って見返してみろ」
その教員とはまるで思えない発言に二年3組の生徒は呆れ顔を隠さずにいる。
言い終えた教室内は静まり返り、最初に発言した今村は後頭部に手を当て他と同じく呆れた表情をしていた。。
その様子に林という教員は動揺ひとつせず
「よし、わかったか、わかったな」
と言い、満足げな表情をしている。
すると、
『ぷっ』
という笑う前の前兆のような音がした。
その音が教室内に響いた瞬間、糸が切れたように高らかな笑い声が室外までに響いた。
「先生、それはないって」
今村は笑いまじりにそう訴えると
静かだった二年3組の他の生徒たちも微笑みを浮かべながら追従する。
「本当それ」
「どこまでもクズ教師だよね〜」
「仕方ないよ、それが先生の特徴だもん」
「クズ先生〜、早くホームルーム始めてください」
この物言いに林は嫌な顔はしておらず、対極に笑みを浮かべていた。
ざわついた生徒たちを遮るように林が口を開く
「うるさい、うるさい、あと『クズ』はダメだ。いいか、本当のことでも『クズ』は言っちゃいかん。
なぜなら先生の心にダメージを与えるからだ。わかったな。」
どこまでも自分本意な言い分に再び笑いが起きた。
そのやりとりは一教師と生徒の関係というよりは師匠と弟子、または歳の離れた兄弟のような関係の方が近かった。それはこの林という教師も三叉村で生まれ育ち、クラスの生徒大半を生まれた時から知っている。そして信頼関係があるからこその態度なのだろう。
林は『はぁ』と一息つくと、最初とは違い、真剣な顔つきになり
「遅くなったがホームルームを始める。全員起立してくれ」
その声色もさっきとは違い、低く重い発声だった。。。
林の令で沸いていた教室内は落ち着きを取り戻し、ホームルームが始まった。ホームルームでは村内の出来事や一週間後に始まる夏休みについて語られた。
「よし、つまらない話はこれで終わりだ。続けて一時限目の授業を始める」
「え〜、なんでですか先生」
「十分休憩はとらないんですか」
「先生が遅れたんですよ!」
時計は9時を少し過ぎており、ホームルームと一時限目の間の休憩をとる時間はなかった。そのことに生徒たちは野次を飛ばす。
そんなとき、どこからかブルブルという反復音が鳴った。生徒たちは辺りをキョロキョロと見回し音の出どころを探す。すると、
ピッ
「あ、もしもし、どうしたのママ〜」
教壇でポケットに入っていた携帯を出し、取った林。その顔はすごくにやけており、生徒たちの視線は自然とそこに集まった。
「え?もうすぐ生まれるって?
うん、うん、わかった。今すぐ行くよ。仕事?いいんだよそんなこと。君の方が大事なんだ。うん、じゃあね。愛してるよ」
電話が終わると林は真剣な顔つきになり、教壇から教室を見渡すと
「ええ、一時限目は英語の予定だったんだが、急用ができたので自習とする。
あと私は今日は戻らないと思うので、サヨウナラ! 」
では、と林は足早に教室を後にした。そして教員がいなくなった二年3組の教室は必然的の騒がしくなった。その中で窓際の隅だけは静まっており、奈多羅はここぞとばかりに持参した問題集を開き、森山蒼葉は相変わらず本を読んでいた。。。
教室は真夏だと言うのにエアコンは着いておらず、年季の入った扇風機が教室の前と後ろに一台ずつ付いていた。それでも窓から入る山からの風は冷たく心地よい風で、文句を言うものはいない。。。
時間は過ぎていき、一限目も終わりが近づいていた。問題を解いていた奈多羅も付箋を挟み問題集を切り上げようとしていた。そのときだった、
「神空君、、聞いていいかしら」
奈多羅の耳にいつもは聞こえない方角から小さな声が聞こえた。
奈多羅は声の方角に視線を移すと森山蒼葉の視線は今までと変わらず本に向いていた。
「お前、今、俺になんか言ったか」
「ええ、いったわよ」
視線は本に向いているが小さな唇は動いている。
「お前から話しかけるなんて珍しいよな」
「そう?あなたにあまり用事がないからかしら」
その言葉にどこかがっかりした奈多羅だったが平然を装い滅多にない彼女との会話を続ける。
「それで、なんだ聞きたいことって」
「ええ、そうね。
昨日の夜、小さい生き物に心当たりはある?、例えば、虫」
『昨日の夜』と『虫』で奈多羅に思いつくのは一つしかなかった。昨日のゲジゲジ(ムカデ科)のことをなぜ彼女が知っているのかという疑問を持った奈多羅だが、聞きなれない彼女の美声に心揺さぶられ、問うことはできなかった。
「ああ、あれか。あの足が沢山あるやつなら見たぞ
ええっと、ゲジ、、」
「ゲジゲジ」
「そう、ゲジゲジだ。それが出てきて、追ったけど逃げられた。『昨日』と『虫』で思い浮かぶのはこのくだらない話くらいだな」
「そう、わかったわ。ありがとう」
虫が相当苦手だった神空奈多羅だが、わざとらしい様子でさも平気そうに平然と語った。それを横目に見ていた森山蒼葉は終始表情一つ変えず、答えを聞くと軽くお礼を言い再び本に視線を落とした。
そんな彼女の様子に『もう少し話していたい』という淡い感情が奈多羅の心に湧いた。そして他に話題がないかと頭で探すうちにそもそもなぜ彼女が昨夜のことを知っているのかと言う疑問が浮かぶ。
「なあ」
キーコンカーコン、キーコンカーコン
なあ、と問おうとしたときちょうど一時限ものチャイムが鳴った。その瞬間二年3組の生徒たちは自分の席をたち、さらに騒がしくなった教室内に奈多羅は質問の機会を失った。すると、
「よ、神空君。次音楽室だぜ、一緒に行こうぜ」
柏カシワ諭サトルだ。諭はさわやかに奈多羅を音楽室に誘った。音楽室は第一画棟の一階の右端に位置しており、教室からかなり離れている。そのため三年2組の生徒は音楽の授業がある前の授業が終わるとすぐさま音楽室に向かっていた。
「おう、行くか」
奈多羅は仕方なさそうに教室を後にし、音楽室に向かった。
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