さすだけのカンケイ
いかろす
さすだけのカンケイ
「いくよ」
「ええ」
ちょっと呆けて聴こえる「ええ」を受けて、彼女の顔をじっと見つめる。ぱっちり開いた目はいつ見つめたって吸い込まれそうな感じがして、つい逸らしそうになってしまう。もう何度目だと思っているんだ。きっと永遠に慣れることはないんだろう。こんなこと、そう何度もあるわけじゃない。
水滴が、落ちる。
ぴしゃっ……と弾けて、開いた口から声が漏れる。
「はい、次右目」
「ええ」
やはり、呆けた風な返事。いつもそう。彼女は目薬を差すとき──いや、差してもらう時、いつも口まで開けてしまう。
目薬を右目の上に移動させ、ちょっぴり力をこめる。ぷくっと出てきた水滴が落ちて、彼女の眼球で弾ける。目をぎゅっとつむると、同時に彼女は口を閉じた。目薬を味わってるみたいだな、と思ったりする。
「ありがとう」
「あいよ」
こんなやり取りを、クラスメイトたちはどんな気持ちで見ているんだろう。いつだって変なモノは見ている側だったのに、いざ見られる側になるとよくわからない。差してほしいと言われているから差している、それだけだ。
後ろの席の
ただ、それだけ。
◇
世界が違う、と肌で感じることは珍しくない。
スポーツ観戦やアイドルのライブがいい例だ。同じ空間に居るはずなのに、まるで別世界。努力と才能って書いてある透明な壁があっちとこっちを隔てている。そんな感覚だ。
それを学校の教室の、すぐ後ろで感じるというのは、結構珍しいことだと思う。
まさに肌感覚だった。高校入学直後の自己紹介。平々凡々な山田の自己紹介が終わった直後のこと。
「
ウッソだろ、と心の中でツッコんだ。名簿は見ていたからそういう名前の人が後ろに居るのは知っていたけど、声に出されるとさすがにビビった。夜明けの凛々しい華て。親の顔が見てみたい。
夜を溶かしたみたいな艶のある黒髪に、目鼻立ちの良いきりりとした顔。完成度が高いな、と思ってしまう。背筋のしゃっきり伸びたスレンダーな体を包むブレザーは、なぜだかわたしが着ているそれと同じものと思えない。
名前のイメージにぴったりのような、そうでもないような印象だった。名前なんて本人と関係ないのはわかってるけど、この子の夜明けってなんなんだろう。
しとやかな声でさらさらと自分のことを述べると、ピンと筋の通ったしなやかな動きで椅子に収まる。ついその動作をじっと見ていたら目が合ったので、咄嗟に逸らした。みんなに混じってわたしも拍手を送る。いいもの見せてもらいました、という拍手のつもりで。
クラスには中学からの友達が居る。その子と、その子がとっ捕まえた友人と過ごせばとりあえずの高校生活はなんとかなるだろう。持つべきものは友達。その子達と休み時間をくっちゃべりに浪費しながら、視線はついつい夜明さんの方に向けてしまう。
一人、窓際の席で黄昏れる。そんな姿に、やっぱり完成度高いな、と思わされる。どうやったらあんな風に仕上がるんだろう。でもあんな風になれて本当に嬉しいのかな……などと思っていると、なにをボケっとしてるのかと友人に取り沙汰される。後ろの席の美人を拝んでましたとは言えない。
休み時間は素早く去っていくので、わたしは席に戻る。オリエンテーションという地味に退屈な時間を経て、次の休み時間へ。
「山田さん」
不意に、知らない声。いや、知らなくはない。予想外すぎて知らないと感じただけだ。
「……夜明さん?」
後ろから声がかかる日が来るなんて思ってもみなかったものだから、ちょっとだけ声が上擦った。
「その……目薬を、さしてもらえない?」
「はい?」
「これを」
夜明さんのしなやかな指でつままれている青い容器。見たことのない形だったけど、それは確かに目薬で。
「……さすの? わたしが?」
「嫌ならいい」
「いやぜんぜん。やる、やるけど」
彼女の指から目薬を受け取る。ひんやりした指。もうフタは空いていて、あとは目にさすだけだった。
夜明さんはすっと上を向いた。顎のラインが綺麗だった。見惚れている場合ではないので、立ち上がって彼女を見下ろす形になる。
いや、どんな状況だよ──クラス中の視線を浴びながらその疑問を飲み込み、目薬を目の上にセットする。
「差すよ」
「ええ」
その瞬間、夜明さんは目と同時に口を開いた。
つい「んふっ」と笑いを漏らし、ついでに滴る目薬を夜明さんの目と鼻の間にこぼしてしまった。夜明さんの視線が痛い。謝罪と共に、もう一度。
長いまつげにふちどられたブラウンの瞳に落ちる雫。こんな美人に吸い込まれるんだから、目薬だって幸せだろう。両目に一滴ずつ。閉じられた夜明さんの目から、涙のようにこぼれていって、細い指にて拭い取られる。あっけないわずか数秒の中に、芸術を感じてしまうわたしが居る。
「……ありがとう」
感謝の言葉と共に、夜明凛々華は微笑を見せた。
しばらく目薬を手放せず、潤い直後のその瞳に吸い込まれていた。しばらくと言っても何秒かのことだったと気づいたのは、夜明さんから「返して」と催促された時だった。
あの微笑が夜明さんの夜明けなのかな、とか意味のわからないことを考えていたら休み時間は終わっていた。そして次の休み時間から本格的に、わたしは夜明けさんの目薬係になっていた。
◇
ドライアイなの?
そう訊いたところで、たぶん呆けていない「ええ」が返ってくるだけだ。彼女が使っている目薬はドライアイの人がよく使うものらしい。調べたので知っている。
わたしもその目薬にしてみようかなと思ったけど、ベンガルトラみたいな名前の防腐材が入ってなくて長保ちしないらしい。スマホ使いすぎの時冷蔵庫から出して差す程度のわたしに、あいつを使いこなせるとは思えなかった。
「山田さん」
「あいよ」
ひんやりした手から、ぬるい目薬を受け取る。目薬って冷たくしたやつしか差したことがない。ぬるいとどんな感じなんだろう。
目薬、冷たいほうが気持ち良くない?
訊いてみたい気持ちを飲み込んで、彼女の瞳に目薬を垂らす。物欲しそうに開いた口に目薬をさしてみたいと思ったことは一回だけある。もちろん実行したことはないし、試みたところでパクッと閉じてしまう気がした。彼女の口は、目薬を目の上にセットしたときに開くのだ。そういうシステム。
何日か経つうち、クラスメイトたちもこの光景に慣れたらしい。わたしの友人たちも「いつもの儀式」とか言うくらいで変に茶化したりもしない。いや、儀式は茶化してるのか。気分は悪くないから別にいい。
儀式。そのフレーズは少しだけ素敵だ。夜明さんは美しすぎて、お姫様みたいだな、と時々思う。それならわたしは、お姫様に仕える目薬番だ。姫が生きていくために必要な目薬を姫に代わってさす。ただ、それだけ。
目薬させないの? 授業中も目乾かない? 買う頻度多いよね? おすすめの目薬ある? エトセトラエトセトラ。
話してみたいことは湧いてくるけど、すべて飲み込んだ。世界が違う。話しかけるのは、なんか違う。あっちからも話してこないのだからそれでいい気もする。ウィン・ウィンの関係。あれ、わたしなにもウィンしてないのでは。
変だけど、別に構わなかった。損することはないし、むしろちょっと面白い。未だ夜明さんに友達らしい友達が見当たらないのは気になるけれど、目薬係の領分じゃない。目薬を差す、ただそれだけ。
それだけだから、簡単に瓦解した。
「席替えするよ」
担任のなんの気ない一言に始まり、目薬係はお役御免となった。
夜明さんは変わらず窓際。わたしは廊下側の窓際。同じ窓際でも対極で、目薬だって受け取れない。ひんやりした指。ぬるい目薬。いつも通りになりつつあったその温度が急速に離れていく。
休み時間がやって来て、わたしは夜明さんの方をちらりと見つめた。窓の外を見て黄昏れる、完成した姿のお姫様。きっと今、彼女の目は乾いている。潤うことを求めている。
休み時間が半分ほど過ぎた頃、夜明さんは目薬を取り出す。すぐには差さず、じっと見つめている。いつ差すのか。どう差すのか。勝手にハラハラしているわたし。何様のつもりなのか。
結果として、夜明さんは自ら差さなかった。そして、前の席に座る女子に目をつける。
ハラハラが収まって、胸がきゅっとした。せっかく任命された夜明さんの目薬係。誰にでも差させるのか。わたし以外の女に差させるのか。そしてこんなことを考えてるわたし、キモすぎる。
美人の女の子に目薬を差したいなんてヤバすぎる。変態だ。誰しも少しくらいの変態趣味は持ってるだろうけど、目薬はさすがにやばいって。言い出せるわけないって。
それでも、夜明さんから目が離せない。彼女は前の席の女子に話しかけようとしたけれど、直前に前の子は席を立ってしまった。新たな目薬係任命失敗。
次は隣の女の子に目をつける。だが、すぐには声をかけなかった。もう目はカピカピだろう。一刻も早く潤したいだろうに、夜明さんはまだ声を上げない。
そこで、はたと気づく。
目薬をさしてほしいなんて、こんなにも言い出しにくいことがあるだろうか。
もしかしたら、わたしに声をかけてくれたあの瞬間、夜明さんはものすごい勇気を振り絞ってくれていたんじゃないのか。
わたしの手はわずかに震えていた。こんなの勝手な妄想で、クールな夜明さんがなにを考えているかなんてわからない。それが魅力だとも思うし、今は少しだけ怖かった。キモい女だと思われたくない。でも、今のわたしがキモいのは事実で──わたしは立ち上がる。
顔が熱いし足取りは覚束ないし、傍から見たら不審者丸出しな気がしてきたけど正直そこはよくわからない。まっすぐ窓際まで行くことは出来たからたぶん大丈夫。なにが大丈夫かも判然としないけど、わたしは言いたいことをぶちまけることにした。
「夜明さん……目薬、差してもいい?」
いや、違うだろ。
差そうか? と訊けばよかっただろ。これじゃまるで差したいみたいで、いや実際そうなんだけど。つい俯いてしまったばっかりにもうわたしは夜明さんの顔を見ることはできず、一生顔を上げて生きていくことも出来ない気がしてくる。怪奇目薬フェチ女として生きる準備はまだ出来ていない。
「お願い」
いつもの声色で返事が来て、視線を上げると目薬が差し出されている。
「いいの?」
「あなたが頼んだんでしょ」
「ああ、そうだった」
ひんやりした指からぬるい目薬を受け取る。夜明さんの上に目薬をセットすると、やっぱり彼女の口が開いて、乾いた瞳に雫が落ちる。
この時間が、失われていたかもしれない。実感は湧かなかった。わたしと夜明さんのこのひとときが失われることで起きる影響なんてたかが知れていて、たぶん人生に関わるようなことはなくて。
でも、わたしはここに立って目薬を差している。変な勇気を振り絞って腋に汗をかきながら、彼女の瞳を潤している。
「ありがとう」
「……うん」
冷たい指に目薬を渡したら、席に戻るため夜明さんに背を向ける。これ以上ここに居る理由はなかった。席が近いから目薬を差してあげていた。ただ、それだけ。
「山田さん」
もう知らない声ではなかった。
「それとも、
続いた言葉は、聞き慣れない内容だった。
「……名前、覚えててくれたんだ」
おそるおそる振り向いた先で、夜明さんは微笑を浮かべている。
「目薬が差せないからって、記憶力までないわけじゃないよ」
そんな風に喋るんだ。頭いいもんね。目薬上手く差せてるかな。いつも窓の外のなにを見てるの。わたしを山田って呼ばなかったの、家族以外であなたが初めてだよ。
窓際の席の夜明さんは、自分で目薬を差せない。だからわたし、山田が休み時間に差してあげている。ただ、それだけ。
今はまだ。
さすだけのカンケイ いかろす @ikarosu000
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます